今や大勢の観客を集め、北海道を代表する夏祭りとなった『おたる潮まつり』。
『おたる潮まつり』誕生の歴史がとてもドラマチックなのだ。
三波春夫に『潮音頭』を歌ってもらうことに成功した逸話も凄いし、『ねりこみ』を短期間で完成に導いた最古参師匠の一言が、これまた涙が出るほど感動的だ。
商工会会長が奮闘した潮音頭の誕生秘話と、振り付け完成までの女たちの意地。
毎年、溢れんばかりの観客を魅了する『潮まつり』だが、その陰には幾多のドラマチックなエピソードが隠されている。
あなたは、熱く胸にせまる『おたる潮まつり』の人間ドラマをいくつ知っていますか?
おたる潮まつり誕生秘話の世界にあなたを招待しましょう。
おたる潮まつりの歴史と『潮音頭』がレコーディングされるまで!
第1回『おたる潮まつり』は昭和42年(1967年)に開催されているが、その歴史は『みなと小樽商工観光まつり』にさかのぼる。
『みなと小樽商工観光まつり』は昭和34年(1959年)から開催されていたが、市民からの評判は決して良いとは言えなかった。
開催期間が1週間にも及び、確かに商店街は大いに賑わいを見せたが、市民には商工会のための祭りとしか映らなかったのだ。
もともと産業振興を目的としていたため、実際に市民参加のお祭りとは言い難く、小樽市民の感想は手厳しかった。
・総花的で印象が薄い
・企画が不在
・小樽ならではの特色が乏しい
・市民に密着していない
このような声が年々強まっていくのだった。
これは何とかしなければならない。
商工会議所の首脳は頭を悩ませた。
やがて小樽商工会議所が中心になり、本格的な市民参加型の新しいお祭りを立案することになったが、企画を任されたのは当時30代の若者10人だった。
血気盛んで発想豊かな若者だけのグループは議論は百出するものの、まとめることができずに日々はどんどん過ぎて行く。
見かねた当時の商工会議所会頭が言った。
「阿波踊りのような、市民が誰でも踊れるような祭りにしてはどうか」
その提案に沿う形で企画は一歩前進したのが、この時点では祭りの主題歌を三波春夫が歌うなどという発想は欠片もなかった。
10人のうちの一人が四国の徳島まで飛び阿波踊りをじっくり観察し、「これだ!」と手を打って企画はようやく具体的に動き出したのだ。
おたる潮まつり『潮音頭』のレコーディングが実にドラマチックだ!
おたる潮まつりのメイン曲『潮音頭』を三波春夫によってレコーディングされるまでの経緯が、何ともドラマチックなのだ。
阿波踊りと小樽の海をイメージしながら、まずは踊りの楽曲用に詞を作らなければならない。
小樽でタウン誌「月刊おたる」を発行し、詩人でもあった米谷裕司氏が作詞を快諾した。
次は曲である。
企画がまとまったのが昭和42年(1967年)1月を過ぎた頃で、新しいお祭りはその年の7月開催でスケジュールは組まれていた。
開催まで半年しかなかったので、振り付けなどを考慮すると2か月以内でレコーディングを終わらせる必要があったのだ。
と同時にかつての繁栄を取り戻す起爆剤とするために、ここはプライドにかけて日本を代表する歌手に歌ってもらいたい。
その願望は関係者のほぼ全員に一致していた。
昭和39年の「東京五輪音頭」で国民的歌手の地位を不動のものとしていた、三波春夫に白羽の矢が立った。
商工会議所会頭、木村圓吉氏は東京へ飛び三波春夫の事務所を訪ねたのだが、
「うちの先生は2年先までスケジュールが埋まっていて、今年中のレコーディングはとても無理」と関係者はにべもない。
しかし、ここでおめおめと引き下がるわけにはいかなかった。
木村氏はレコード販売において北海道で大きなシュアを占め、当時は歌謡界に多大な影響力を持っていた玉光堂の八木社長に面会を求め、紹介状を書いてもらうことに成功する。
再び上京すると八木社長の書いてくれた紹介状は、やはり威力が凄い。
三波春夫の事務所は二つ返事でOKを出したのだった。
八木社長を通じて三波春夫のスケジュールを把握した木村氏は、即座に三度目の上京を果たす。
東京に着いたその日のうちに作曲家、春川一夫氏に曲作りを依頼し、次の日にはスタジオで三波春夫も交えて曲を完成させ、レコーディングも無事終了した。
この時、隣のタジオでは同じティーチクに所属する石原裕次郎が『夜霧よ今夜もありがとう』を収録していた、というエピソードまで残っている。
こうして『潮音頭』のレコード1千枚は半月余りで出来上がった。
さて、残すは振り付けである。
しかし、これがまた超難関だろうと誰もが予想した。
おたる潮まつりの『ねりこみ』を短期間で完成させた最古参師匠、感動の一言!
おたる潮まつり『ねりこみ』創作の第一回会合で小樽花柳界の最古参師匠が放った一言は、会場に集ったすべての者に衝撃を与えた。
おたる潮まつり歴史で、最も感動的なエピソードと言えるだろう。
祭りの実行委員会は、日本舞踊の各流派共同で『ねりこみ』の創作に当たるよう依頼した。
だが、気位の高い小樽の花柳界が簡単に一つにまとまらないのではないかと、危惧したのも事実だ。
小樽は明治から大正にかけての最盛期、500人もの芸者が夜の宴席に花を添えていたのだという。
その芸者をはじめ、飛ぶ鳥を落とす勢いの富豪や良家のご婦人、お嬢様に舞踊を教えていたのだから、師匠たちのプライドたるや想像を絶するものがあったのだ。
たとえ流派は同じであっても師匠が違えば、弟子たちは口を利くのも許されない厳しい世界であったと伝えられている。
これを短期間で一つにまとめるのは至難の技だ、誰もがそう思った。
さりとて、誰か一人の師匠に託せば後々の反発、分裂は目に見えている。
商工会議所に他の選択肢はなかったのだ。
残された時間には限りがあり、関係者の不安は募る一方だ。
しかし、心配は杞憂に終わった。
感動のエピソードは、花柳流、藤間流、創作舞踊などの各派が勢ぞろいした第一回会合だった。
その場に臨席していた最古参の師匠が自分の弟子たちに放った一言は、流派を超えて奮い立たせるには充分であった。
「小樽のためなら、どんなことでも協力しなさい。
お世話になった小樽に恩返しするために、命も投げ出すつもりでやり遂げなさい」
一芸の習得に生涯を捧げた人の、魂に触れたような思いがする一言ではないか。
涙が出るほど感動的な言葉は、創作に携わる関係者の心をたちまち一つにしたのだった。
プライドとプライドが激しくぶつかり合いながらも、振り付けは早々に完成し練習も十分に積むことができたのだ。
こうして、昭和42年(1967年)7月には、第1回おたる潮まつりが華々しく開催される。
街を彩った潮ねりこみは小樽の人々に興奮と感動を与えたのだった。
おたる潮まつりの『ねりこみ』はミス潮の二人と役員梯団が先導し、そのすぐあとには日本舞踊各社中が続き、毎回一寸違わぬ艶やかな踊りを披露する。
この日本舞踊各社こそが『ねりこみ』創作時の精神と、おたる潮まつりの歴史をしっかりと引き継いでいるのだ。