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杉良太郎が能登半島地震の避難地で炊き出し!養子の数が170人超の理由は?

波乱の人生

杉良太郎の行動力には、誰も適いません。

御年79才。

 

2024年1月19日、能登半島地震の避難所である石川県金沢市「いしかわ総合スポーツセンター」で、杉良太郎が炊き出しを行いました。

 

寒風の中、自ら考案したメニューの肉うどんを約300人に振る舞ったのです。

デザートに出された苺のヘタを包丁で、ひとつずつ切り取る細やかな気遣いまで見せました。

 

杉からうどんを手渡された70代の避難女性は「顔を見ただけで元気が出ました」と感激。

車いすに乗った80代女性は杉の右手を両手で握り締め、号泣していました。

 

ある記者が、笑いながら問いかけます。

「また偽善と、言われませんんか?」

 

彼は答えます。

「そんなことはどうでもいい。偽善とでも、何とでも言わせておけ」

肚の据わり方が違うのです。

 

 

杉良太郎はボランティア活動に数十億円の私財をつぎ込んでいます。

そして、ベトナムにいる養子が170人を超えたと言うから、実に驚きです。

 

流し目で一世を風靡した杉良太郎ですが、彼の人生は叩き上げ芸能人に多く見られる波乱万丈とは少し趣が違います。

 

彼は1944年8月14日、神戸市に生まれました。

今年79歳になったのですが、若いですよね。

 

とてもそんな年齢には見えません。

その杉良太郎が70歳を過ぎた頃、このように人生を振り返っていました。

 

「芸能界に入って悩んだことはないけれど、ボランティアでは2回も3回も死にたいと思ったことがある」

 

「福祉の現場では、自分の無力さを突きつけられるんだよ。もっと力があったら助けられるのに・・って、それで自分を責めてしまう」

 

この言葉が彼の人生をよく表しています。

ボランティア活動を抜きに杉良太郎を語ることはできません。

 

今回は歌手・俳優で大活躍しつつ、ボランティア活動に熱心な杉良太郎に迫ります。

 

気になる再婚相手、歌手・伍代夏子との出会いについても調べましたので、どうぞゆっくりしていってくださいね。

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杉良太郎のボランティア活動と出世作『遠山の金さん』!

杉良太郎は芸能界入りする以前の15歳からボランティア活動に励んでいます。

ボランティア活動の出発点となったのは、日本国内の刑務所を慰問して回ることでした。

 

そして、彼の出世作になったのがテレビドラマ『遠山の金さん』です。

この時代劇は、あの田中角栄さんも大ファンだっといいます。

 

杉良太郎は1965年に日本コロムビアから歌手デビューします。

だが、歌は全く売れません。

 

1966年には日活に所属し、歌手と俳優の二足の草鞋を履きます。

何本か映画に出演しますが、これもまったくヒットしません。

 

芸能界では悩んだことはないという彼ですが、それでも2年間のどん底を味わっています。

売れなかった2年間はカレー屋さんで働きながら、食いつなぎました。

 

休日は元旦だけで、食事は賄のカレーだけという日が続いたのです。

 

転機が訪れたのは1967年のことです。

NHKの時代劇『文五捕物絵図』で主役に抜擢されます。

 

これで演技が認められ1970年には映画『花の特攻隊 ああ戦友よ』で主演を務めました。

ここから彼の歌手、俳優人生は順風満帆に滑り出したのです。

 

 

 

1976年には当たり役『遠山の金さん』で主役の遠山金四郎を演じます。

 

この主題歌『すきま風』がシングルレコード100万枚の売上を記録し、流し目の『スギリョウ』は一挙に大スターへ駆け上ったのです。

 

遠山の金さんに関してとても面白いエピソードが残っています。

 

杉良太郎はこのころからすでに、熱心なボランティア活動を通じていろんな政治家と付き合いがありました。

 

その一人に田中角栄元首相がいます。

「医者とか政治家とか、頭を使う連中はああいう勧善懲悪のドラマが一番いいんだ」

そう言って、角さんは毎週欠かさず遠山の金さんを観ていました。

 

それからは杉良太郎と会えば「金さん」と呼ぶようになってしまったのだとか。

その後は、何度会っても「杉さん」と呼ばれることはなかったのでした。

 

角さんは、よほど『金さん』がお気に入りだったのでしょう。

このように杉良太郎は政治家の中でも多くの歴代首相と付き合いがありました。

 

田中角栄を筆頭に福田赳夫、竹下登、橋本龍太郎、小渕恵三などそうそうたる顔ぶれです。

安倍晋三元首相のお父さんである、安倍晋太郎ともかなり仲が良かったと言います。

 

では、なぜ彼がそれほどまでに大物政治家と親しいのかと言えば、芸能界入りする前から取り組んでいたボランティア活動が理由です。

 

彼は15歳のころから日本国内の刑務所を慰問して回るボランティア活動に励んでいます。

杉良太郎のボランティアは本物だから、世間の評価は気にしない!

杉良太郎は1980年ごろから、東南アジアまで活動の場を広げました。

特に力を入れたのはベトナムです。

 

初めてベトナムを訪れたのは1980年代の後半でした。

孤児の養護施設を訪れたとき、食事を見て大きな衝撃を受けます。

 

子どもたちが食べていたのは、わずかなご飯に草を混ぜたようなおかゆでした。

だが、食べ物とは思えない、そのひどい臭いはどこかで経験したことがあります。

 

そう、デビュー前だった15歳のときに慰問で訪れた日本の刑務所と同じ匂いがしたのです。

杉良太郎がお土産に持参した菓子を差し出すと子どもたちは大喜びします。

 

けれど、一人だけ寂しそうにしている少女がいました。

 

通訳を介して話しかけると

「お菓子なんかいらない。お父さんとお母さんがほしいの」と言ったのです。

 

この言葉を聞いて、彼は衝撃を受けます。

40歳を過ぎていた大の男、杉良太郎は建物の外に出て一人むせび泣きました。

 

このとき、彼は決心します。

この子の里親になることにしたのです。

 

つらい境遇にある子供たちにも生まれてきた喜びを与えてあげたい。そんな思いが彼を突き動かしたのです。

 

戦争の大きな爪痕が残るベトナムには両親のいない子どもがたくさんいます。

ベトナムを訪問するたびに里子は増えて、現在では170人を超えました。

 

年に数回しか会わないが、里子はみんな杉のことを本当のお父さんのように慕いなついているのです。

 

奥さんである歌手の伍代夏子が一緒に行くと「お母さん」と言って抱きついて甘える子が何人もいます。

 

最初の里子となった、グエン・タン・ガーさんは40歳をすぎました。

結婚して2人の子どもの母親です。

 

そんな彼女も伍代夏子に会うといまも「お母さん」と抱きついてくるのだと言います。

杉良太郎がベトナムに寄付した私財は20億円を超えました。

 

阪神淡路大震災や東日本大震災など日本国内でも多くの慈善事業に携わり、彼の寄付した総額は数十億円にのぼると推定されます。

 

「スギリョウ」は本当にスゴイ男なんです。

だから、彼が多くの政治家と親しいのは、野心があるからではありません。

 

杉良太郎が築いた東南アジアのパイプを利用したくて政治家から近寄ってくる場合もあるし、国際的にボランティア活動を続ける杉にとっても決してマイナスにはならないのです。

 

例えば、海外へ寄付するときなど、法律的な問題の解決には政治家の力が必要になります。

そして、なんといっても杉良太郎の人間的魅力が多くの政治家を引き付けるのです。

 

安倍元首相とは2017年のベトナム訪問へ同行した他、複数回にわたり東南アジアを歴訪した仲です。

 

だが、世間は姦しいもの。

スギリョウのやっていることは売名だ、偽善だと批判する人はたくさんいます。

 

中には「芸能人はお金があっていいですね」

 

と冷やかしとも、妬みともつかない皮肉を言う首相経験者もいたというから、ちっちゃい政治家もいるものです。

 

実は芸能人にも杉良太郎を「偽善者」だと言って嫌うものが大勢います。

政治家にも芸能人にもゲスな奴はいます。

 

自分のできないことをやってのける杉への嫉妬でしょう。

ヤフコメやTwitterを覗くと本当に多いですね、人の善意や善行を批判するゲスが。

 

この類の人種は内心、このように思っているのです。

「そんな金があるんだったら、俺にもくれよ」

 

実に哀れな人たちなのです。

だが、杉は言います。

 

「社会貢献には確かにお金が必要だ。しかし、お金がなければ活動する時間を提供すればいい。

お金も時間もない人は社会貢献する人に理解を示せばいい。それも立派な貢献だ」

 

このように言って、批判を全く気にするそぶりはありません。

この辺りが本物の証明でしょうね。

 

下手な野心や名誉欲でボランティアをやる人はとても世間の目や評判を気にするものです。

それが彼には全くありません。

 

素晴らしいですね、流し目のオッサンは。

「オッサン」なんて言ったら、ファンに叩きのめされそうなので取り消してお詫び申し上げます。

杉良太郎と伍代夏子の出会いから略奪婚まで!

さて、先ほどから何度か名前が出てきた歌手の伍代夏子が杉良太郎の奥さまです。

二人は3度目にあった直後から不倫関係になります。

 

結果として、伍代夏子による略奪愛でした。

杉良太郎は、1972年に一般女性と結婚し、3人の子どもを授かりますが、1998年に離婚しました。

 

慰謝料は10億円以上だったとも言われています。

その後、翌年の1999年には、演歌歌手の伍代夏子と再婚しました。

 

杉良太郎の離婚から再婚までの期間が短く、伍代夏子の略奪婚だと言われています。

まあ、時系列的にみて、そういわれても仕方ありません。

 

この際、不倫、略奪婚は置いておいて、二人のなれそめが気になります。

 

伍代夏子によると、踊りの師匠から、杉の所作は勉強になるから是非、公演を観に行くように勧められたのだと言います。

 

彼女は師匠の指示に従い観劇に行きました。

その時、杉良太郎の楽屋に差し入れを届けたのが出会いだったそうです。

 

差し入れを受け取った杉は言います。

「次の公演は〇月〇日です」

 

彼女はつられて答えてしまいます。

「わかりました。では、必ず観に伺います。勉強させて頂きます」

ということで、次の公演も観に行くことになったのです。

 

そして、また楽屋へ差し入れします。

そこでまた、次の公演もと言われ、結局、年に3回ある公演をすべて観に行くことになりました。

 

3回目の時には電話番号を交換します。

なんと、それから1ヶ月間は毎日電話をかけあいました。

 

そして、電話デートだけで結婚が決まったのですから驚きではありませんか。

1度も直接顔を合わせるデートはせずに結婚を決めたのです。

 

当時はLINEがありませんでしたから、二人互いに声を聴きながら、どんどん愛が深まって行ったのでしょう。

 

LINEの文字でやり取りするよりは、音声通話の方が良いのかも知れませんよ。

あなたも、もう一度考えてみてください。

 

それにしても『スギリョウ』は大したものです。

得意の流し目を使わずとも、声だけであんな美人の心をとらえてしまうのですから。

 

2022年7月に行われた参議院選挙ではこのように檄を飛ばしていました。

 

「国会は素人議員の研修場所でも学校でもない。選挙で選ばれるとすぐに税金をもらうことになる。

したがって即戦力でなければならない。議員になる前にしっかり勉強して欲しい」

 

まさしく、おっしゃる通りです。

杉良太郎の慈善活動はまだまだ続きます。

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