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コスモス

男と女

東京の夏空は青が薄い。人々の生活なんて知ったことじゃない。そう言っているようで薄情に見える。

だから、これでもかと執拗に濡れた暑さを地上に投つけられるのだろう。鶴岡一馬はそう思うことがある。

 

どこまでも澄みわたる青い空に、白い雲が遠くポツンと浮かぶ北海道の夏が恋しかった。酷暑に耐えながら「早くUターンしなければ」とも考えている。

 

「建設業界や不動産業界はどうしてこうも無秩序なんだろう。ヒートアイランド現象が一層ひどくなるから、もう湾岸エリアに高層ビルやタワマンを建てるのはやめてくれ」と心の中で叫んでいるのだが、自分は建築会社の営業をしているのだった。

 

一馬はこの暑さに負けないよう、忙しい合間を縫って週に二度はプールで泳ぐようにしている。通い始めたのは二ヶ月ほど前からだったが、同じフィットネスクラブでよく見かける一人に桜木あゆみがいた。

 

彼女もまた一馬と同じで、最新のトレーニング機器がズラリと並ぶジムには見向きもせず、もっぱらプールで泳いでいる。

 

スラリとした長身に、いつも黒いワンピースの競泳用水着を付けている。かなり泳ぎ込んでいるように見えた。ゆったりと漕ぐクロールはそのプロポーションとともに目立つ存在だった。

 

一馬がプールの隅で休んでいると、一息入れるため彼女が近くに立ち止まった。

 

「いつ見ても優雅ですね。泳ぎが」と、声をかける。

 

「え、優雅?うれしい!優雅だなんて、初めて言われました」

 

ゴーグルを外した顔いっぱいに、うれしそうな笑みが広がった。思わぬ反応に一馬が少し驚いたほどだ。

 

これをきっかけに二人は挨拶を交わすようになり、泳ぎの合間にプールの片隅で会話する間柄になった。

 

彼女は理工学部の学生に英語を教えている大学の講師だった。論文を書いているらしく泳いだ後も家に帰り、パソコンや資料とにらめっこが続くのだという。

 

「研究者ですか。すごいなあ」

 

「すごくありませんが、一応そのようなものです」と、彼女は白いガーベラのような笑顔を見せる。

 

「泳ぐのはいいですね。夏バテ防止とストレス解消の一石二鳥です」とも言った。

 

二人が言葉を交わすようになり、親しみが増すほどに異常な暑さは少しずつ遠ざかっていく。東京都民はいつしか寝苦しさから解放され、秋は静かに深まっていた。

 

ある土曜日の午後だった。一馬はプールの隅でいつものようにあゆみと話していた。

 

「最近、何かにつけて外国人と会う機会が多いんだけど、英語は全くダメなんだ。ペラペラの人が正直うらやましい。今度、教えてもらえないかなあ」と、あゆみの顔を見ながら言ってみた。

 

「いいですよ。私でよければ、いつでも。」

 

彼女は聡明な笑みを浮かべて、そう答えたのだ。

 

「ええ、本当に。でも、ここで泳いだ後も家に帰って勉強するんでしょ。時間つくってもらえますか。」

 

「はい、大丈夫です。事前に言ってくださったら時間はつくります。」

 

なんてやさしい先生だろうと思いながら、一馬の胸は鼓動した。

 

胸の高鳴りを抑えながら「じゃ、今日帰りに連絡先を教えていただけますか」と聞く。

 

「はい、そうします」

 

「僕は先に上がってエントランス付近で待っていますから。あ、こっちのことは気にしないで、ゆっくりして来てください。では後ほど」

 

一馬はシャワーを浴び、着替えを済ませてエントランス付近で見るともなしに、スマホをいじっていた。

 

「お待たせしました」

 

声の方向を振り向き、無言のまま見入ってしまった。

 

「一瞬、違う方かと思ってしまいましたよ」

 

「私も声をかけようかどうか、ちょっと戸惑いました・・・・」

 

二人のこんなやり取りは不思議でも何でもない。会うのはいつもプールだ。互いに水着とスイミングキャップを着けている。キャップを外して洋服を着た姿を見るのは初めてなのだ。しかもあゆみは化粧を直していた。

 

「美人だとは思っていたけど、桜木さんは本当にきれいな人だ。驚いた」

 

決してオーバーではなかった。本当に驚いたのだ。

 

「ありがとうございます。鶴岡さんもプールより若く見えます」

 

二人は互いに携帯の番号が入った名刺を交換した。

 

「お、あの駅伝の強い大学で教えているんだ」

 

「そうなんです。皆さん、そうおっしゃいます。箱根駅伝の知名度は凄いですね」

 

一馬がお茶に誘った。

 

「はい、少しくらいなら」と、彼女は快く了承した。

 

近くのカフェに着いて、飲み物を注文すると彼女が聞く。

 

「鶴岡さんの英語レベルって、失礼ですがどの程度でしょうか」

 

「う~ん、中学校一年レベルかな」

 

あゆみは、まじまじと一馬の顔を見ながら「まさか」と言った。そして「ごめんなさい」と急に席を立った。

 

「トイレかな、ちょっと様子がおかしいけど」と一馬は思ったが、あゆみは何事もなかったように涼やかな顔で、すぐに戻って来た。

 

「失礼しました」と座り直す。

 

「本当に英語はダメなんですよ。」という一馬に、あゆみは何度か英語で話しかけた。

 

チンプンカンプンだったが、ゆっくりと話してくれた最後の一つだけは分かった。

 

「あなたが飲んでいるのは、お茶?コーヒー?」と英語で聞かれたので一馬は、「コーヒー」と答えた。

 

「最後は分かったようですね。正解です」とやさしく微笑む。

 

あゆみは決して謙遜ではない一馬の、あまりにも低いレベルが、ようやく分かったようだ。

 

「日常で使う英会話を覚えるにはピッタリの教材があります。今度、持ってきます。」

 

あゆみの説明によると、英語はアルファベット通りに発音することが、ほとんどない。そこが日本語の「あいうえお」と全く違うところだ。

 

英語はアルファベットの組み合わせによって発音が変わる。発音にはルールがあって、それを「フォニックス」という。

 

だから、まずはフォニックスを学ぶと英会話を楽しく覚えられる。

 

ざっと、こんな説明だった。そして自分が製作に関わっている、フォニックスの教材を持ってきてくれるというのだ。

 

彼女は英語教育に関する論文を執筆しているのだという。「英語教育論」と「英語教育のカリキュラム開発」が主なテーマらしい。

 

一馬は真剣な面持ちで、あゆみの話に耳を傾けた。分かりやすい説明だった。

 

「ともかく、何でもよいので話すことが大事です。自分の英語が通じたという喜びが、上達を早めます。」

 

「分かりました。教材を楽しみにしています。」

 

それから一時間近くも雑談をし、次の土曜日にまたこの店で会う約束をして二人は別れた。 

 

一週間は、あっという間に過ぎた。

 

語学が全くダメな一馬も、自ら関わった教材を基にあゆみが教えてくれる『フォニックス』は実に新鮮で興味深かった。

 

日本語の基本となる『いろはにほへと』の歴史は古く、十一世紀には使われていたことが分かっている。しかし、現代仮名づかいにそぐわなくなり、千九百四十六年には『あいうえお』に変更されたのだ。

 

対して英語の発音ルール『フォニックス』が考案されたのは、十九世紀初頭と遅かった。

 

あゆみは言語に関する歴史など、さまざまなことを交えて解説してくれた。

 

教材には基本となる発音ルールが分かりやすく書かれている。そして日本語の「あいうえお」とは違って、ルールに当てはまらない例外が多いのも英語の特徴だとあゆみは言う。

 

レッスンは一時間半にも及んだ。

 

「あまり長居しては、お店に悪いから今日はこの辺にいたしましょう。」あゆみが丁寧な口調で言う。

 

一馬が提案した。

 

「先生、次は食事しながらにしません?教材までいただいて、お礼しなければならないことがたくさんあるから」

 

あゆみは少しだけ考えて「お礼はけっこうですけれど、そうしましょうか」という。そして「先生と呼ぶのはやめてくださいね」と、いたずらっ子をやさしくたしなめる小学校の女教師みたいな表情を見せた。

 

「店の予約が取れたら、明日には連絡します。もし、第一候補がダメだったら別な店にしますが、場所はどこでもいいですよね」

 

「はい、お任せします」

 

一馬は私鉄沿線のS駅近くにある寿司屋を予約した。

 

仕事柄、一馬は都内のいろんな場所で食事をするが、中でもこの店はお気に入りの一軒だ。それほど頻繁に足を運ぶわけではなかったが、こじんまりと落ち着いた雰囲気が好きだった。

 

初めて食事を共にするあゆみをもてなすには、店の構造も都合よかった。

 

八人ほど座れるカウンターがメインの店だけれど、玄関を入ってすぐ右手に一組だけテーブル席がある。壁に沿ってコの字型の座席が固定されていて、分厚い一枚板のテーブルをはさみ入り口側には椅子が二つ置かれていた。

 

目隠しや障子はないがカウンターからは少し離れていて、独立した個室のような備え付けになっているから、人目を気にしないで済むのだ。

 

五、六人は楽に座れる席なので、一馬はあゆみと約束したその日のうちに店を訪れ、念のため確認しておいたのだった。

 

「大丈夫だよ。どんなに混んでも、その席は相席にしないから。」

 

いかにも昔気質の職人らしい、ぶっきらぼうな店主の言葉を聞き、安心して予約したのだった。

 

連絡すると「私の住まいのすぐ近くです」と、あゆみは喜んだ。二人は互いに住んでいる最寄り駅を知っている。だから一馬はこの店を第一候補にしたのだ。

 

S駅の改札口付近で一馬は待っていた。

 

あゆみと約束した日から今日まで、一度も泳ぎに行かなかった。プールで彼女と会い「都合が悪くなった」などと、キャンセルされることが怖かったのだ。それほど期待してこの日を待っていた。

 

勤め帰りの人で混雑する中をベージュのパンツスーツに長身を包み、彼女が階段を下りて来る。黒髪がふさふさと肩の近くで揺れていた。姿勢がよく、颯爽としている。水泳のせいだろうかと、一馬は思った。

 

カフェで会った二度よりも、さらに洗練されて見える。手を振った。気が付いてこちらを見たが、あゆみも一度確認するようなしぐさを見せてから、安心したようにニッコリ笑みを浮かべ小さく手を振り返した。

 

「桜木さん一人だけ駅の階段に浮かび上がるように見えたけど、一瞬違う人かと思いましたよ。」

 

「私も、鶴岡さんだと確認するのに少し時間がかかりました。」

 

そう言いながら、互いに笑った。

 

肩が触れ合うほど接近して二人は短い道のりを歩いた。

 

席に着いてビールを少し口にするなり、あゆみは噴き出すように口元を押さえながらいう。

 

「鶴岡さんはスイミングキャップをとると五歳、いいえ、十歳は若返りますね。」

 

「そうかも知れない。高校生の頃から髪をオールバックにすると、三十くらいに見えると言われていたから」

 

「実は初めてカフェに行った時、鶴岡さんの顔を見ていたら、そのことで笑いを我慢できなくなって、トイレに行くふりをして席を外してしまいました。

洗面台の鏡を見ながら、ひとりで笑いました。もう少しで鶴岡さんの前で吹き出すところだったの。ごめんなさい」

 

あゆみは、いかにもおかしそうに声をたてて笑った。

 

「なるほど、そういうことだったのか。どうりで、すぐ帰って来たと思いましたよ。」

 

そう言いながら「思っていたより無邪気で明るい人だ。いいなあ」と、一馬は心の中でつぶやいた。

 

「鶴岡さんは面白い方ですね。十歳老けて見えるかと思えばフォニックスの話をしているときは、好奇心旺盛なまるで子供みたいな目をしていましたし」

 

「そうですね、好奇心は強い方です。でも桜木さんもこうしていると、プールで会っているときとは雰囲気がまるで違いますね。こんなにきれいで、とっても楽しい人だ」

 

「ほんとう、ありがとう。素直にうれしいです」

 

このような人が一馬は好きだ。ほめられて素直に「ありがとう」と言える人が。

 

明るく楽しい人に会うと、何のためらいもなく褒めることができる。もちろん美人も。それがこの男の特徴だ。

 

そんな会話を楽しみながら、一馬はあゆみの知性あふれるたたずまいと、涼しい笑顔にとてつもない魅力を感じていたのだった。

 

鰺のたたきをつまみにビールを飲み、寿司を注文するタイミングで一馬は日本酒にした。

 

二人の会話は弾んだ。これまで何度となくプールで会って会話しているし、カフェで長時間話したこともある。だからかもしれないが、とても今日が初めての酒席とは思えないほど気が合った。

 

コップ酒をあおる一馬の話は、ラグビーボールのように不規則に飛び跳ねることもある。けれども、あゆみは嫌な顔一つ見せない。むしろ、その表情はとても楽しそうに見えた。

 

いつしか一馬の出身地である北海道に話は及んだ。

 

「鶴岡さんは、世界的スキーリゾートになったニセコで滑ったことがありますか、世界のスキーヤーに人気の理由はなんですか」とあゆみが聞く。

 

「高校生のころ何度も滑りました。千メートルを超えるニセコアンヌプリ山頂からの滑走は、これはもう格別です。あのスリルと爽快感は忘れられません。

ニセコが世界のスキーヤーに支持される一番の理由は、良質なパウダースノーです」

 

そして「治安の良さも外国人に安心感を与えるのでしょう。ニセコに限らず治安の良さこそ日本にとって大きな観光資源の一つだと思う。ニセコにオーストラリアのスキーヤーが来るようになったのは、ニューヨークのワールドトレードセンタービルへ飛行機が突っ込んだ、あの9・11の冬からです」と、一馬は力説した。

 

そして、このように続けた。

 

「日本のメディアはチャイナマネーばかりに焦点を当てたがるけど、ニセコと倶知安にはオーストラリアやアメリカからの投資が年々増えている。だから、今のブームがすぐに終わることはないと思う。

 

ニセコというより、外国からの投資や移住者が多いのは倶知安町です。

次の国際的スキーリゾート候補は富良野地区でしょうね。北海道でも最も寒い地域の一つだから、あそこの雪質は世界最高レベルです。

 

フランスの有名なワイナリーが函館に進出することも決まったし、北海道の時代が来ますよ、きっと」

 

黙って聞いていたあゆみがいう。

「鶴岡さんは北海道のお話になると、目の輝きが変わります。北海道がお好きなのですね」

 

「そうですね。好きを通り越して、北海道出身に誇りを持っています」と一馬が笑う。

 

「すごい。私は自分の生まれたところに誇りまでは・・・・・・」あゆみがいう。

 

「近い将来、北海道へUターンしようと思っています」の言葉を一馬は、かろうじて抑えた。

 

あっという間に、閉店の午後十時になっていた。

 

「お店の雰囲気も、お寿司も最高ですね。無口なあの大将もいい感じです」と彼女が言う。

 

白いガーベラみないに淑やかなあゆみの口から「大将」の二文字が飛び出したことに、一馬はビックリした。そしてうれしかった。

 

「気に入ってくれてよかった。」

 

「素敵なお店です。また連れてきていただけますか?」

 

頬をほんのりと赤く染めたあゆみが、高揚した声でいう。

 

一馬にはうれしい言葉だった。願ってもない一言だ。

 

「そうしましょう。帰りに次の予約をしておきます」と応じた。

 

この日はフォニックスに関して少しだけ講義を受けたが、本格的な英会話のレッスンはなかった。

 

いやいや、仕事でも日常生活でも、一馬に英会話を急いで身につけなければならない差し迫った事情などあるわけがない。

 

「英語を教えて欲しい」は、口実に過ぎなかったのだ。

 

もしかしたら、あゆみはそのことに気づいているのかもしれないと、一馬は思った。

 

一馬は少し遠回りになるが、タクシーであゆみを送ることにした。

 

最初は方向が違うからと遠慮していたあゆみに、「こんなきれいな人を夜遅く一人で帰すわけにはいかない。そんな無粋なことしたら騎士道にもとる。俺は騎士ではないけど」と一馬が真顔でいう。

 

あゆみは口に手を当てて、思わず笑ってしまった。

 

そして「では、よろしくお願いします」と丁寧にお辞儀をした。

 

タクシーが走り出すと店にいた時とは打って変わり、あゆみは少し緊張しているように感じられた。一馬が気を使って一言二言話したが、あゆみのマンションは近かった。すぐについてしまったのだ。

 

一馬は北海道へUターンするタイミングを探っていた。

 

大学を終えたら北海道へ帰ることを前提に上京したのだったが、大した志もなく今の会社に就職し、ずるずると十年以上の歳月が過ぎてしまっていたのだ。

 

何年たっても、いつもざわついている東京の混沌になじみ切れずにいた。夏の暑さにも辟易している。特に、ここ数年の尋常ならざる酷暑には参ってしまった。

 

「早く北海道へ帰らなければ」の思いが募っていたのだ。

 

しかし、あゆみとの間にただならぬ予感とめくるめく期待を持ってしまった。

 

「これはもう、Uターンを先延ばしにせざるを得ないかもしれない」と、あゆみを送ったあと自宅へ向かうタクシーの中で一馬は考えていた。

 

あれほど飲んだのに、秋の夜は甘く心地よい。タクシーを降りると笑うがごとき大きな満月が、天空から一馬をみつめていた。

 

次の約束までの間に一馬は二度プールへ行き、二度ともあゆみに会った。今度はもうキャンセルの心配など、頭の片隅にもない。

 

あゆみはこれまで以上に、にこやかな笑顔で一馬に近寄って来た。そして、いつもと変わらぬ優雅な泳ぎを披露した。

 

二度目はカウンターに座り、無口な大将の握りを堪能した。

 

寿司屋のカウンターで手ほどきを受けるほど、一馬は英語に対して熱意を持っているわけではない。この日もレッスンはなかった。

 

代わりに、一馬の好奇心を満たすには十分な話をたっぷりと聞くことになった。

 

あゆみは都内の難関私立大学を卒業後、アメリカの大学院で五年間学び博士号を取得して帰国したのだという。

 

これまで幾度となくプールで話した二人だが、あゆみのアメリカ留学について聞くのは初めてだった。

 

「異国の大学院に留学か、格好いいなあ。ロマンだね。美人でしかも秀才とは」

 

酒も手伝って、一馬の口から淀みなく言葉が飛び出す。

 

あゆみもまんざらではない様子で、留学時代を振り返る。

 

「アメリカの大学院に留学するなんて、ちっともロマンティックじゃありませんし、格好よくもありません。もう、勉強、勉強の毎日でした」

 

「そんなに、勉強ばかりするんだ」

 

「筆記試験があるわけではありませんから入るのは割と楽です。入学に必要なのは、卒業した大学の教授などに書いてもらう三通の推薦状、そして自己アピールのエッセイです。

ただ、授業についていけるかどうかの英学力はテストされます。

でも、ネイティブのようにはいきません。やはり言葉のハンディはあります。彼らに追いつくには何倍も勉強しなければ。

私が学んだ大学院は毎日三時間の授業がありました。夕刻から授業が始まる関係で、間の休憩がわずかしかありません。」

 

「アメリカの大学院は、夕刻から授業なんだ。アルバイトでもしていなければ、日中のんびりできない?」

 

「課題とか宿題が毎回出ます。そのため一日中、英語の本やペーパーを読んでいなければなりまません。そして英文を書くのです。その繰り返しですね。」

 

好奇心の強い一馬はこんな話が好きだ。自分の知らない世界を実体験した人の話は、真実味があって興味をそそるのだ。そしてこれほど淑やかなあゆみが、単身で五年もアメリカで過ごした事実が驚きだった。

 

「そんな勉強漬けの生活。俺には無理だ。じゃあ、ボーイフレンドをつくる暇もなかった」

 

「恋とかボーイフレンドなんて私には縁がありませんでした。友達は何人もできましたが、授業のある日は遊ぶ気になれません。そんな時間的余裕はありませんから。お休みの日は、たまに遊びに出かけましたけど」

 

「こんなにきれいなのに。実際は、かなり口説かれただろうなあ」

 

「向こうの男性が気軽に声をかけることは確かです。特にイタリア人留学生は、ホットドックを食べるみたいな感覚で、女性に言い寄るから気をつけなさいと、アメリカの友人に言われました。」とあゆみは笑う。

 

「勉強は厳しいけれど、バックアップ体制はしっかりしています。私が学んだ学校は真夜中まで図書館が開いていましたし」とも言った。

 

そして、このように続けた。

 

「これは、あくまでも私が学んだ大学院のことです。他も似たようなものだと思いますが、多少は違うところもあると思います。

アメリカの大学は卒業が大変だと日本ではよく言われますが、でもそれはトップ二十~三十校くらいで、他はそれほどでもないと聞いたことがあります。アメリカは広いですから」

  

聞きながら、あゆみの人間性がよく表れた言葉だと一馬は思った。

 

たかが一年か二年向こうで暮らしただけなのに、アメリカのすべてを分かったように吹聴する輩と何度か遭遇したことがある。いや、わずか二週間の滞在でハワイ、アラスカを含め五十州もあるアメリカをすべて理解したような口調で語る者さえいる。だがあゆみには、そんなところが全くない。

 

あゆみは自分に対して厳しいところがある。けれども思考はポジティブで、積極性と行動力がある。プールでの会話から一馬はそう感じ取っていた。

 

留学の話を聞き、これらはアメリカで学んだ五年間と無関係ではないだろう。そして、留学中に恋愛経験は一度もなかったという、彼女の言葉に嘘はないだろうとも考えるのだった。

 

留学の話を一通り終えると、あゆみが言う。

 

「私、鶴岡さんのお話が聞きたい。鶴岡さんと話していると、なんだか安心するの、ホットするの。北海道のことを聞きたい、子どもの頃のお話を」

 

急にそんなことを言われても、子どもの頃のことなど何から話してよいか分からない。一馬はたわいのないよもやま話をした。それでも、あゆみはニコニコと笑顔を絶やさず聞いている。

 

その穏やかな表情を見ながら「本当にきれいな人だ。思った通り性格もいいし」と、改めて見惚れた。

 

そうこうしているうちに、一馬はとっておきの事件を思い出した。その事件を語った。

 

「俺ね、小学校六年生の時にハチガラを釣ったことがあるんだ」

 

「ハチガラ?釣った?」あゆみには何のことだか、まるで見当がつかないようだ。

 

それもそのはずだ。北海道では幻の魚とさえ言われているのがハチガラだ。全体的に黒っぽく体長は25センチ前後で、黄色い斑点があり、顔はごつくて、背びれは硬いとげ状になっている。

 

見た目は決してきれいだと言えないが、この魚の特徴は食いつきの良いことだ。一馬が釣ったのは真昼間の磯釣りだった。海に突き出た岩の上から糸を垂らしていると、黒い魚影が見えた。

 

「あれっ、ハチガラかな。こっちに泳いでくる」六年生の男の子は、そっと餌の付いた針を黒い魚に近づけた。

 

わずか二、三秒後だった。黒い影はバクッと餌に食いついたではないか。凄い引きだった。少年は必死だった。

 

「逃してなるものか」、小さな全身に全精力を込めて竿を引く。顔が熱くなるのを感じた。短い格闘を制して、どうにか岩の上に引き上げた。

 

「おお、やっぱりハチガラだ」少年の鼓動はしばらく止まらなかった。

 

こんな大物を釣りあげたのだから、磯に長居は無用だ。少年はハチガラの入ったボックスを肩にかけ、自慢の脚で我が家まで一目散に走った。

 

走りながら「見える魚は釣れないと大人は言うけど、そんなことはない」と、生意気にも子供心にそんなことを思っていた。

 

幻の魚を持ち帰ると、たちまち近所で話題になった。個体数が極端に少ないので、地元の漁師でも滅多に釣ることのない魚だ。それを小学校六年生が釣ったということになれば、平和なご近所にとって、これはもう小さな事件なのだ。

 

半端ではない圧倒的な引きの強さ、今でも全身に残る食いついた瞬間のゾックとした感触、周囲の驚いた様子、弾力性のある白身は煮つけにすると、驚くほど美味なことなどを一馬は得々と語った。

 

「ハチガラというのですか、面白い名前の魚ですね。初めて聞きました。」

 

「知らない人が多いと思う。市場に出回ることなんてない魚だから」

 

「鶴岡さんのお話を聞いていると、北海道へ行きたくなります。鶴岡さんの故郷へ」

 

「よし、そのうち行きましょう」

 

「是非、行ってみたい」と言って、あゆみが続ける。

 

「やっぱり大自然の中で育ったのですね、鶴岡さんは。飾らないし、東京に染まっていないところもあるし。ウ~ン、だからですか」

 

一人で納得しているようだった。

 

二人の話す内容は実に対照的だ。だが一馬は勿論のこと、あゆみも何ら疑問も違和感も持っていないように思えた。むしろ、自分に欠けているピースを埋めるがごとく、互いに楽しんでいるようにさえ見えるのだった。

 

三十半ばを過ぎているが、あゆみは淑やかだ。少し酔ってはいたが、言葉遣いも姿勢も乱れることはない。けれども笑顔を絶やすこともない。

 

一馬はあゆみに聞いてみた。

 

「桜木先生は学生に教えるときも、こんなに言葉が丁寧なの」

 

「先生はおやめください。学生さんたちに対しては少し厳しい口調にはなりますが、言葉遣いはあまり変わらないと思います。私の話し方が特別丁寧だと思っていませんから」

 

「そうなんだろうなあ。子どもの頃から身についたことは、特別でも何でもない。それが普通なんだ。俺のガサツさが普通のように」

 

あゆみは互いの視線が合うと静かに目を伏せることがある。この時もそうだった。その、はにかむような風情に一馬はまた言い知れぬ魅力を感じるのだった。

 

そして「鶴岡さんと話していると、なんだか安心できるの。ホットするの」、この一言は、一馬の全身を駆け抜け深く胸に刻み込まれたのだった。

 

一馬は、二人の距離が急速に縮まったように感じていた。

 

この夜も二軒目に移動することなく、閉店間際までいた。

 

この前と同じようにタクシーであゆみを送ることにした。店から彼女のマンションまでは目と鼻の先の距離だったが、今夜の二人は後部座席でしっかりと手を握りあっている。

 

「二つ目の信号の手前、左側です。茶色のマンションの前で止めてください」

 

あゆみが運転手に告げた後、肩を抱き寄せ唇を重ねた。彼女は拒絶しなかった。

 

タクシーは一つ目の信号で止まっている。

 

唇を離しながら「次ね」と一馬が小さく短く言う。うるんだ瞳であゆみが「はい」と、声を押し殺してうなずく。

 

車はマンションの前にとまった。開いたドアから吹き込む夜の冷気も、今の一馬には心地よく感じられる。季節は晩秋に差し掛かっていた。

 

「もう二人の間には、阿吽の呼吸が出来上がっている」

 

そう思うと、耳に達するほど一馬の胸は激しく鼓動した。

 

しっとりとやわらかな唇。ぎこちなくも甘いうごめき。あゆみの感触は生々しいままだ。高揚した気持ちが抑えきれない。そして「次」を思うと、一馬は明け方近くまで寝付けなかった。

 

「次」までわずか十日しかなかったが、一馬には長く感じられた。仕事で人と会っていても、胸のあたりがざわついているのが分かる。そして今回もまた、十日間プールへ行くのをやめたのだった。

 

その日は、新宿西口のホテルで待ち合わせた。二階のレストランで軽く食事をし部屋へ向かう。二人きりのエレベータは沈黙に支配され、やけに遅く感じた。

 

一馬はルームサービスで赤ワインを頼んだ。二口ほど飲んであゆみの傍に行く。唇を重ねると舌に少しだけ残っていた赤ワインが、チョコレートの甘さに変わった。

 

唇を離すと「こんなに素敵な部屋をとってくれてありがとう」と、あゆみは恥じらいを見せながらいう。

 

一馬は今日のために奮発した。自分の月給では分不相応だと分かっているが、あゆみの価値に比べたら安いものだと思った。

 

この夜、あゆみは終始ぎこちなかった。しかし一馬にとって、それは安心以外の何物でもない。彼女への思いが一層深まっていくのを自覚していた。

 

あゆみは、酒が強い方ではない。生の小ジョッキを一杯飲めば、顔がほんのり赤くなる。けれども、酒豪の部類に入る一馬と付き合うのは全く苦にならないように見えた。

 

あゆみが教鞭をとっている大学の期末試験も終わり、少し余裕ができたというので二人は九州旅行に出かけることにした。

 

普段の食事で店を予約するのは一馬の役目だったが、九州旅行のチケット予約、宿の手配、めぐるコース選びは、すべてあゆみが引き受けてくれた。

 

旅行も三日目になると緻密な計画性、めぐる観光地、隠れた名所選びの的確さに一馬は驚く。自分にはない企画立案能力を持っていると、二歳年上のあゆみに尊敬の念さえ覚えたものだ。

 

共通の趣味は水泳くらいだったけれど、二人でいると本当に楽しい。

 

あゆみは教職と論文執筆の他に学内の委員会に所属していて多忙だったが、毎週のように会う時間をつくってくれた。

 

その多くは一馬の部屋で過ごした。白いガーベラのごときあゆみも、夜は徐々に変貌していく。回を重ねるうちに彼岸花の如く狂おしく燃えるのだった。

 

気の向いた時だけ「これは英語で何というの」「このような場合、英語ではどう表現するの」と一馬が聞く。気まぐれな恋人に嫌がるそぶりも見せず、あゆみは丁寧に教えてくれるのだった。

 

そのたびに一馬は「先生、ありがとうございます」と、恭しく頭を下げる。

 

一度目は吹き出し、二度目は「もう、やめてください」と嫌がったあゆみだが、このごろは何も言わなくなっていた。

 

代わりに「できの悪い生徒を相手にしていると、学生に教えるのが本当に楽です」と、真顔で言うこともある。

 

互いに「俺は我儘だから」「私、我儘なの、ごめんなさい」と言いつつ、どちらかが適度なタイミングで折れるから大きな衝突は一度もなかった。

 

細かいことを言えば七対三くらいの割合で、あゆみの方がより多く譲ってくれると一馬は密かに感謝している。

 

水泳で鍛えているだけあって、あゆみの顔には艶やかな張りがあり、長い四肢も引き締まっていてしなやかだった。

 

江戸時代の名だたる浮世絵師があゆみを描いたら、一体どんな絵に仕上がるのだろうと、一馬は実現不可能な夢想を楽しむこともあった。

 

そして、一馬の知っている桜井あゆみは秀才だ。けれども、才能を鼻にかけるようなところは微塵もなく、負けん気は強いが気立てのよい娘だ。

 

しっかりと自分の意見も持っているあゆみだが、育ちの良さからくるおおらかさも持ち合わせている。

 

あゆみの実家は北陸地方でリゾートホテルや飲食店を経営している。田舎へ帰ればれっきとしたお嬢様だ。けれども、留学を終えて講師の職を得てからは、一切の経済的援助は受けていないのだという。

 

そんな彼女は一馬が卒業した二流大学の名を口にした時も、こともなげに言うのだった。

 

「一馬さんは英語がダメだったから、偏差値の高い大学を受けられなかったのでしょう」

 

「まあ、概ねそんなところだ」と一馬は答えた。

 

父親が北海道の田舎町で漁師をしていて、磯船を操り細々と生計を立てていると言ったときも、似たような反応だった。

 

「お父様は、何をとる人なの」と聞く。

 

「ウニや鮑。昆布などの海藻もとる。鱒釣りもするし。何といってもウニが稼ぎ頭みたいだけど」

 

「ええ、すごい。私はウニが大好きなの。北海道へ行ったら、お父様とってくださるかしら。採り立てのウニを食べてみたいなあ」と屈託なく喜ぶのだった。

 

一馬は、こんな彼女を愛おしく思わずにはいられなかった。何の不足もない恋人だった。彼女との日々は夢のような世界だ。あゆみ以上の女は地球の隅々まで探しても二人といないだろう。一馬は、そんなことまで考えることもあった。

 

あゆみも一馬の胸に額を押し付け、一度だけだったが言ったことがある。

 

「もしかしたら、私は世界で一番幸せなのかも」

 

何もかも対照的な二人なのに、どうしてここまで惹かれあうのか、他人の目にはきっと不思議に映っているだろうと、一馬は思うこともある。

 

だが、幸せの絶頂にいる二人に、別れは思わぬ形でやって来た。

 

二人が親密になって一年が過ぎたころ、あゆみに関西の有名大学から誘いがあったのだ。

 

彼女の発表した論文が、知己を得ていた関西の大学教授から高く評価され、准教授として招かれることになるらしい。

 

講師にとどまっている気などさらさらなく、もっと上を目指していたことは一馬もよく知っている。

 

だから、今度の誘いは彼女にとって願ってもない話だ。このチャンスを逃す手はない。彼女は一歩も二歩も前進するのだ。一馬にも反対する理由などあるわけがなかった。

 

その後、あゆみから「正式に決まった」と報告を受けたとき、一馬は彼女に告げた。

 

「俺は北海道に帰る。前から考えていたことを実行するだけだよ。これで踏ん切りがついた」。

 

あゆみに関西行きの話が持ち上がったときから、決定したと聞いたこの日まで、一馬はありとあらゆる仮説を立てて、何度も考えを巡らせた。これほど思い悩んだことなど、過去に一度もない。

 

だが将来を嘱望された研究者である彼女と互いに手を携えて歩むべき、未来の姿や展望をどうしても描くことができなかったのだ。あゆみとて、同じ思いではないだろうかと考えた。

 

だからこれほど濃密な時間を過ごしながら、二人は「結婚」の二文字を決して口にしなかった。互いに避けていたという方が正確だろう。

 

ならば、自由にしてやるのが彼女のためだ。未来の展望を描けないならば、このまま遠距離恋愛などと体裁を保って、この恋を継続させるべきではない。

 

一馬が知り得る範囲内において、彼女は男女の枠を超えた最高レベルの才能を持っている一人だ。あゆみには、きっと目標に到達してもらいたいと願った。

 

「大学の教授になるには、研究論文を書いているだけではだめなの。大学内外の活動も評価の対象になります。

だから学内の委員会活動は必須です。

そして書籍の出版やNPOなどの研究プロジェクトに参加して、学術コミュニティのネットワークにつながることが大事なのです。

大学や学会に対しての自己アピールが不可欠ってことです。」

 

あゆみは、そのようなことも言っていた。

 

けれども、彼女なら大丈夫だ。アメリカ仕込みの自己アピール力は折り紙付きだし、他のことだって一つ一つ課題を克服しながら強固な基盤を築いていくことだろう。

 

あゆみなら、努力と才能と行動力でこれからも自らの道を切り拓いていくはずだ。

 

「自分には、手助けできることなど何もない。」

関西行きの話が出てからは、そんな無力感にも一馬は襲われていたのだった。

 

あゆみが活躍する舞台には自分が立ち回れる役割はない。寂しいけれど、一馬はそう考えざるを得なかったのだ。

 

一馬は可憐なコスモスの花が好きだ。

 

だが、桜井あゆみは野に咲くコスモスとは違う。今や白いガーベラでもない。大きな舞台が似合う大輪の華だ。

 

あゆみは育ちの良さが醸し出すおおらかさの裏に、大きな志を隠している。野心と言ってもいいだろう。それが彼女にとって、人生最大の目標であることを一馬は知っている。

 

このまま、互いを束縛しないパートナーとしてやっていく選択肢もないわけではない。けれども一馬が考える男女の落ち着き先は結婚という形式だった。

 

あゆみは、このまま十年、二十年と関西に住み着く可能性が高い。いや、生涯彼の地で暮らすことだってあり得る。

 

だがどう考えても一馬があゆみの後を追って関西に行くという選択肢は、現実的ではない。一馬にとってあゆみが「主」で自分が「従」の生活を想像するのは難しかった。

 

一馬の根底を支配している古臭さは、あゆみも感じているはずだ。

 

「俺は北海道へ帰る」と告げた時も驚いてはいたが、一馬の目をじーっと見つめたまま、 異議や疑問をぶつけることがなかったのはそのせいだ。

 

熱い二人のまま、突っ走らなくてよかったのかもしれない。あゆみの関西行きは、二人の未来と価値観の再確認にはいい機会だったとも、一馬は考えるのだ。

 

こうして、一馬は苦渋の結論に至った。

 

二人の間に細かい話し合いは一切なかった。むしろ、いろんなことを言葉にするのは、互いに避けていた。

 

だが、自分の思いは伝わっているだろう。二人の間には暗黙の了解ができているだろうと、一馬は解釈した。曖昧と言われればその通りだが、今は言葉で表現したくなかった。互いを傷つけたくなかったのだ。

 

最後の夜を二人は東京駅のホテルで過ごした。

 

熱く重ねた唇を離したあゆみは「私が、・・・・・」とまで言って頭を小刻みに振り、続く言葉を飲み込んでしまった。

 

こんなに寂しそうなあゆみの瞳を見たのは初めてだ。けれども、一馬は聞き返すことはしなかった。

 

代わりに両手であゆみの黒髪をかき分け、まじまじと彼女の顔をみつめながら、照れくささを抑えて「You look stunning」とささやくように言った。

 

「ありがとう。うれしい。発音は満点です。」とあゆみがいう。寂しさが幾分やわらいだ瞳はうるんでいたが、彼女は静かに目をつぶった。

 

「You look stunning」は、あゆみに教えてもらったフレーズの一つだ。

 

「君は気絶するほど美しい」とか「君の美しさには卒倒しそうだよ」の意味がある。

 

「アメリカの男の人は平気でこのくらいのことを言うらしいの。日本の男の人もこれくらい言ってあげたら、女の人は喜ぶのに」

 

そう言いながら教えてくれたのだ。

 

クリントイーストウッドの映画、『マジソン群の橋』のセリフにも出てくる言葉だという。

 

一馬はこの言葉に、最大の賛辞と心からのお礼を込めたつもりだった。

 

別れの朝、あゆみがシャワーを浴びている間に、一馬は何も言わず一人部屋を出た。

 

昨夜、「新幹線のホームには絶対、見送りに来ないで。辛くなるだけだから」と、あゆみに念を押されていたのだ。

 

しかし、その後の一日をどのように過ごしたのか、一馬は全く思い出せない。職場へ顔を出した記憶はあるが、東京駅から会社までどのように行ったのかさえ覚えていなかった。

 

会社で何をやって、営業先で誰と会ってどんな話をしたのか、まったく記憶にないのだ。

 

銀座の裏通りにあるバー『サマルカンド』のカウンターに開店から閉店まで座って、一人で酔えない酒を飲んでいたことだけは覚えている。

 

先輩に連れていかれて、それから十年近くも通っている狭い店だから、顔見知りの常連客は多かった。その日もきっと、何人かの常連に声をかけられたはずだが、全く記憶にないのだ。

 

何度かあゆみと一緒に来たこともあるので、還暦が近いと思われるマダムから「美人の彼女は元気」と聞かれた記憶はうっすらと残っているが、何と答えたかは覚えていない。

 

互いにサヨナラの言葉は口にしなかったけれども、三十五歳の鶴岡一馬にとっては辛すぎる別れだった。

 

一馬はやけ酒を煽ることはできない。仲間と楽しくワイワイやったときや、うれしいことがあったときには前後不覚になるまで飲んだことはある。だが、辛いことを忘れるために酔いつぶれたことは一度もなかった。

 

辛いときも寂しい時も酒を口にはする。だが、いくら飲んでも酔えないのだ。この日もカウンターに座り、一人チビチビと水割りを口に含んでいた。

 

あゆみを忘れることができるだろうかと、何度も自分に問いかけた。忘れられないだろうと、心が大きく波打つ。いや、忘れなければならないと、言い聞かせる。

 

辛い恋といえば片思いの恋か、手ひどく振られるケースだと決めつけていた。だが互いに惹かれあっていても辛い恋はあるのだと、一馬は思い知らされたのだった。

 

あれほど激しく求めあった二人なのに、継続できない理由の多くは自分にあるのだとも思う。

 

あゆみと初めて結ばれた夜が、ぼんやりと瞼の奥に浮かぶ。あの時は、一生愛し合えることを願っていた。永遠の恋だと思った。あれから、わずか一年余りしか経っていない。人の心なんて、あまりにも頼りないものだ。

 

いや、まだ間に合う。明日の朝、関西へ行けばいい。だが、それはできない。彼女の後を追いかけたら、自分の価値観をすべて捨てることになる。価値観を捨てた男なんて、ただの腑抜けだ。そんな男をあゆみが必要とするわけがない。

 

一馬の心をいろんな思いが駆け巡る。だが悲しみと迷いの中に留まっているわけにはいかない。

 

あゆみは、しっかりとした目的と目標を持っている。そして、そこに向かって努力を惜しまない。ひるむことなく行動する。

 

だから、あんなに激しく愛し合いながらも、その一年の間にあゆみだけは確実に目標へ向かってステップアップして行ったではないか。

 

それに比べ「自分は何をやっているんだ。前へ進め」と、一馬は自身を必死で励ました。

 

東京の大学で学ぶべく希望を抱いて上京した時から、自分は何も進歩していないのではないだろうか、と一馬は考える。

 

大した勉強もせずに流されるように学生生活を送り、何となく就職し、成り行きに任せて生きてきた日々。そんな中であゆみに出会ったことは奇跡に近かった。いや、奇跡そのものだ。あの時間を無駄にしてはいけない、とも思うのだった。

 

そして、一馬は少年時代に思いを馳せた。何事にも意欲的で、希望に燃え活発この上なかった、きらめくあの時代に。

 

すべてがあの頃に戻れるわけはない。それは百も承知だ。しかし、いくばくかの希望と夢は取り戻さなければならない。

 

一馬は子どもの頃から自分にとって最も大事なのは『希望』だと思っている。しかし、いつの間にかそのことを忘れかけていた。

 

あゆみは、希望を抱いてひた走っている。自分も希望を取り戻さなければならない。この辛さを乗り越えるためにも、それが必要だと一馬は思った。

 

酔えない頭と心で、何時間も思いを巡らせた。そして、どのように考えても、北海道へ戻るべきだとの結論に行きつくのだった。北海道でやり直そう。新たな希望をつかむのだ。

 

決して逃げ帰るのではない。いやこの際、逃げるとか逃げないなど、どうでも良いことだ。いま最も大事なことは、自分の心と正直に向き合うことだと一馬は思った。

 

あゆみが関西へ赴いてから一月も経つと一馬の心は北海道へ飛んでいた。仕事や諸々の整理を終えて北海道へUターンしたのは、それから一年後だった。

 

2

 

「どうしたの北原さん、ちょっと元気がないけど、どこか具合でも悪い?」

 

今日の雪子は会ったときから、どうも元気がなかった。一馬の問いかけに彼女はうつむいたまま沈黙する。少し顔が青ざめて見えた。

 

一馬がもう一度声をかけようとしたとき、彼女の小ぶりでややふっくらとした口から、思いもよらない言葉が飛びだした。

 

「ごめんなさい。妊娠しているんです、私」

 

一馬は言葉の意味をすぐには理解できなかった。それもそのはずだ。牛島から北原雪子を紹介されて、まだ一月ほどしかたっていないのだ。手も握ったことがないのに、と一馬は戸惑った。

 

「だから、もう鶴岡さんとお付き合いできません。本当にごめんなさい」

 

うつむいてはいるが、雪子の頬に光る一筋の涙を一馬は見た。

 

「私は嫌な女です。馬鹿な女で・・・・・、もう情けなくて・・・・・」

 

最初は半信半疑だった一馬にも、次第に事の重大さが伝わってきた。だが、戸惑いは深まるばかりで、どう対処してよいのか困惑した。

 

 

北海道へUターンした鶴岡一馬は、職を得て小樽へ住み着いた。

 

宅地建物取引士とマンション管理士、両方の資格を持っていたが、営業をしなくて済みそうなマンション管理士の仕事を選んで小樽に定住したのだ。

 

東京にいたころに比べ収入は三十パーセントも減ったが、それでも満足だった。

 

建築業の営業に比べたら、クレーム処理やトラブル解決に費やす時間は激減し、それに伴い、精神的負担もずいぶん軽くなったのだ。面倒な接待もないから、実に気が楽だった。

 

一馬は札幌の手稲地区と小樽市内の、合わせて十二棟のマンションを担当している。

 

その中に『セ・ジョリ稲穂』があり、牛島が理事長をしていた。マンション住民の間では口調の厳しい頑固者で通っている牛島だが、一馬へは好意的に接してくれる。

 

ある日、二人は管理組合の総会について打ち合わせをした。概要が決まり雑談になった。牛島は一馬が独身だと知って少し驚いた様子を見せる。

 

「おおそうか、独り者だったのか。じゃ、今度いい娘を紹介するから、気軽に飲めるところで一杯やろうや。三人で」と言ってきた。

 

一馬の年齢を聞いて「少し、歳が離れているけど、今どきあまり年齢は関係ないしな」とも言った。

 

一馬に断る理由はなかったし下手に申し出を拒否して、お得意先の理事長と気まずい関係になるほどの野暮でもなかった。

 

それから間もなくして、小樽駅近くの居酒屋で紹介されたのが北原雪子だった。

 

雪子は類まれなる清潔感に身を包み、一馬の目を奪った。

 

東京からUターンして三年後の出会いだった。

 

牛島から二十八歳と聞いていたが、年齢よりも若く見えるとかそういうのではない。外見は勿論のこと、しっとりとした柔和な清潔さが雪子の内面からも滲み出ているように、一馬の目には映った。

 

荒れ野にただ一輪だけ、たったいま花開いたばかりのコスモスのようにも見える。

 

可憐で、か弱に見えるが、芯のある柔軟な長い茎で秋の強風も難なくしのいでしまう。気丈なしなやかさを秘めているのがコスモスだ。

 

いつの間にか一馬は自分の好きな花と雪子を重ねていた。

 

ハキハキしていて、笑顔を絶やさない雪子に一馬は心も奪われていた。彼女なら、まだ自分の一角にとどまっている桜木あゆみの影を完全に消し去ってくれるだろう。初対面なのに、大きなときめきと予感があった。

 

 

出会ったあの日から一月が経っている。雪子と二人だけで会うのはこの日が三度目だった。

 

二人の距離を一気に縮めようと今回の会食をセットした一馬だったが、雪子が放った「妊娠している」の一言で、そんな思惑もどこかに吹っ飛んでしまったのだ。

 

一馬は戸惑いながらも、この一月間のことを瞬時に振り返った。二人で食事をした二度とも、雪子はとても楽しそうだった。

 

「天狗山の夜景を観たい」「積丹半島一周のドライブに行こう」「洞爺湖もいいし、支笏湖もいいよ」などと語り合い、今日はその中から一つ選んで、具体的な計画を立てる予定でもあった。

 

そんな経緯や目の前にいる雪子の表情から察しても、歓迎されざる妊娠ではないだろうかと一馬には思えた。

 

「僕にも、できることがあるかもしれないから、何でも言ってみてください。いや、きっと力になるから。」

 

一馬は憔悴した表情の雪子に対して、できる限り穏やかにやさしく接するよう努めた。

 

雪子は何度か自分を責める言葉を口にした。時には嗚咽し、ハンカチで涙をぬぐう。一馬は時折、短い言葉をかけながら見守った。

 

しばらくすると雪子も落ち着きを取り戻し、心の整理ができてきたように見えた。

 

そして、一馬に促されるまま、事の顛末を語り始めたのだ。

 

彼女はこのように説明してくれたのだった。

 

数ヶ月前のことだ。雪子はある男と関係を持った。だが、三ヶ月も経たずに相手の男に別れを告げたのだという。

 

それからわずか十日ほどして「紹介したい人がいる」と牛島から連絡があった。

 

一馬を居酒屋で紹介されたときは勿論のこと、初めて二人きりで食事したときも妊娠には全く気付いていなかったのだという。

 

身体の異変に気付いたのは、一馬と二人で二度目の食事をした直後だった。

 

「鶴岡さんを紹介された時には、すでに別れていました」「妊娠に気づいたのは、本当に最近のことです」と雪子は強調した。

 

「自分はバカな女だけれど、これだけは嘘ではありません」と力を込め、相手の男とは二度と会わないとも言った。だから、妊娠していることを男に知らせる気もないと、きっぱり言い放った。

 

二人を合わせた牛島は雪子のことを実の娘のように心配し、彼女もまた牛島を父のように信頼している。居酒屋で歓談した時の様子から一馬は強くそう感じ取っていた。

 

そんな牛島に紹介されたのだから、いい加減な釈明で逃げるわけにはいかない。だから、辛さをしのんでここまで話してくれるのだろうと、雪子の話を聞きながら一馬は思った。

 

一通り話してサッパリしたのだろうか、雪子の顔に赤みが差し生気がよみがえった。

 

そして「悔いてばかりいても、仕方ありません。一人でこの子を育てます。決めました。何があってもそうします。」

 

何かを振り払うように彼女はいう。口調は穏やかだったが、目には光が蘇っていた。

 

「一人で育てるなんて大変だよ」と言おうとした一馬だったが、雪子の瞳の奥に灯る強い決意の炎を見て言葉を飲み込んだ。

 

そういえば、雪子から家族のことは一度も聞いたことがない。頼れる家族はいないのだろうかと思いながら一馬は言った。

 

「よく話してくれましたね。ありがとう。ところでお母さんとか、頼りにできる人は近くにいますか」

 

「私には、両親がいません。」

 

雪子の生い立ちを聴いているうちに、自分の身が固まっていくのを一馬は意識していた。

 

ことの成り行きから、彼女は身の上話を始めたのだ。淡々とした口調だった。

 

北原雪子は天涯孤独といっていいだろう。彼女に父親の記憶は全くない。噂にさえ聞いたことがなかった。母親は三歳の幼子を置き去りにして他の男と遁走したのだという。

 

雪子は北海道の神恵内村で祖父母に育てられたのだ。積丹半島の西側に位置し、小樽から車で二時間ほどの寂しい漁村だ。

 

祖母は躾に厳しかったが、やさしい人だった。

 

「人からもらう事ばかり考える人間になってはダメだ。誰かのために、何かしてやれる人になりなさい」が口癖だった。

 

そして「何があっても、親がいないことを言い訳にしてはいけない」の言葉を聞きながら育ったのだった。

 

祖父は漁師をしていて、無口だった。多くは語らないが、雪子を黙って見守ってくれる人だったいう。

 

小学校二年の夏、遠い本州のどこかで実母が病死したとの一報を受けたが、大した感情も湧かず感慨もなかったと言った。

 

中学校の卒業にあたっては、祖父母や学校から高校進学を強くすすめられたが頑なに拒否し、就職することへこだわったのだという。

 

小樽の蒲鉾工場へ就職することができたのは、ひとえに担任教師の奔走のお陰だった。女子寮を完備していることが、貧しい雪子にはこれ以上ない幸いに思えたのだ。

 

卒業式を終えた二日後には、祖父母のもとを去って寮へ入居したのだという。

 

十五歳の早春だった。たった一人で他人ばかりの環境へ放り込まれたのだ。

 

その時の工場長が牛島だった。仕事には厳しい上司だったが、中卒の雪子には何かと気を使ってくれたのだという。

 

社会人としてのイロハを教えてくれた牛島には、心から感謝していると雪子は言った。

 

彼女は四年ほど工場で働いたのち、直営店の店頭に立つようになる。牛島が経営陣に強く推薦してくれたのだと、雪子は会社の人間から聞いたことがあった。

 

雪子を養育してくれた祖父母も、もういない。祖父は彼女が中学を卒業した三年後、祖母は彼女が二十四歳の年に他界してしまったのだという。

 

叔父と従兄はいるが、祖母の死を境に一切の交流は途絶えてしまったようだ。

 

一連の生い立ちを話してくれる中で、雪子はこれまで関わった人々へ「感謝」の言葉を何度も、何度も口にした。

 

両親がいないことで、いじめられたことは一度もない。小学校も中学校も小規模だったので、先生たちもみんなやさしかった。集落の人たちも、皆が可愛がってくれた。そんな人たちにとても感謝しているのだという。

 

自分の好きなように生きてきた一馬にとって、雪子の口から語られる言葉のすべてが衝撃だった。俄かには想像すらかなわなかった。何と言っていいものか分からない。一馬は黙って雪子をみつめた。

 

しかし、それにしても一馬は不思議だった。

 

今、こうして目の前にいる北原雪子とは一体何者だろう。これほど過酷な運命に翻弄されながら、暗い影など全く引きずっていない。

 

それどころか、『感謝』の言葉を何度も口にして、特上の絹でも見るような柔らかい輝きさえ放っている。

 

しかも彼女は二度と会う気のない男の子どもを宿している。それなのに初対面の時に感動すら覚えた、柔和な清潔感はそのままだと一馬の目には映るのだった。

 

学生時代、ゼミの仲間と京都、奈良を旅し、多くの寺社を巡ったことがある。その時に見た一つの観音像が不意に一馬の心に浮かんだ。

 

観音様と今の雪子を比べるなんてあり得ないと、人は笑うかもしれない。だが、一馬の目と心には何の抵抗もなく、観音様と雪子が重なるのだった。

 

「だから私は、ずっと家族に憧れてきました。家族が欲しいと思いました。恋愛にも憧れました。でも同年代の男の人にはどう接してよいのかわからなくて。」

 

一馬は、うまく言葉を挟むタイミングがつかめなかった。

 

「お腹にいる子を、この子を育てて、家族をつくりたい。二人で一所懸命生きていきたい・・・・・・」

 

雪子の言葉は続いた。

「鶴岡さんにすべてを話しているうちに、その思いが強くなりました。気持ちが固まりました」

 

雪子の決意は不退転のように感じられた。聞いている一馬の胸も次第に熱くなっていく。

 

そして、これほど子どもを産むことに強い意志を示しながらも、相手の男とは二度と会わないという。別れたい、あるいは別れなければならない重大な理由があるのだろうと、一馬は推測した。

 

「鶴岡さんのようなやさしい方と家族になれたら、どんなに素敵だろうと思いました。そんな資格などない女なのに・・・・・。あたたかな家庭を想像して、少しだけ幸せな気分になりました。」

 

一つの偽りも感じさせない雪子の告白は、一馬の心に火をつけるには十分すぎた。ここまで言われて退いたなら、まさしく男が廃る。もう、突っ走るしかない。

 

自分は時代に合わない人間ではないだろうかと常々考えていた。時代遅れの男だと一馬自身が思っている。そして「時代遅れ」の響きに心地よさを感じる男でもあった。

 

一馬の心をかろうじて抑えていた最後のストッパーが外れてしまったのだ。こうなったら、もう自分で自分を止めるべき術を持たない男だった。

 

一馬は本気だった。必死だった。今日のうちに、いや、今のうちにすべてを決めなければならないと考えて、雪子に迫った。

 

初めのうちは「私にはそんな資格がない」「有難いお話ですが・・・・」などと、首を縦に振らなかった雪子だったが、最後は「うれしい。本当にうれしい。鶴岡さんが生まれてくる子の父親になってくれるなんて・・・・信じられません」と大粒の涙が真珠のように頬に光ったのだった。

 

一馬をここまで駆り立てたものは何か。目の前にいる柔和で清潔な滑らかさに全身を包まれた北原雪子を失いたくなかったからだ。

 

彼女のすべてが欲しかったのだ。ならば、胎内に宿した子もまた雪子そのものだ。もしあったとしたら、過去の過ちも含めて北原雪子だ。一馬はそのように考えて疾走したのだった。

 

そしてもう一つの理由が、桜木あゆみであることも自覚していた。彼女への想いが燃え尽きることなく、しこりのように一馬の心に残っていた。その火種が炎となり雪子に向かってほとばしったのだ。

 

雪子と一つになれたら、桜木あゆみとのことは完全に過去の思い出になる。高校時代の修学旅行や学生時代の登山と同じレベルの懐かしい出来事になっていくだろうと、一馬は考えていたのだ。

 

そして、雪子となら夫婦になれるだろうとも思った。研究者の道を行くあゆみの力になれることは何もなかった。だが、目の前にいる雪子は自分を必要としているはずだ。彼女なら力になれることはたくさんある。一馬はそう考えていた。

 

その夜、一馬は雪子を自分の部屋へ泊めることにした。

 

部屋へ入るなり立ったまま、二人の長い抱擁が続いた。やがて雪子はそっと身体を離しながら言う。

 

「正直言って私、迷っていました。どうしたらよいか分からなくて。子どもを産むべきかどうかなど、いろいろと。

祖母へ仕送りしていて、いくらか貯金ができるようになったのは、3年前からです。祖母には給料の手取りから、三分の一を送っていました。

出産費用くらいは何とかなるけど、そのあと子どもを育てていけるかどうか 分かりません。未婚で産むとなったら会社もやめなければならないし」

 

一馬は雪子の表情を見ながら、きっと彼女は心に溜まっていることをすべて吐き出したのだろうと思い、何も言わず聞くことにした。

 

「死ぬことも考えました。私の身体には母親と同じ血が流れているのかと思うと、本当に嫌になってしまって。

必死で拒絶したら相手はあきらめたかもしれないのに、好きでもないのに受け入れてしまいました。しかも、その後まで・・・・。

ほどんと記憶さえない母と同じ運命を歩むのかと思ったら、たまらなく自分が嫌になりました」

 

雪子は続ける。

 

「もう、何を考えても結論が出ません。どうしていいのか本当にわからなくなってしまいました。それで約束をしていたから、ともかく鶴岡さんに会おう、話してみよう。そうしたら、何か相談に乗ってもらえるかも知れないと思ったのです。

いえ、こうなることを期待していなかったと言えばうそになります。心のどこかで期待していました。私は計算高い女です。打算を持って鶴岡さんにお会いしました。ごめんなさい。」

 

そして言った「もし許してもらえるなら、一緒にいたい。そうさせてください」

 

「当たり前だよ。そんなことは気にしなくていいの」

 

一馬の言葉を聞いて、雪子は眉間にしわを寄せ深々と頭を下げた。そしてまた話し始めた。

 

「でも、鶴岡さんと実際にお会いしたら、とても相談なんてできない。厚かまし過ぎると思いました。まだ紹介されてそんなに経っていないのに。だから、妊娠の事だけ伝えてお別れしようと思いました。

けれど、鶴岡さんは私が妊娠していることを打ち明けても、軽蔑することはありませんでした。逆に相談に乗るからと言ってくれました。励ましてくれました。うれしかったです。とても。

それで、こんな自分でもやさしく見守ってくれる方がいる。だから、死んではいけない。子どもも自分で育てなければいけない。どんなに大変でもそうしなければいけないような気がしました。

鶴岡さんが一緒に育てようと言ってくださったときは、本当にうれしかった。信じられませんでした。すぐハイと言いたかったのですが、やはり厚かましすぎると思って・・・・。本当にありがとうございます」

 

雪子は一馬に抱きついてきた。一馬は優しく抱きしめ、そして黒髪を撫でながら言った。

 

「人は誰だって計算するもの。誰にも打算はある。何かの思惑を持って行動するのが人間だよ。

それより、正直に話してくれてありがとう。死んではいけない、何があっても。宿っている命を二人で大切に育てよう。だからもう心配しなくていいんだよ」

 

一馬は続けた。

 

「中には自分に打算などないという者もいるが、それはとても美しい錯覚であり、とても醜い隠ぺいだ。気にしなくていいからね。結婚しようと言ったのは俺なんだから。そのことは忘れちゃだめだよ。言いだしたのはあくまで俺」

 

雪子は「ありがとう。うれしい」を何度も繰り返した。

 

一馬は男との出会いや妊娠した詳しい経緯などは、あえて聞かないことにした。今は彼女に心理的負担をかけてはいけない。できるだけ安心させるように努めなければならないと、考えたのだ。

 

間もなく入籍を済ませたのだが、その夜だった。一馬の腕に抱かれて、雪子はつぶやいた。

 

「白馬の騎士って本当にいるのね。うれしい」

 

あの時の麗しくも妖しい雪子の表情に、一馬は何か別世界でも見ているような錯覚に陥ったのだった。

 

 

一馬の動きは素早かった。まずは、雪子をはらませた男の名前と勤め先を聞き出した。はじめは渋っていた雪子も、今後起こり得る可能性について言って聞かせると納得した。

 

男は札幌のデパートに勤める、妻子ある男だった。つまり彼女は不倫をしていたのだ。

 

雪子の勤める会社がそのデパートに出店しているから、何らかの接点があったのだろう。だが今の一馬には、二人が関係を持つに至った経緯などどうでもよかった。

 

身ごもった雪子にどんなことがあっても男を近づけてはならない。店に現われでもしたら、厄介なことになる。可愛い雪子に嫌な思いをさせてはいけない。これ以上つらい思いをさせてはならないのだ。

 

考えられるすべてを想定して、危険を未然に防ぐのが一馬の責務だと思った。

 

そもそも雪子の話によると、相手が百パーセント別れを了承しているかどうかも怪しいのだ。

 

雪子が「二度と会わない」と電話した時も明確な意思表示はなかったという。さらにその後、二回ほど雪子の携帯に着信があったようなのだ。もちろん、雪子は応答しなかったのだが。

 

ここしばらくは、着信がないと言っても安心はできない。これほど清潔感にあふれ、性格もよい娘だ。今は大人しく引き下がっていたとしても、欲望をいつ暴発させるか分からないのが男だ。

 

ましてや、家庭を持ちながら若い娘を誘惑する奴なんて、欲望を抑えきれるわけがない。 

 

だが、今度の相手は対処しやすいのが不幸中の幸いだと一馬は考えた。デパート勤めで、ある程度の地位にあるならば、奴には守らなければならないものがいくつかあるはずだ。 

 

ことは、一馬の予想通りに運んだ。白髪で50がらみのデパートマンは、あっさりと要求を受け入れた。 

 

要求と言っても「二度と会うな。」「二度と連絡するな。」「雪子のことは、今すぐ忘れろ」だけだから最初はかなり警戒していた相手も、むしろホッとした様子さえ見せたのだ。

 

もちろん、妊娠のこと、結婚のことなど伝えるべき理由も必要もない。

 

雪子はこの男に父親を見て、心の隙に付け込まれたのだろうと一馬は思った。物腰のやわらかい、知性を感じさせる紳士的な男だった。

 

これが知性のかけらもなく、自己主張の手段として暴力的な発想しか持たない奴だったなら、かなり手こずったに違いない。

 

不幸中の幸いだ。一馬はそう思いながら、二人分のコーヒー代を払ってデパート勤めの男と別れた。

 

東京で働いていたころ一馬は建設会社の営業マンだったが、あの業界にトラブルはつきものだ。トラブルに対処できてこそ、一人前の営業マンとして認められる世界だ。 

 

自分の会社は当然のこと、得意先のトラブルにまで引っ張り出されることもあった一馬だから、この程度のことなら手慣れたものだった。 

 

過去の経験で、人生の役に立たないものなど何一つない。改めてそう思ったものだ。

 

一馬が住んでいる部屋へ雪子を引越しさせて、二人の新たな生活がスタートした。 

 

雪子はまるで安住の地を得たように生き生きと振舞って一馬を安心させた。 

 

「今日、お店の先輩から結婚してさらにきれいになったわね、と言われたの。みんな一馬さんのおかげ」

 

夕食のテーブルに向かい合っているとき、少し照れながらそんな風に幸せを表現することもあった。

 

一馬はそんな雪子を素直な可愛い女だと思い、満足そうに水割りのグラスを口に運んだ。 

 

ところが、妊娠していることを店の同僚や知人に打ち明けるようになってから、雪子に異変が起きた。 

 

「携帯の番号は変えたからいいけど、店に来られたらどうしよう。」「もう一人では札幌に行けない。駅の近くで会うかも知れない・・・・・」 

 

時々、怯えるようにつぶやくのだ。

 

だが、一馬は「心配ないよ。大丈夫、安心していいから」と慰めて、まったく意に介さなかった。

 

あの男が、雪子の働いている店に顔を出すことなどあるわけがない。確かに奴の勤め先はJR札幌駅と隣接している。だから駅周辺でばったり会う可能性はゼロとは言えないだろう。

 

けれども、たとえ偶然遭遇したとしても雪子に再び言い寄るとか、或は嫌がらせをするなんてことは考えられないと一馬は自信を持っていた。 

 

雪子には伝えていないが、男から「雪子とは二度と会わない、連絡しない」の約束を取り付けた後、しばらく二人で話しをしたのだ。 

 

相手と連絡を取った時、一馬は北原雪子の親族を名乗り、雪子から聞いた携帯ではなくあえて勤め先へ電話したのだった。

 

まずは、「お前の勤め先は知っているぞ」の牽制だった。

 

「湯沢さん、あなたの将来のためにも私と会った方がいいと思いますよ。」 

 

この一言を聞いて、湯沢は勤め先からかなり離れたすすき野のカフェを指定してきた。

 

職場を遠く離れた場所で会わなければならないことがすでに、相手の心理的劣勢を物語っていると一馬は読んだ。

 

話はもめる気配もなく順調に進んだが、一段落してから一馬はおもむろに言った。 

 

「湯沢さん、あなたも気を付けた方がいいですよ。」 

 

知的で大人しい湯沢も、この時ばかりは少し鋭い眼差しを一馬に向けた。だが構わず話を続けた。 

 

「世間の奥さん方が亭主の浮気を疑って興信所に調査を依頼すると、ほぼ百パーセント浮気が発覚します。だが、夫が妻の浮気を疑ったケースでは全く逆の結果になるんですよ」 

 

一馬は続ける。

「なぜだか分かりますか?」 

 

湯沢は答えず、一馬の目を注意深く見つめている。一馬はさらに続けた。 

 

「奥方は夫の生活をよく観察しているってことです。洗濯や着替えなど普段から身の回りの世話をしているから、夫の微妙な変化や異変に気づきやすく、それを根拠に浮気を疑うわけです。

夜の生活の変化とも合わせてね。だから的中する確率が高いのです。」

 

湯沢は黙ったまま、一馬の顔をみつめている。

 

「これに対して男は、妻の日常や身の回りにあまり関心を持たないし、知ろうともしない。それで、何の根拠もなく嫉妬心だけで疑い、調査を依頼する。だから的外れな結果に終わるケースが多いんです。」

 

湯沢は相変わらず黙っている。

 

「今時の夫婦は家事を分担するなどと言っても、家庭や相手のことについては女の方が、はるかに注意深いということでしょう。」

 

一馬は湯沢の様子をうかがったが、あまり表情に変化はない。自分の言っていることを信じていないのかもしれないと思った。

 

だが、これは決してハッタリや嘘ではない。東京時代の豊富だった一馬の交友関係に探偵社の社長がいる。その社長が長年の経験とデータを基に、新橋で飲みながら話してくれたことだった。

 

探偵社の具体的な名前まで上げて、このことを伝えると湯沢の態度は一変した。まるで、警察の取り調べに完オチした犯人が自白するがごとく、聞いてもいないことまでしゃべり始めたのだった。

 

「北原さんと会ったのは三回だけです」

 

「三回会ったとは、三回関係を持ったという事ですか」 

 

「ええ。そうです」 

 

一馬は何か確固たる意図を持って、浮気調査の話をしたのではない。「油断大敵ですよ」程度のつもりで口にしただけだった。

 

だから湯沢の反応は意外だった。そして、その強い反応から分かることがある。この男は現状を失いたくないのだ。家庭も仕事も。一馬はそう見抜いた。

 

「中途半端な気持ちで雪子を欲望の対象にしたら、あなたはすべてを失いますよ。それはもうやめてくださいね、湯沢さん」

 

そして、ダメを押した。 

「どうしても若い子と遊びたかったら、マッチングアプリでも使ってください。危険と隣り合わせだけど。」

 

できるだけ穏やかな口調で伝えた。 湯沢は、恐縮とも怯えともつかない目で一馬と宙を交互に見ていた。

 

おそらくこの男は問い詰めると、雪子と関係を持つに至った経緯についても、ぺらぺら白状するだろうと一馬は思った。

 

だが、そうはしなかった。どうせ話したとしても、自分に都合のいいように脚色するだろう。自分は検事でも裁判官でもない。この男の弁明じみた脚本話を聞いても仕方がない。一馬は思った。

 

こんなやり取りがあったから、一馬はまったく心配していないのだ。

 

「雪子と生まれてくる子は、何があっても俺が守るから心配しなくていいよ。」

 

はっきり、そう言い聞かせると雪子は安心したようだった。 

 

それからは「店に来られたらどうしよう」などと、怯えることはなくなった。

 

 

3

 

雪子の出産は順調だった。男には分からないことばかりだが、少なくとも一馬の目にはそう映った。 

 

翌年の四月には元気な男の子が生まれ、「翔一郎」と名づけた。 

 

「この子にあなたの名前を一字くれたのね。ありがとう。とっても嬉しい」 

雪子はことのほか喜んだ。 

 

二人が産院から戻ってくると、翔一郎の沐浴が一馬の日課になった。

 

お湯が入らないよう両耳を手でしっかりと押さえ、やさしくゆっくり身体を洗ってやる。短い手足を精一杯伸ばし、おちょぼ口になるのが何とも愛らしかった。

 

生まれたばかりの翔一郎にどれほどの意識があるかは分からない。けれども、この沐浴が親子のきずなを深めていく。一馬には、そう感じられた。

 

 翔一郎は健康な子だ。夜泣きなどで特に親の手を煩わせることもなく、一歳の誕生日を迎えた。 

 

誕生日のお祝いには、一馬が生まれ育った岩内町の実家から両親も駆けつけ、大いに喜んだ。

 

もちろん、両親ともに翔一郎誕生の秘密は知らない。

 

秘密を知っているのは、この世で一馬と雪子の二人だけだ。

 

何があっても、言ってはいけない。誰も知らないことをわざわざこちらから言う必要など、これっぽっちもない。死んでも言わないように。それが生まれてくる子と、我々二人のためでもある。一馬は雪子に固く、そう言いつけている。 それはまた、二人を結びつける強い絆でもあると信じていたのだった。

 

だが、すべてが平穏無事に過ぎていく人生などあるはずもない。人間は感情に支配される生き物だ。 

 

心に湧き出る感情の起伏が、野に咲くタンポポを撫でていく春風レベルなら、不幸な人生を送る人は少ないだろう。 

 

人の感情なんて海のようなものだ。穏やかな凪もあれば荒々しい時化もある。時には怒涛となって暴れることもある。荒れ狂う巨大波となってコントロールを失い、人の命を奪ってしまうことさえあるのが感情だ。

 

自分の心の片隅に潜む厄介な感情に戸惑い、扱いに手こずるなんて、この時点で一馬はまだ気づいていなかった。

 

雪子は産休を取らずに会社を退職していた。翔一郎が一歳を迎えたので仕事に出たいと夫に相談した。

 

一馬は反対しなかった。

 

幸いなことに蒲鉾店が前と同じ店で、パートとして迎えてくれるという。

 

勤めに出た雪子は午後四時に仕事を切り上げ、急いで買い物を済ませてから保育園に寄り、夕食の支度を整えて夫の帰りを待つことが日課となった。

 

この日課をこなす雪子の日々は、とても充実しているように一馬の目に映った。

 

彼女は秘密の影を引きずることもなく、妻と母親の幸せを周囲に振りまきながら明るく懸命に働いているのだろうと一馬は想像した。

 

守るべき子どもがいる。いつも近くに夫がいる。両親に捨てられた雪子が幼いころからずーっと憧れてきた家族だった。暖かい家庭だった。

 

「夢がかなう事って、本当にあるんですね。みんな、あなたのお陰です。ほんとうにありがとう」一馬の胸に顔をうずめて、雪子はそうささやいたことがある。

 

 素直で可愛い女だ。小柄な細い体を一馬は思いっきり抱きしめた。 

 

パートとはいえ仕事と子育てを両立させ、さらには妻としての役目も決して疎かにしない雪子だったが、疲れを見せるどころか、一馬の目には嬉々として映った。 

 

翔一郎を寝かしつけた後は、ビールグラス片手にその日の出来事や育った田舎のことなどを話して、実に楽しそうなのだ。 

 

「田舎のことをこんなに話すのは、小樽へ来てから初めてかもしれない。」

 

雪子は過酷だった幼い時代を決して嫌悪したり恨んだりはしていないようだ。むしろ、懐かしんでいる。一馬にはそのように映った。

 

けれども初めのうちは頷きながら、時には笑いながら聞いていた一馬だったが、次第に鬱陶しさを感じるようになっていた。 

 

いつしか雪子の言葉が空虚に聞こえ、返事も曖昧になった。だからと言って雪子は決して怒ったりへそを曲げたりはしなかったけれども、口数は徐々に少なくなっていった。 

 

雪子は利口な女だ。人の態度を見て瞬時に自分を殺すことができた。 

 

両親に捨てられ、十五歳から他人だけの中で生活しなければならなかった娘が、自然と身につけた知恵だろう。 

 

だが、一馬にとってはそれが、なおのこと気に入らない。小利口に映るのだった。 

 

一馬は抑えがたい感情にさいなまれていた。

 

この二年間は無我夢中だった。雪子と出会って一緒に生活するようになるまでの期間が、あまりにも短かったし劇的でもあった。 

 

ただただ、無事出産することを願い、翔一郎が健康に育つことだけを願った二年間だった。 

 

だから、余計な感情など頭をもたげる暇がなかったのだ。それが、少し落ち着きだしたことによって、心のどこかに眠っていた嫌な感情がうごめきだしたのだろう。

 

一馬はそう思ったが、しかし自分を抑える手立てを持っていない。 

 

雪子は可愛い女だ、自分には過ぎた妻だと思っている。だが、雪子と顔を合わせると態度は裏腹になってしまうのだ。 

 

翔一郎を生んでもまるで変わらない、柔和な瑞々しさ。そして、日々の甲斐甲斐しさ。 だが、一馬にはそれが仇となって映る。

 

言い知れぬ嫉妬と猜疑心に一馬の感情は支配されるのだ。

 

「そんな女ではない」ことを一番よく知っているのは、一馬自身だ。

 

この二年近くの結婚生活で、その言動から雪子は実に貞淑な妻だとわかっている。あのデパート勤めの中年男となぜそうなったのか、どう考えても不思議だった。人には魔がさす瞬間が、本当にあるのだろうと思った。

 

 そして身重であった時も、今も痒いところに手の届くほどの気遣いができる女だ。 

 

そうと分っていながら、何かにつけて雪子のやることに難癖を付けたくなるのだから、厄介だった。

 

特に一馬自身も驚いたのは、彼女に対する猜疑心だった。

 

「あいつは、何か他にも俺に隠していることがあるのではないか」。 

 

そんな感情が頭をもたげて、自分自身を困惑させた。特に酒が入るとその感情は増幅されるのだった。 

 

「そんなことはない。そんな女じゃない」。そう言い聞かせるのだが、心の中にある猜疑心を取り除くことができず、自分が嫌になる。 

 

雪子の顔を見ると何でもないことでも、つい嫌味を言いたくなってしまうのだ。

 

一馬は、そんな自分がほんとうに嫌になった。小さい男だと思った。悲しかった。だが直せない、抑えきれないことにただただ、じれったさを覚えるのだった。

 

雪子を必死に口説き落とした時には想像もしなかった陰鬱な精神状態と生活が続いた。みんな自分のせいだと分かっていながら、改善できない苦しみに一馬は襲われていた。 

 

ある日、一馬は知人と酒を飲んだ。帰宅したのは深夜だった。かなり酔っていた。

 

「まだ起きていたのか。イヤイヤ待っていないで、早く寝ろ」そんな嫌味を言って、上着を雪子に投げつけた。 

 

雪子はじっと耐えていたが、一馬はそれからまた嫌味を続けた。やがて雪子の目から大粒の涙がこぼれる。 

 

「私は何を言われてもいい、何をされてもかまいません。あなたは私のことを嫌いなのでしょう。だけど、お願いだから翔一郎のことだけは、嫌いにならないで。お願いします。」

 

何と雪子は、その場に正座して深々と頭を下げたのだ。 

 

「これまでのことは、本当に感謝しています。でも、私には帰るところがありません。だから、あの子が自分で考え、判断できるようになるまでここに居させてください。

悪いのは、すべて私です。あなたから嫌われても仕方ありません。私は、そんな女です。でも、翔一郎に罪はありません。あの子は私の命です。だからお願い、もう少し居させて下さい。」

 

雪子は泣いた。一馬が驚くほどしゃくりあげて泣いた。やがて、嗚咽に変わった。

 

 一馬は呆然と立ち尽くしていた。悔しさ、情けなさ、無念さがこみ上げてくる。一馬の目からも涙がこぼれ落ちた。酔いはすっかり醒めてしまった。

 

雪子に心を見透かされている。 「何と愚かな男だろう」と一馬は自分が心底情けなくなった。 

 

それに比べ、雪子は鋼の心を持つ女だ。何があっても翔一郎を一人前に育て上げなければならないとの、信念と使命感がある。子どものためなら、すべてを犠牲にできる覚悟がハッキリと見てとれる。 

 

この子のためなら、いつでも命を投げ出せる。そんな強固な意志と確かな目的意識を雪子は持っている。一馬には、それが痛いほど分かった。 

 

決して自分について多くを語るタイプではないが、雪子は未来をきっちりと見据えている。芯の強さがまざまざと伝わってくるのだ。 

 

それに比べたら自分など、ティッシュペーパー一枚ほどの軽い男だと思えてくるのだった。 

 

「雪子と生まれてくる子は、何があっても俺が守るから、心配しなくていいよ。」 

 

そのように約束したのは、他ならぬ自分自身ではないか。 

 

自分の不明を恥じ、跪くようにして泣きじゃくる雪子の細い肩を抱いたが、雪子はなかなか泣き止まない。どれほど悲しかったのだろう、どれほどつらかったのだろうと思いながら、一馬は抱きしめ続けた。

 

しかし二人にはまだ、互いのぬくもりで嫌なことを忘れられる愛情が残っていた。それが幸いだった。 

 

次の朝には以前のような、何でも話し合える仲の良い夫婦に戻っていたのだ。

 

一馬は何事もなかったかのように翔一郎にかまってから、仕事へ出かけた。

 

いつか雪子は「一馬さんのサッパリしているところに、私は救われるの」と言ったことがある。

 

だが、今回は雪子の一途さ、真剣な生き様、そしてやさしさに大きな危機を救われ、学んだと一馬は心から思うのだった。

 

 二度と雪子に辛い思いをさせてはいけない。傷つけるような言葉を投げつけてはいけない。翔一郎のことは何があっても守らなければならない。それが自分の責任であり使命だと、一馬は改めて認識した。

 


4

 

 

「ほら、あれが窓岩よ」

 

神恵内村と積丹町の境界を貫く二つ目の長いトンネルを抜けると、後ろの座席から雪子の声が聞こえた。

 

道の右手に広がる日本海に巨大な岩の塊が突き出ている。

 

「窓がないね、あの窓岩」

 

「こっちから見るとね。でも、もうすぐ窓が見えるわよ」

 

車が進むにつれて岩の形は変化し、ものの一キロも走らないうちに巨大な岩の塊は全く違う姿になった。

 

一馬たちは車から降りた。

 

天辺の中央が鋭くえぐれ、両端がとんがった巨大な岩は三角形を二つ重ね合わせたような形をして海に浮かんでいる。中央には卵型の穴がぽっかりと開いて、向こう側に青い空が少しだけのぞいていた。

 

「これが窓岩か。こんな形の岩、見たことがないな。穴まで開いているし。」

 

「子どもの頃は、毎日この窓岩を見ていたの。あの当時は燕が巣をつくって、窓岩の周りをたくさん飛んでいたけど、まだ八月の終わりなのに燕が全くいないわね。最近は巣をつくらなくなったのかしら」

 

雪子は懐かしそうに見つめている。

 

そして「すぐそこが、私の育ったところ」と、前方左側の崖を指さす。

 

雪子に言われるまま、一馬は細い急な坂道を上った。短い坂を上り切るとわずかな平地があり、建物が四軒見える。

 

台風に襲われたら壊れてもおかしくないほど古びた木造の家屋ばかりだが、青いペンキを塗った一軒だけはしっかりして見えた。

 

その家の前には車が一台と停まっている。

 

「雪子の家はどこ」と一馬が聞く。

 

雪子は周囲を見回し「お母さんが育った家はもうないみたい。翔一郎」と、雪子は夫が抱いている子どもの顔を覗き込むようにして言った。

 

そして「あそこが、そうだったの」と、狭い一角を指差した。茫々たる草に覆われている。

 

少し寂しそうな表情で、彼女は家の跡地を無言でみつめていた。

 

この地を訪れたのは、祖父が亡くなった十八歳の時が最後だった。祖母が遠くの町に引き取られた後に、取り壊されたのだろうと彼女は言った。

 

雪子は気を取り直したように車が停まっている家の玄関を開けた。「佐々木」の表札がかかっている。

 

家には六十半ばと思われる佐々木家の長男と、その母キクがいた。

 

雪子を見ると二人は驚いた。そして、懐かしさを爆発させる。

 

「まあ、雪子ちゃん美人になって。よく来てくれたね。本当によく来てくれた」と佐々木キクは、涙を流さんばかりだった。

 

雪子が一馬と翔一郎を紹介すると、「結婚して、子どもができたの。良かったねえ、良かった、良かった、本当に良かった」と、わがことのように喜ぶのだ。

 

雪子が祖父母に引き取られたとき、この家の長男はすでによその町に出て働いていたのだが、毎年お盆には欠かさず帰省していた。

 

だから、雪子とは何度も会っている。小さかったのでよく覚えていなかった雪子も、話をしているうちに記憶が次第によみがえってきたようだった。

 

雪子が聞いた。

「あれ、おじさんは?」

 

「うちのじいさんは、二年前に亡くなったの」とキクがいう。雪子がおじさんと呼んだのはキクの夫で、この家の主だった人だ。

 

雪子が「えっ」と驚く。落胆するのが一馬にも分かった。

 

「隣りの夫婦も亡くなったんだよ。それで、向かいの家も父さんがなくなって、母さん一人になったから、先月、引っ越ししてしまったの」

 

「じゃ、おばさん一人なの」

 

「そう、だから私も、明日引っ越しするのよ。それで、この人が迎えに来てくれたの」と長男を見る。

 

「ええっ、一日遅ければおばさんにも会えなかったの・・・・・・・・」

そこまで言って、雪子は言葉を失った。

 

「本当だね。もう一日遅かったら会えなかったね。死ぬまで雪子ちゃんの顔が見られなかった」キクがいう。

 

「もっと早く来るべきだったのね。何年か前だったらみんなに会えたのに。いつも、ノットに行かなければ、帰らなければと思っていたけど、なかなか帰れなくて」

 

雪子は後悔の念をにじませ、いかにも寂しそうだった。

 

この辺りの住所は神恵内村字ノットというらしい。雪子から聞いたとき、カタカナの変わった地名だと一馬は思った。

 

そして、一馬は雪子がノットに来たくとも、来られなかった事情を知っていた。雪子は小樽で働くようになってからは、毎月欠かさずに自分を育ててくれた祖父母へ仕送りしていたのだ。

 

祖父が亡くなり祖母が遠い町に住む息子の元へ引き取られてからも、他界するまで送金は続いたのだった。しかも、お小遣いというレベルではない。給料の何割も送っていたのだ。

 

その話を聞いた時、一馬は思わず「どうやって生活していたの」と雪子に聞いたほどだった。

 

そして、ノットは交通の便も悪すぎる。鉄道は勿論ない。小樽からわずか八十キロメートルほどしか距離はないが、直通バスもない。一キロほど歩けばバスは来ているが、ダイヤは一日に三本だけだ。

 

車のない雪子には、とても日帰りは無理なのだ。だが、雪子は決して言い訳しないだろうと一馬は思った。

 

「うちのじいさんは自分が入院していても、雪子ちゃんのことは心配してたよ。本当に雪子ちゃんが可愛いかったんだねえ」

 

「私も、佐々木のおじさんに、一番会いたかった」と雪子が肩を落とす。身内でもない佐々木のおじさんに会えないことで、どうしてこれほど落胆するのか一馬には少し不思議だった。

 

佐々木キクの記憶力は実に正確だった。とても今年八十九歳になる老人だとは思えなかった。雪子は何度も驚き、そして頷く。

 

話題は雪子を育てた祖母のことになった。

 

「雪子ちゃんのおばあちゃんは、偉い人だった。季実子さんは、本当に立派な人だったよ」と佐々木キクがいう。

 

季実子とは雪子の祖母、北原季実子のことだ。キクは堰を切ったように言葉を繰り出した。

 

「季実子さんは器量がよく教養もあって、手先の器用な人だった。この辺りでは目立った存在だったねえ。

両親のいない雪子ちゃんが、人様に迷惑をかけないように、どこへ出しても恥ずかしくないようにと、躾は厳しかった。だけど、決して手を挙げるようなことはなく、やさしく諭すように接する人だった。

子どもは親を真似るから、親代わりの自分が見本にならなければというのが口癖だった。

『ありがとう』『ごめんなさい』と素直に言えるような娘にしたい、親のいない雪子が幸せになるためには、人への感謝を忘れてはいけないと、いつも言っていたもんだよ。本当に立派な人だった。

年寄りの自分たちはいつ死ぬか分からないから、一人でも生きていけるようにと、小さいころから家事のお手伝いもさせていたし。

雪子ちゃんのお母さんだった和美さんを産んだときは、当時ではかなりの高齢出産で、しかも、初めて授かった女の子だったから、お父さん(雪子の祖父)がとても喜んでねえ。だから、つい甘やかして育ててしまったと、すごく悔いていましたよ。

季実子さんはその責任を一身に背負い、雪子ちゃんを和美の二の舞にしてはいけないと、本当に一所懸命育てたんだわ。

私には、とても真似ができない。この辺の人はみんなそう思っていたよ。

雪子ちゃんのお母さんも、器量よしでやさしい子どもだったけど、なんたって男運が悪くて。その点は季実子さんが本当に気の毒だったねえ。

でも、良かった、雪子さんが季実子さんの思った通りに育って。旦那さんがいて、子どもができて幸せそうだし、本当に良かった。」

 

実母の名前が出た時、雪子の視線が厳しくなったことを一馬は見逃さなかった。だが、何かを問い返すことも質問することはなかった。

 

キクの話は続く。

 

「それと、雪子ちゃんを高校に行かせてあげられなかったと、本当に気の毒なくらい気に病んでいた。うちに遊びに来るたびに言っていた。

中学校の先生が高校に行く方法はいくらでもあるから、と何度も説得してくれたけど、雪子ちゃんは頑として受け入れない。中学校を出たらすぐに働きたいと言ってきかない。

優秀な子だから先生も、どうしても高校に行かせてやりたいと、本当に一緒懸命だったけど、誰も雪子ちゃんを説得できなかったと言っていたね」

 

これを聞いて、雪子が言った。

 

「あの頃の私は、本当に子どもだったんです。私が二、三年も一所懸命働けば、おばあちゃんとおじいちゃんを引き取って、一緒に暮らせると考えていたのです。でも、私の給料では、毎月いくらか仕送りするのが精いっぱいで」

 

そうだろうな。雪子ならあり得る。何かを思い込んだら、頑として曲げない。しかし、それは自分のことに関してではない。いつも誰かのためだった。一馬は二人の話を聞きながら、そう思った。

 

「その仕送りは、季実子さんにとって、すごく有難かったみたいだよ。あまり、観音さんにお参りするような人ではなかったけど、雪子ちゃんから毎月欠かさずに仕送りが続くと、あの子は観音様のような子だといって、いつの間にか裏の観音さんにお参りするようになったもんね。

でも雪子ちゃん、大変な苦労もあっただろうけど、あんたは幸せな人だよ。おばあちゃんがあれだけ一所懸命だったし、この辺の人もみんなあなたのことが可愛いくて、応援したもんだ。何と言ってもここで育った最後の子どもだから、みんな雪子ちゃんのことは、大好きだったんだよ」

 

「どうして、もっと早く来なかったんだろう。皆さんにお礼を言いたかった。特に佐々木のおじさんには、会いたかった。」

 

雪子はしきりに残念がるのだが、仕方のないことだ、誰も責められないと一馬は思った。

 

「佐々木のおじさんには、本当にかわいがっていただきました。もう一度、会いたかった」雪子がいう。

 

黙って聞いていた、この家の長男が口を開く。

 

「うちの親父が、雪子さんのことを特別可愛がったのには、理由があるんだよ。」

 

雪子が「えっ」という顔で、そちらを向く。長男は続けた。

 

「親父は、あなたと境遇が似ていたんだ。孤児ではなかったけれど、うちのばあさんの連れ子だったんだよ。まあ、今でいう不倫の子だったみたいだね。だから、雪子さんのことは、自分のことのように見えたんだと思うよ」

 

雪子は、長男とキクの顔を交互に見比べていた。顔がこわばっている。

 

キクが話を引き取った。

 

「昔だから、子どもの頃はつらい思いをしたようだね。子連れで嫁いだばあさんも苦労したみたいだし。でも、じいさんは偉い人で、この人たち孫をとっても可愛がってくれたもんだ。血のつながりがないのにね」

 

そう言って、長男を見る。長男が言う。

 

「うちのじいさん(祖父)は、ほんとに俺たち兄弟を可愛がってくれたなあ。考えてみれば血のつながりがないのか。そんなこと考えもしなかった。俺の弟や妹だってみんな同じだと思う。じいさんはあの人だけだって、思っているはずだ」

 

雪子は身じろぎもしないで聞いている。一馬も驚きを持って聞き入った。翔一郎だけが一馬の膝の上で無邪気に手足をばたつかせている。

 

佐々木家の長男は続ける。

 

「俺の弟は少しあっけらかんとしている奴だから、ある日、親父に聞いたらしい」

 

「親父、子どものとき、本当の父親に会いたいと思ったことなかった?」と。

 

「そしてら、いかにも親父らしい答えが返って来たと弟が言っていた」

 

雪子ではなく、一馬が思わず聞いていた。

 

「どんな答えだったのですか」

 

「産みの親より育ての親って言葉があるだろ。育ててくれた人が本当の親だ。だから、そんなことは一度も考えたことがない」

これが父親の返事だったと、長男がいう。

 

「まあ、一度や二度はあったのかもしれないが、いかにも親父らしい言葉だと思う。

身内の自慢話になるけど、親父は最後まで佐々木家の長男として立派に生きた人です。異父兄弟である弟や妹たちからも慕われていましたし。

そんな境遇の下に生まれた人だから、親父は雪子さんが可愛いくて仕方なかったのだと思いますよ」

 

雪子はそっと目頭をぬぐっていた。

 

素敵な家族だったのだなあ、と一馬は思った。血のつながらない孫たちをとても可愛がった祖父。世間の好奇の目に耐えながら子供を育てた祖母。真っ直ぐに育った連れ子の男児。そのことを卑下することもなく、誇りさえ感じさせながら話す遺族。一馬にとっては深く心に刻み込まれる、素晴らしい話だった。

 

人それぞれの運命を受け入れ、逞しくもやさしい人々の中で雪子は育ったのだと、一馬は思った。そして佐々木のおじさんに会えなかったことを、とても残念がる雪子の気持ちも理解できたのだった。

 

昔話と雪子の現状についての話が交錯して、話題は尽きない。だが、晩夏の太陽はかなり水平線側へ傾いていた。

 

一馬たちは佐々木のおじさんの墓参りをした。そして、すぐ近くにある観音様へもお参りした。

 

台座を含めると五メートルはあろうかの思われる石造りの観音様が、はるか水平線をみつめて立っている。

 

一馬は驚いた。学生の時に京都で見た、雪子と重ねたあの観音像にそっくりではないか。慈愛に満ちた、深くあたたかな笑みを湛えている。

 

信仰心が決して篤いとは言えない一馬も、思わず手を合わせ礼拝せずにはいられなかった。隣にいる雪子も翔一郎を抱いたまま、目をつぶって何か熱心に語りかけているように見えた。

 

しばらくすると雪子は、観音様と同じように日本海を見ながら話した。

 

「ここでいつも佐々木のおじさんと海を眺めたり、夕陽を見たりしていたの。あまり教訓めいたことを言う人ではなかったけれど、『雪子、やさしいおばあちゃんとお爺ちゃんがいてよかったね。大きくなったら孝行してあげなさい』と何度も言われたの」

 

そしてこのように言うのだった。

 

「きっと私の祖母は、佐々木のおじさんが連れ子だったのを知っていたと思う。そんな気がする」

 

「ここはいいところだね。海が素晴らしくきれいだ。観音さんもいるし。佐々木さんが引っ越しいても、来年の夏また来ようよ。」一馬が言う。

 

「そうね。おばさんも来年のお盆には、お墓参りに来るだろうし。連絡先を聞いているから、同じ日に来られるよう相談します」

 

観音様の周囲には早咲きのコスモスが点在している。

 

「あら、小さな花のこのコスモスとっても可愛い」と雪子は声を弾ませた。

 

「雪子が何人もいるようだね」一馬は、心でつぶやいた。

 

そして、青い波間にキラキラと西日が躍る日本海を見渡し、もう一度観音様を仰ぎながら思うのだった。

 

「俺が北海道へ戻ったのは、運命に導かれたのかもしれない。これが正解だったのだ」と。

 

 

季節は移ろう。北海道は十月の半ばを迎えていた。

 

一馬は晴れた秋の空が好きだ。見上げると午後の空は高々とまぶしいほどに澄み渡り、はるか西の彼方に雲がぽつんと一つ浮かんでいる。

 

担当しているマンションで管理人との打ち合わせを終え、駐車場に止めてある車に戻った一馬は、業務用の携帯をチェックした。

 

「急ぎの用件は特にないな」と思いながら、念のため自分のスマホを覗いてみた。

 

LINEのアイコンに通知の数字がある。クリックする。一馬は驚いた。

 

あゆみからのメッセージが入っていたのだ。あの、大学准教授の桜木あゆみだ。

 

二人のLINEはつながったままだった。彼女が関西の大学へ赴任してから、二度だけ連絡を取り合ったことがある。

 

一度目は彼女が関西に行って三ヶ月ほど過ぎたころ、一馬がメッセージを送った。

 

「もうだいぶ落ち着いた?」

 

二日もたってから、ようやく返信があった。

 

「忙しくて目が回りそうなの。元気?」とだけ書かれていた。

 

一馬は少し寂しい気もしたが「これでいいんだ」と、思うことにした。

 

二度目はあゆみからだった。一馬が小樽へ来て、すでに半年近くも過ぎていたころだ。

 

「まだ、東京にいる?横浜で会議があって、四、五日滞在します」

 

「いや、北海道。半年も前から」と、一馬は返した。

 

「横浜から北海道は遠すぎますね、笑」

 

これが最後の通信だった。だから二人は、互いの現在に関しては全く知らない。

 

一馬はあゆみから送られてきたLINEのメッセージを見て、その内容に驚いた。

 

「来週、学会の仕事で札幌に行くことになりました。今住んでいるところは札幌に近い?遠い?北海道には一週間滞在する予定です。連絡いただければうれしい!」

 

一馬は動揺した。俄かには信じられない。何度も文字を読み返した。もう何年も音信普通だったのに。本当に、あゆみからのメッセージだろうかと疑った。だが、どう見ても桜木あゆみからに違いなかった。

 

メッセージには続きがあった。

 

「あなたに報告したいことがあるの」で終わっている。

 

一馬は「報告したいこと」が気になった。

 

あゆみは念願の教授になったのだろうか。秀才のあゆみなら十分あり得る。それとも大学を変わって北海道へ来るのか。

 

いや、結婚することになったとか、或はすでに結婚したのだろうか。しかし、別れた男に結婚の報告などするわけはないだろう。

 

いろんな思いが一馬の頭を駆け巡った。だが、どんなに思考を巡らせてもすべては推測の域を出ない。このメッセージだけでは、確信の持てる答えを見つけることができない。ただ、桜木あゆみが自分に会いたがっていることだけは間違いないだろう。

 

一馬は心の動揺を抑えきれなかった。脈拍が速くなるのを感じていた。スマホを持ったまま車の窓から外を眺めた。

 

駐車場の片隅にマンションの住民が植えたのだろう、数本のコスモスが可憐な花をいくつも咲かせている。コスモスの花々が一斉に、自分をみつめているような感覚に襲われた。

 

しかしこの場合、「動揺」では都合よすぎる表現だと、一馬は思った。

 

あゆみからのメッセージを読みながら、スマホを持つ手がかすかに震えたことを一馬は自覚している。

 

驚きと恐れが手を震わせたのだ。突然のメッセージだったから、驚くのはごく自然なことだろう。

 

恐れの正体こそ問題なのだ。自分の中で何かを期待し、うごめくものがあるからこそ恐れるのだ。

 

一馬の脳裏に白い笑顔が浮かぶ。四肢を伸ばして、ゆったりと水を切る水着姿が浮かぶ。

 

そしてほのかな灯りの下で、その時だけ刻まれる額のシワ、不規則にうごめく眉毛と眉間、わずかに開いた唇の間を漏れる甘く濡れた吐息、うっすらと浮かぶ首筋の汗。あゆみのすべてを一馬は覚えていた。

 

これを罪というなら自分の罪ではなく、男の罪ではないだろうかと一馬は考える。

 

一馬の心中を見透かすように、強い秋の風が駐車場を吹き抜けた。今度はコスモスたちが一斉に、そのけなげな首を大きく左右に振った。

 

輝くようなあゆみの姿が脳裏に浮かんでは消える。一馬は動けなかった。

 

  

季節は巡り、時は駆け抜けていく。それから、さらに三年の月日が流れていた。

 

食卓に着いた一馬の膝には両腕に抱えられ、小さな女の子がちょこんと座っている。口にくわえた白い指と、ふっくら赤いホッペが如何にも初々しかった。

 

テーブルの上には丸いケーキが置かれ、一本のロウソクがささやかな灯をともしている。やがて室内に『ハッピーバースデートゥーユー』の歌声が響き渡った。

 

翔一郎の妹千秋の誕生日だ。

 

雪子は一馬の向かい側に立ったまま、千秋と翔一郎の顔を交互に見ながら、歌詞を口ずさんでいる。紛れのない優しい母親の顔であり、愛おしい妻の顔だ。一馬の目にはそう映るのだった。

 

ロウソクの灯を吹き消してからもう一度、翔一郎と三人で「千秋ちゃん、一歳のお誕生日おめでとう」と声をそろえた。意味を知ってか知らずか千秋は、「ニコッ」と幼い笑顔をこぼした。

 

自分の力の及ばない人がいる。今となっては何も与えられなかったに等しい。だが、それを悔いてばかりでは生きていけない。

 

いま目の前には二つの希望が輝いている。この希望を雪子とともに精一杯は育んでやるのが自分の希望でもあると一馬は思うのだった。

 

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