偉人、スターといえども一人の人間。
悩みや迷いを抱えていない人など、一人もいません。
偉人もスターも悩みを吹っ切り、迷いを克服して一流になったのです。
努力なしの天才など、世に存在するわけがありません。
目の前の問題を克服し努力を重ねて超一流の称号を手に入れた、昭和の偉人やスターから学ぶことはたくさんあります。
この記事では、田中角栄、石原裕次郎、石原慎太郎、本田宗一郎、高倉健、渡哲也、坂西志保、千葉真一、志村けん、中村吉右衛門を取り上げました。
彼らは皆、人生哲学を持っていました。
現在の人々が失いつつあるものを再発見してください。
昭和の偉人、田中角栄から学ぼう!
田中角栄は、数々の名言を遺しました。
中でも「思いっきりやれ!責任は俺がとる」。
これ以上、部下や周囲の者を奮い立たせる名言はありません。
伝説の男は、また演説の名人でもありました。
巧みな演説で人の心を引き付ける力には目を見張ったものです。
角さんの凄みをまざまざと見せつけたのが、大蔵大臣就任の挨拶と日中国交正常化交渉での一言でした。
その二つのエピソードからどうぞ!
田中角栄の「思いっきりやれ、責任は俺がとる!」に人はしびれた
田中角栄氏は44歳で、大蔵大臣(現財務大臣)に就任します。
大蔵大臣としては史上最年少の就任でした。
ご存知の通り、大蔵官僚は「我々が国を背負って立つ」と自負する超高学歴集団で、10人中9人が東大出身です。
財務省と名称が変わった現在も、その傾向は変わりません。
そんなエリート集団の前に突如、大臣として現れたのが、学歴のない田中角栄だったのです。
「蔵相の器ではない、軽量級だ」と見下す政治家も当然いました。
大蔵官僚の中にも「尋常小学校しか出ていない奴に何ができるか」という雰囲気は、当然ありました。
しかし 角栄の就任挨拶で大蔵省内の空気は一変してしまいます。
「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である!
諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ」
「私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、互いによく知り合うことが大切だ」
「我と思わん者は遠慮なく、誰でも自由に大臣室に来るがいい!何でも言ってくれ」
「いちいち上司の許可を得る必要はない!できることはやる!できないことはやらない」
「しかし、全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上!!」
講堂に集まった大蔵省の官僚たちから、どよめきが起こったといいます。
日本中から選りすぐられたエリート集団のハートを鷲摑みにした名演説でした。
大蔵省の役人は事務次官から新人まで目を見張り、若い新大臣に心を開いたのです。
エリート官僚だって血の通った人間。
秀才たちを前に堂々と「小学校卒」を宣言し、後は「思い切りやってくれ、責任は俺がとる!」ですから、心揺さぶられるのは当然でしょう。
「自分を飾らず、裸になって人と向き合う。捨て身の生きざまこそ、田中角栄氏の真骨頂だった」。
このエピソードについては長年、角栄の秘書を務めた早坂茂三氏の著書から引用しました。
それにしても、比べてみてください。
当時の田中角栄は44歳。
自民党のホープと言われ、次期総理に相応しい人として、常に名前の上がる小泉進次郎が42歳。
女性総理候補として名前の出る小渕優子が50歳で、河野太郎に至っては60歳です。
政治家が小粒になったと、ため息が出てしまいます。
なお、3人の年齢は2024年1月15日現在のものです。
田中角栄、もう一つの「責任は俺がとる!」
田中角栄は歴代総理大臣の中でも、ズバ抜けてエピソードが多いことで有名です。
総理大臣就任直後、国交正常化のために中国を訪問した時のエピソードにも度肝を抜かれます。
田中角栄首相をはじめとした日中国交正常化の外交団が北京入りしたのは、1972年(昭和47年)9月25日でした。
具体的な交渉は、大平正芳外務大臣と周恩来首相によって進められます。
しかし、間もなく交渉は暗礁に乗り上げたのでした。
外交団がしょぼくれて控室に戻った時、彼らを迎えたのが角栄でした。
「こういう場面に出くわすと、大学出のインテリはまるでダメだなあ。」
大平外務大臣が少しムキになりました。
「では、いったいどうすればいいんだ?
彼らは思ったより手強いぞ、一筋縄ではいかないんだ」
「ハッハハハ、何を言っているのか。それを考えるのが東大出の秀才諸君じゃないか。」
笑いながらそのように言う角栄を見て一行も大笑いし、落ち着きを取り戻します。
その一言で、部屋は和やかな空気になったのです。
「なあに、ここまで来たら譲歩する必要はないよ。とことんやってみてダメなら中国へ観光旅行に来たと思えばいい。俺がすべての責任を持つ!」
この言葉に日本から一緒に来た外交団は、勇気づけられます。
大平外相や二階堂幹事長は、武者震いしたと伝えられています。
やがて田中首相と周恩来首相を交えた交渉が始まりました。
しかし、周恩来は日本の軍国主義者によって中国や人民が被った例を事細かに強調し、文句や苦情を延々と続けるのでした。
最初のうちは熱心に耳を傾けていた日本の外交団も、中国側の執拗さにウンザリしてしまいます。
ついには角栄が顔色を変えたのでした。
一気にまくし立てます。
「いい加減にしてもらえませんかなあ。我々は貴国と仲良くなろうと思い、こうしてはるばる日本からやって来ておる!」
「それをあんなことされた、こんなことされたなどと文句ばかり言われては、交渉は一向に進みませんぞ」
もう止まりません。
「で、私は1933年の21歳の時に騎兵部隊の二等兵として満州に赴任していました。
その時、日本軍の大砲や私たちの持つ鉄砲の先(銃口)は、どっちを向いていたか分かりますか!?」
周恩来は虚を突かれ、戸惑いを見せる。
「えっ?・・・・・・??」
角栄の凄みと剣幕に他の中国スタッフは、水を打ったように静まり返りました。
やや間をおいて、角栄は例のダミ声にドスを聞かせて、しかし、ゆっくりと言い放ちます。
「鉄砲の先はソ連の方を向いていたのですよ!!」
中国側を一瞬、沈黙が支配します。
やがて、静寂を破って部屋中に大きな笑い声が響いたのでした。
「わーっはっはっは。これは愉快だ」
中国の首脳につられて、日本スタッフにも笑いがもれました。
中国とソ連は同じ共産主義国でありながら、当時の関係は決して友好的とは言えなかったのです。
そのような事情を調べつくしていた角栄は、中国側の痛いところをうまく突いたのです。
角栄が銃口の向きで表現したのは、中国をソ連の侵略から守るために満州にいた、という意味だったのです。
見事な機転でした。
これほどの大舞台で、こんなウェットに富んだ表現ができるとは、もう本当に鳥肌が立つではありませんか。
次の日、ついに国家主席である毛沢東が出てきます。
面談に望んだのは田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進自民党幹事長の3人でした。
「周恩来同志とのケンカは済みましたか?ケンカをしないとダメです。
ケンカをしてこそ初めて仲良くなれます。」
『小異を捨てて大同につく』
毛沢東が角栄を認めた瞬間でした。
多くの紆余曲折はありました。
だが、両国首脳の粘り強い交渉が実り、日中国交正常化交渉は成功裏に終わったのです。
「思いっきりやれ!すべての責任は俺がとる」
田中角栄が色あせない所以でしょう。
田中角栄は演説の名人で伝説の男!
豊富な知識と天才的な記憶力、そして抜群の行動力から「コンピュータ付きブルドーザー」とも呼ばれた『角さん』こと田中角栄さん。
彼の凄さは、それだけにとどまりません。
巧みな演説で、たちまち人を引き付けてしまうのでした。
パーティー会場のステージへ上り、
「私が田中角栄です」
というだけで万雷の拍手が起きました。
そして、必ず聴衆から声が飛びます。
「よっ!」「待ってました」などですね。
まるで時代劇の芝居小屋を彷彿させるような雰囲気を一瞬のうちに創り出してしまうのですから、これはもう、本当にすごいものがあります。
雰囲気だけではありません。
話す内容も実に巧みに計算されつくされているのです。
例えばA議員の大臣就任パーティーだったとします。
まず、A議員にお祝いの言葉を述べ、本人を褒めたたえることを忘れません。
そして、そのあとがスゴイ。
日本の経済状況や置かれている国際情勢について実にわかりやすく、簡潔に説明します。
次は、必ずA議員の地元の事情に触れます。
「彼の地元は製造業が盛んですが、もう少し輸出を増やせばもっと経済は活性化する。
地元のためにそれができるのはA議員しかいません」
さらには、議員の奥さんが出席していると必ず奥さんのこともほめるのです。
そして、もう一度議員本人の話に戻り、今後の活躍に期待する言葉を述べます。
最後に今後の日本はどうあるべきかを訴えて演説を終えるのです。
このようなパーティーは時間が限られているうえゲストが多いので、角さんといえども演説の持ち時間は精々5分程度です。
その短い制限時間内にこれだけの内容をしっかりとまとめて盛り込むのですから、これは天才以外の何者でもありません。
独特のダミ声ではありますが、語尾がしっかりしていて話し方がとても力強く、間の取り方がまた抜群なのです。
これで聴衆は聞きほれてしまいます。
田中角栄の凄さはお金の使い方にも現れていた!
田中角栄は演説が素晴らしく上手でしたがお金の使い方が、これまたけた外れだったのです。
角さんはゴルフ好きで有名でした。
その彼が最も愛したゴルフ場であり、幾度となくプレーに通ったのが小金井カントリ―倶楽部です。
ゴルフ会員権が日本で一番高いコースとして有名ですが、バブルの頃は4億円の相場をつけて、世界的な話題となりました。
因みに、現在は4千万円前後で推移しています。
角さんが小金井カントリー倶楽部に行った時に配る、チップの額が半端ではありません。
ただただ、たまげるばかりです。
コースで会う人会う人、すべての人たちに1万円札を配るのです。
フロントの方、レストランの従業員、キャディさん、売店の人、コース管理で草を刈っている人や木を剪定する人まですべてです。
ロッカーでカギを管理する人から浴場の雑用係まで、本当に隅から隅まで一万円札を配ります。
田中角栄さんが小金井カントリー俱楽部のメンバーになったのは1972年ころのことでしたが、その当時から1万円札を配っていました。
1972年と言えば、ラーメン一杯140円、週刊誌が90円で映画は800円で観られました。
大卒の初任給が 47,000円前後、高卒の初任給は37,500円くらいの時です。
1万円の価値がどれほどすごかったか、よく分っていただけると思います。
こんな角さんに出会ったら、誰も悪口を言えませんね。
角さんのお金配りはゴルフ場に限ったことではありませんでした。
地方に出張して旅館に泊まる際も女中さんから調理場、そして女将さんまで、分け隔てなくご祝儀を配っていたと言います。
だから芸者遊びも実に豪快でした。
宴席を設けると正式な料金とは別に、秘書を通じて女将さんへ数十万円を渡していました。
「仲居さんや板場で働く連中に分けてくれ」
そう言って渡すのです。
ゴルフ場同様に、そんなことをされて喜ばない人がいるはずもありませんね。
「我々にまで気を使うなんてスゴイ人だなあ」
と、どこへ行っても角さんの人気はうなぎ登りになるのです。
情に厚く金離れの良い角さんは、宴席も常に明るかったことで知られています。
角さんの芸者遊びはいつも笑いが絶えないので、他の座敷にいる芸者さんたちまで彼の座敷に移りたくて、そわそわと落ち着かなかったのだとか。
田中角栄のゴルフは超せっかちだった?
田中角栄は、せっかちなことでも有名でした。
だから、ゴルフのプレーも速い。
通常はワンラウンド回るのに2時間から遅いと2時間半かかります。
それを角さんは1時間15分くらいで回ってしまうのです。
だから、1日にツーラウンドでもスリーラウンドでも平気で回ります。
角さんとは大の仲良しだった、藤原弘達という有名な評論家がいました。
二人は同じ小金井カントリー俱楽部のメンバー同士でもあり、よく一緒にプレーしたようです。
その藤原弘達が講演で言ってました。
「角栄のタフさは異常だよ。ゴルフをツーラウンド回って、赤坂か神楽坂あたりで一杯ひっかけて、夜もうワンラウンドやると丁度いい。というんだから驚くよ」。
夜も入れて、1日スリーラウンドが丁度よいと言うのですから、確かにタフですね。
田中角栄は三つの家庭を持っていた?
そんな角さんですから、当然女性にはモテます。
分っているだけで3つの家庭を持っていました。
娘・真紀子さんを育てたのは目白御殿で、神楽坂芸者だった辻和子さんとの間には二人の息子さんがいます。
そして、もう一つの家庭は角さんの金庫番として有名だった佐藤昭さんと築きました。彼女との間には娘さんが一人います。
角栄さんは情の人ですから、3人に対して同じように接し、大切にしたと言います。
子どもがいたかどうかは、分りませんがこの他にも女性はいたようです。
彼の哲学は
「外で遊んでもいいから、妻を大事にしろ」
でした。
田中派の議員や日本一の後援会と言われた越山会の関係者は、よくそのように言われたと聞きます。
そして女性に対しての記憶力とマメさもすごかったのです。
相手の女性が何が好きなのか、色やブランドの好みまで、全て頭に入っていたと言います。
行く先々でそれぞれの女性に合ったお土産を大量に買い求めていました。
秘書に買わせることもありましたが、渡すときだけは必ず自分が直接手渡します。
この記事を是非、前沢さんに読んでいただきたいと願っています。
角さんのお金の配り方と女性への接し方を学んでほしいと思うからです。
どなたか、前沢さんのお知り合いがいらっしゃいましたら、教えてあげてください。
最後まで情を貫いた田中角栄
さて、角さんは最後まで情を貫いた人でした。
ロッキード事件をきっかけに、彼の資金源が批判の集中砲火を浴びます。
国会でも大問題となり、角さんの後援会である越山会の会計責任者として佐藤昭の証人喚問が検討されたのです。
彼女を国会の場に連れ出し、世間の好奇の目にさらすわけにいかない。
そう思い、佐藤昭を守るために田中角栄は総理大臣を辞任します。
辞任当初は他の理由がいろいろ取りざたされましたが、近年では佐藤昭を守るための決断だったとの説が有力です。
1972年の総理大臣就任直後に出版した『日本列島改造論』は90万部を売り上げるベストセラーになりました。
これにより、地価高騰を招き狂乱物価と言われるほどの混乱を招いたことも確かです。
しかし、高速道路や新幹線、さらには本州四国連絡橋などを整備して日本列島を線で結ぶという発想は素晴らしいものでした。
東京一極集中を解決し、地方の活性化を図るためには角さんのような強力なリーダーシップの出現が望まれます。
角さんはいつの場合も、大都市と地方は平等であるべきだと言う視点から日本を俯瞰していました。
彼には類まれなる人間愛と情があったから、それが出来たのです。
田中角栄クラスのリーダー出現はあるか。
昭和の大スター、石原裕次郎に学ぼう!
石原裕次郎が亡くなって、もうすでに35年以上の歳月が流れました。
生前に収録していた『北の旅人』が大ヒットし、いまでもカラオケなどで歌い継がれています。
彼は生まれついてのスターで、死後も大スターなのです。
最終的な死因は肝臓がんでしたが、長く彼を苦しめたのは『解離性大動脈瘤』でした。
石原裕次郎の検索数は現役人気俳優をしのぐ!
「光陰矢の如し」と言いますが、月日が過ぎ去っていくのは、本当に速いものです。
裕次郎さんと言えば、若かりし頃は日活のアクション俳優として大活躍。
リリースされる歌も次々に大ヒットします。
若い頃から主演する映画の主題歌が、ことごとくヒットする稀有な俳優です。
映画が斜陽期に入るとテレビに進出し、刑事ドラマのボス役として類まれなる存在感を示しました。
その石原裕次郎は、いまだにすごい人気を誇ります。
インターネットのグーグルで検索する人が多いのには驚きます。
グーグルで検索される数が、1ヶ月で11万から12万回です。
この数のどこが凄いのかと言いますと、他の現役俳優の検索数と比較すれば彼の根強い人気は一目瞭然です。
例えば、石原裕次郎の愛弟子であり、長い間石原プロに所属し、今でも大活躍の舘ひろしより、かなり多く検索されています。
映画やテレビの主演クラスである、佐々木蔵之介や役所広司よりも多いのです。
年齢的にはこの二人の一世代下にあたる、中堅俳優の小泉孝太郎よりも多いので、本当にびっくり。
検索数だけを見ると渡辺謙と同等の注目度を誇っているのです。
ちなみに若手俳優の人気トップを争う、吉沢亮、横浜流星クラスになると一月50万から70万回検索されます。
インターネット検索は若い世代ほど多くなりますので、そのような点を考慮すると、さらに石原裕次郎人気の凄さがわかるのです。
グーグル検索が人気バロメーターのすべてとは言いませんが、一つの目安であることは、否定できません。
石原裕次郎のいまだに続く人気の秘密と魅力を追ってみました。
石原裕次郎の魅力と人気の秘密とは?
普通のケースとはかなり異なっていたのが。裕次郎の俳優デビューです。
1986年、兄である石原慎太郎原作の『太陽の季節』が、日活で映画化されることになりました。
この映画をプロデュースしたのが水の江瀧子でした。
彼女は裕次郎に俳優としての資質があることを見抜いていました。
だが、彼女の一存で、俳優にすることはできません。
何とか俳優に仕立てたいと考えていた彼女は、あれこれ考えを巡らせます。
そして、あるアイデアを思いつきました。
ヨットの指導や若者の生活スタイルアドバイザーなどの名目で、裕次郎を撮影に参加させることにしたのです。
撮影スタッフとして現場に出入りさせ、少しでも多く日活関係者の人の目に触れるようと考えたのです。
そうすれば、その魅力に気づくものが現れるだろう。
水の江滝子の狙いは当たります。
撮影が始まると裕次郎の魅力は、監督やカメラマンの目にとまります。
学生役で数カット出演させることが、すぐに決まったのです。
映画が公開されると端役ながら、長身のスタイルと精かんな顔が映画ファンにも注目され、話題となりました。
水の江滝子プロデューサーの目論見は、見事に的中します。
その後に映画『狂った果実』が制作されることになり裕次郎はに主演の依頼がきます。
なんと、裕次郎の指名した相手役が北原三枝だったので、関係者は驚きます。
当時、北原三枝はすでに日活の看板女優でした。
それを海の物とも山の物ともわからない新人が相手役に指名するなど、映画界の常識ではとても考えられません。
しかし、日活はその条件を飲みます。
こんな常識破りをいとも簡単にやってのけてしまう、石原裕次郎の大胆不敵さ。
おぼっちゃま育ちの慶応ボーイらしいところであり、彼の魅力です。
『狂った果実』は大ヒットします。
これを機に日活は一気に攻勢をかけます。
気を良くした裕次郎も、快くオファーに応えました。
デビューした年は、なんと6本の作品に出演しているのですから、まさにスーパールーキー。
と思いきや、この当時はどこの映画会社もすごい数の映画を撮っていたのですから、特別珍しいことでもなかったようです。
映画館も2本立てが基本でした。
撮影所も映画館も活気に満ち満ちていた、懐かしい時代です。
やがて、石原裕次郎は最初の主演映画『狂った果実』で共演した日活の看板女優・北原三枝と結婚することになります。
大スター同士の結婚は大騒ぎになりました。
このころはまだ人権意識が低く、個人の意思よりも映画会社の意向が強く働く時代だったのです。
俳優同士の結婚はご法度が、暗黙の了解でした。
したがって、二人の結婚には日活本社が大反対します。
1960年ですから、時代は60年安保闘争のど真ん中です。
デモに参加していた女子大生が死ぬなど、世の中は暗いニュースばかりでした。
そんな中で発表された二人の婚約は明るいニュースとして話題になり、世間は祝いムードで大いに歓迎されたのです。
二人の結婚により、翌年には長門裕之さんと南田洋子さんも結婚し、俳優同士の結婚や監督と女優の結婚などが相次ぐようになりました。
このように石原裕次郎は、次々と映画界の常識やタブーを破り、先例をつくる役目を果たしたのです。
それにしても、時として世の中には信じられないことが起きます。
実は、石原裕次郎は『太陽の季節』で水の江滝子に見いだされる前、東宝と大映のオーディションを受けてことごとく落ちていたのです。
いやいや、それだけではありません。
当の日活もオーディションで不採用にしていたのですから、驚きます。
水の江滝子の慧眼、恐るべしです。
もう一人、昭和の大スター三船敏郎のケースも似たところがあります。
三船敏郎が東宝ニューフェースの試験を受けた時のことでした。
監督やプロデューサーなどで構成された5人の試験官は、全員不合格にしてしまうのです。
ちょっと信じられませんが、れっきとした事実です。
だが、たまたま現場に居合わせたのが女優の高峰秀子。
彼女は、野性的な三船敏郎にひらめきを感じます。
撮影所を駆けずり回り、彼女はやっとの思いで黒澤明監督を見つけました。
対面した黒澤監督の鶴の一声で三船敏郎の合格が決まります。
人生とは本当に微妙なものです。
たた、この二人には共通点があります。
戦後の荒廃から立ち直りつつあった当時の日本において、映画は国民最大の娯楽でした。
そして、人気俳優の主流をなしていたのは、色白で整った目鼻立ちの優男(やさおとこ)でした。
ところが二人は、ご存じのように実に個性的です。
精悍、野性味、開放的、男くささが特徴です。
一見、ニーズにそぐわないように思われますが、実は時代が求めていたのは、二人のような強烈な個性でした。
これに気づいた水の江滝子、高峰秀子、そして黒澤明監督らのセンスと見る目は、やはり並ではなかったのです。
石原裕次郎が、ことごとくオーディションに落ちたのは、当時流行の最先端を行く映画関係者でさえ、近視眼的な発想しか持たなかったからでしょう。
だが、ごく少数の人は彼の規格外とも言える独自性に、大きな可能性を見い出していたのでした。
三船敏郎も同じケースです。
石原プロが大赤字だったから、太陽にほえろと西部警察が誕生した?
石原裕次郎は長年抱き続けていた夢を実現するため、1962年石原プロを興します。
そして、小型ヨットで太平洋単独無寄港横断に成功した堀江謙一さんをモデルに『太平洋ひとりぼっち』を製作したのです。
その後も三船敏郎と共演した『黒部の太陽』、過酷な自動車レースを描いた『栄光への5000キロ』など、男の生き様を描いた作品を多く発表します。
これこそが裕次郎の演じたかった世界です。
映画を通じて伝えたかったメッセージだったのだろうと、思われるのです。
だが、このころはテレビに押され映画は、すでに斜陽産業でした。
年々、その流れに拍車がかかり、石原プロは巨額の赤字を抱えます。
これに目を付けたのがテレビ局でした。
刑事ものの企画で再三、裕次郎へ出演を持ちかけます。
映画人としてのプライドだったのでしょうか、彼は断り続けたのです。
このままでは石原プロが危ないと思った盟友の、枡田利雄監督が説得に乗り出しました。
こうして生まれたのがテレビ番組『太陽にほえろ!』だったのです。
このドラマもまた、それまでの常識を破るものでした。
事件そのものより、事件を追う刑事たちを中心にストーリーは進行します。
裕次郎が演じるのは『ボス』こと藤堂係長で、部下の新米刑事には新人俳優を抜てきします。
この企画がとても新鮮で、ドラマは大きな話題を呼びました。
今度の新人はどんな形で殉職するのかが、大きな話題となった異色の刑事ドラマだったのです。
新米刑事役でこのドラマから巣立った俳優はその後、大活躍をします。
マカロニと呼ばれた萩原健一をはじめジーパンの松田優作、渡辺徹、神田正輝、三田村邦彦、勝野洋、沖雅也など、実に多彩な顔ぶれです。
伝説のドラマ『西部警察』が『石原軍団』の言葉を生んだ!
石原プロはその後も、刑事ものの『大都会』シリーズを製作します。
渡哲也が刑事で、裕次郎は新聞記者という設定でした。
そして、その流れからついに登場したのが、伝説のドラマ『西部警察』です。
放送がスタートしたのは、1979年10月のことでした。
このドラマがスタートすると間もなく、『石原軍団』という言葉が俄然有名になります。
石原裕次郎を頂点に渡哲也がまとめ役となった男の絆が、人々の心をとらえて離しません。
石原裕次郎を語るうえで、絶対に欠かせないのが、石原軍団の固い絆です。
これは、裕次郎の人柄抜きにあり得ませんでした。
とても多くの俳優やスタッフに慕われていた、裕次郎あればこその『男の絆』だったのです。
石原裕次郎は歌手としても超一流でした。
「嵐を呼ぶ男」「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜もありがとう」など、映画の主題歌がこれほどヒットした人は他にいません。
石原裕次郎が生前に収録していた『北の旅人』が大ヒット!
石原裕次郎の後半生は病魔との戦いでした。
最終的な死因は肝臓がんでしたが、長きにわたり彼を苦しめたのが『解離性大動脈瘤』でした。
1978年、慶応病院で最初の手術を受けてからは入退院を繰り返します。
何度か復帰しましたが、1987年7月15日ついに力尽きて帰らぬ人となったのです。
行年52歳ですから、本当に早すぎます。
生前に収録していた『北の旅人』と『我が人生に悔いはなし』が没後に発売されます。
両方ともヒットしますが『北の旅人』は、レコード125万枚を売り上げる大ヒット曲となりました。
今でも、カラオケで大人気です。
裕次郎の甘い声が心に響く、とても魅力的な一曲です。
北の旅人がたどり着いたのは岬の外れ。
北海道の釧路、函館、小樽と別れた彼女を探して旅する、孤独な男の歌です。
季節は晩秋から初冬。
恋人に巡り会えない寂しさともどかしさが、曲と歌詞を通して哀愁を誘います。
裕次郎のスター性を見抜いていたカメラマン
実は映画『太陽の季節』で石原裕次郎にスター性を見ていたのは、水の江滝子一人ではありませんでした。
カメラを担当していた伊佐山三郎は、エキストラとして参加していた裕次郎をファインダー越しに覗いて驚きます。
水の江滝子を呼び「あそこに将来の大スターがいる」と告げたのです。
それにより急遽、端役が与えられたのです。
石原裕次郎はスターになるために生まれてきたのであり、永遠の大スターということです。
昭和の大知識人、石原慎太郎から学ぼう!
まずは、石原慎太郎語録を聞いてください。
「自分の一生をプロデュースし演じるのは、誰でもない自分自身であって、それ以外の何者でもない」
「群を抜く仕事を成した人間を、人々は天才と呼ぶが、何の努力もなしに天才であった人はいない。才能の二倍、三倍の努力をしなければ、才能は表れてくれない」
「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね。私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」
「国を憂えている。若いやつは何してんだ。みんな腰抜けじゃないか。このままじゃ死ねない」
首尾一貫した言葉ばかりですね。
自らの言葉を実践した石原慎太郎の人生を追ってみました。
太陽の季節で文学界に衝撃を与えた石原慎太郎!
石原慎太郎は作家であり政治家でした。
とても才能豊かな方です。
昭和の大スター石原裕次郎は実弟でした。
二人は長い間、日本でもっとも有名な兄弟と言われ、抜群の知名度を誇り知らない人はいないほどです。
他にも有名な兄弟、姉妹はいるが、これほど長きにわたり日本人の心をとらえ続けたのは彼ら以外にいないでしょう。
石原慎太郎は、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞しています。
その後の活躍は目覚ましく、36歳で参議院議員に初当選しました。
当初は自民党公認ですが、その後めまぐるしく所属政党などが変わります。
彼の華やかで多彩な人生を知るためには、まずその経歴を知っておくことが大事です。
石原慎太郎の経歴と歩みを時系列で追いかけてみましょう。
1932年9月30日、兵庫県神戸市須磨区で生まれました。
山下汽船の役員を務めた父の転勤に伴い、その後、北海道の小樽市、神奈川県の逗子市で
育ちます。
神奈川県立湘南高等学校を卒業後、一橋大学に進学しました。
公認会計士になるために一橋大学に入学しましたが、自分は会計士には向かないことを自覚します。
そこから彼は文学に傾倒して行くのでした。
休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力します。
努力が実って同人誌は復活し、何とか印刷するところまでこぎつけます。
だが、その印刷代が足りない。
思案を巡らせた彼は、一橋大学のOBであり文学評論家の伊藤整に資金援助をお願いしようと考えます。
友人と二人で伊藤整宅を訪ねました。
当時の金額で8千円ほどですが、現在だと数十万円になる金額を伊藤整は気前よく二つ返事で引き受けてくれたのです。
やはりこのころから、石原慎太郎の行動力は並ではなかったようです。
だが、彼は決して押し付けがましかったり強引ではありませんでした。
伊藤整は、のちに彼が寄付をもらいに自宅へ来たときのことをこのように書いています。
「そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。
だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。
押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊な印象だった。
すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた」
この辺りが両者ともに、すごいですね。
きらりと光る印象を残す青年とそれを忘れない成功者。
これに似た話は時々、他でも聞きます。
背の高い石原青年は、どこかに育ちの良さを漂わせていたのでしょう。
感じの良さが決め手だったのだと思います。
いくら文芸評論家として売れっ子だった伊藤整とはいえ、感じの悪い青年に大金をポンと渡すわけがありません。
こうして、一橋大学の同人誌『一橋文藝』は復活します。
しかし、人間の運命というのはわからないものです。
自分の努力で復活させた同人誌によって、すぐに自分の文学的才能が開花するなんて、彼はこの時、全く予想もしていなかったことでしょう。
石原慎太郎は、復刻した同人誌『一橋文藝』に処女作である『灰色の教室』を発表します。
これが文芸評論家の浅見淵に絶賛されたのです。
彼は大いに自信をつけます。
そして第2作目となる『太陽の季節』を発表し、第34回芥川賞を受賞してしまうのですから、驚きです。
自らの才能を開花させるために、自分の力で何事かを切り拓いていく。
若き日の慎太郎の行動力に敬意を表すると同時に彼の運命的強さを感じずにはいられません。
学生であった彼の芥川賞受賞は世間に大きな衝撃を与えました。
昭和生まれとしては初の芥川賞作家になったのですが、議論を呼んだのは小説の描写でした。
若さを強調した情念や生々しい性描写、倫理に挑戦するがごとき内容が賛否両論を呼び、議論が沸き起こったのです。
同人誌『一橋文藝』発行にあたり多額の寄付を寄せた伊藤整はこのころ、文芸春秋で『文學界新人賞』の選考委員を務めていました。
賛否別れる『太陽の季節』をこのように評しています。
「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後にのびる」
そのように推奨し、『太陽の季節』は『文學界新人賞』も受賞したのです。
石原慎太郎とノーベル文学賞作家・大江健三郎の関係とは?
実はこのころ、あまり知らていませんが、石原慎太郎は、ノーベル賞作家の大江健三郎と親交がありました。
慎太郎より2学年下で東大生だった大江健三郎は、よく下宿を訪ねてきたそうです。
東京大学文学部に在籍していた大江健三郎ですが、学内には友達ができず、一橋大学の同人誌の仲間と文学について語り合ったと言います。
一緒に酒を飲んで慎太郎さんの下宿に泊まることもしばしばあったようですから、かなり慎太郎さんを慕っていたのでしょう。
だが、二人は決別します。
文学的にも政治的思想でもほぼ対極に位置するほどの関係になったのです。
両者とも芥川賞作家であり、売れっ子になるとどちらかと言えば、大江健三郎の方が石原慎太郎の政治スタンスを批判することが多かったように思われます。
石原慎太郎はあまり彼のことを批判しませんでしたが、一度だけやんわりと否定したことがあります。
「大江健三郎の晦渋(かいじゅう)は偽物だ」
晦渋とは難しすぎるという意味です。
そして、一度だけ本気で怒ったこともあります。
大江健三郎がノーベル文学賞の授賞式で「日本はヨーロッパの周辺の小さな国に過ぎません」と言ったことに怒りが爆発したのです。
「なぜ、日本がヨーロッパの周辺国なんだ」
「大江のような日本のインテリはどうして白人の前に出ると、母国を貶めるようなことを平気で言うのか」
このように大江健三郎を叱ったのです。
そして結びにこんなことを書いています。
「大江は孤独を癒すために俺の下宿に来て文学論を戦わせながら、あまり強くない酒を飲み、度々酔いつぶれた。あの純情をどこに忘れてきたのだ」
作家・石原慎太郎が政界へ華々しくデビュー!
石原慎太郎はその後も、ヒット作、話題作を連発します。
そして1968年、36歳で自民党から参議院議員に出馬しました。
選挙では抜群の知名度を生かして、史上最高の301万票あまりを得ています。
しかし、彼の政治家人生はこの後、めまぐるしいほどの動きを見せるのです。
1972年12月に行われた衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し衆議院に転進します。
1973年には田中内閣による台湾と国交断絶して中国と国交を結ぶ『日中国交正常化』に反対し、反共を旗印にした政策集団「青嵐会」を結成しました。
東京都知事選挙に立候補したのは1975年4月のことでした。
美濃部亮吉革新都政に挑戦するが、大敗してしまいます。
おそらく、この敗北によって石原慎太郎は人生初めての挫折感を味わったのではないでしょうか。
その屈辱から立ち直り、再度国政に復帰し、環境庁長官、運輸大臣などを歴任し、自民党総裁選にも立候補しますが、対立候補の海部俊樹に破れてしまいました。
1995年4月には、理由をはっきりさせないまま衆議院議員を辞職します。
それから約4年後の1999年、突如として東京都知事選への立候補を表明しました。
都知事選では4選を果たしますが、猪瀬直樹を後継に指名して途中でやめてしまいます。
その年に行われた衆議院議員総選挙に日本維新の会から比例東京ブロックで出馬しました。
当選して17年ぶりで国政へ復帰しますが、党の分裂などで所属政党が何度も変わります。
2014年の衆議院議員総選挙に立候補したのですが、落選して政界からの引退を表明するに至ったのです。
憲法改正は石原慎太郎の見果てぬ夢だった!
都知事をやめて再度国政に復帰し、何がしたかったのでしょうか。
憂国の思いに駆られていたことは十分理解できます。
だが、国政に返り咲いてすぐに何かを実行できるほど簡単ではありません。
政治がそんな甘いものではないことを豊富な経験で学ばなかったのかと、少し疑問が残る行動でした。
石原慎太郎には4人の息子さんがいます。
長男は石原伸晃で総裁選出馬経験もある、自民党の重鎮でしたが前回の総選挙で落選してしまいました。
三男も自民党の議員ですが、もっとも有名なのは次男の石原良純です。
テレビのワイドショーやバラエティ番組に出演していますので、知っている方も多いと思います。
良純さんは父である慎太郎の死を受けて、このように発言していました。
「父は小説家として、人生を全うしたと思います。
小説家としてはやり尽くしました」
間近で父・石原慎太郎を見てきた者からしたら、やはり小説家としての存在が大きかったのでしょう。
石原慎太郎さんが『太陽の季節』で芥川賞を受賞した昭和31年に日本政府は白書に「もはや戦後ではない」と書いています。
彼はこれに強く反発し続けました。
日本がアメリカから本当に独立し、戦後が終わるのは憲法を改正して、独自の軍隊を持つことだとの思いがとても強かったのです。
『憲法改正』は石原慎太郎さんの悲願でもあり、見果てぬ夢でした。
確かに石原慎太郎は政治家としても、それなりの実績は残しています。
運輸大臣時代に指示した成田国際空港へのJRと京成電鉄の乗り入れ、リニアモーターカーの実験線拡充などは彼の功績です。
また、都知事時代にはディーゼルエンジンの規制や前任の青島知事時代に弱体化した、東京都の財政立て直しにも成功しました。
だが、多くの石原ファンが彼に求めたのは、そのレベルではなかったのではないでしょうか。
憲法改正こそが石原本人とファンの悲願だったはずです。
都知事に転身した段階で、彼はその夢をあきらめたのでしょうか。
それとも、こちらの過剰な期待だったのだろうか。
いづれにしても、石原慎太郎はもういません。
彼はこうも言ってました。
「俺がいなくなった世の中は、退屈だぞ」
行動力抜群で知の巨人でもあった石原慎太郎は2022年(令和4年)2月1日、89歳の生涯を静かに閉じたのでした。
昭和の天才技術屋、本田宗一郎に学ぼう!
戦後の日本工業界を牽引した稀代の起業家、本田宗一郎が遺した素晴らしい名言と伝説なエピソードを紹介します。
低迷する日本経済ですが彼の生き方に触れ、日本中が生き生きとしていた昭和の高度経済成長時代に思いをはせてください。
あなたの飛躍に必要なヒントを、きっと見つけることができます。
偉人・本田宗一郎氏が残した10の名言!
本田宗一郎は、自動車メーカー『ホンダ』の創業者であり、日本の自動車産業発展に大きく貢献しました。
以下に、本田宗一郎が残した代表的な名言を紹介します。
技術は正義である
技術開発に熱心であり、製品開発においても妥協を許さなかった本田宗一郎の代表的な言葉です
彼は技術革新を常に追い求め、いつも最新の技術を取り入れることを心がけていました。
困難こそがビジネスである
挑戦と努力を怠らなかった本田宗一郎氏言葉です。
彼は常に困難な状況に直面しながらも、その困難を克服することで成長し、自身のビジネスを発展させ続けました。
先見力と勇気を持って、失敗を恐れずにチャレンジし続けることが成功への近道だ
成功するには、リスクを冒してチャレンジし、失敗を恐れずに立ち向かう勇気と先見力が必要だという本田宗一郎の言葉です。
彼は常に新しいことに挑戦し、チャレンジすることで自身が成長し会社を発展させていきました。
利益は目的ではなく結果である
本田宗一郎は、利益を目的とするのではなく、製品の品質向上や社会貢献に注力することで自然と利益が生まれると考えていました。
彼は常に社会貢献に目を向け、製品開発においても環境に配慮することで、社会からの信頼を得たのです。
もし自分が知らないことを知っている人がいるのなら、その人から学ぶべきだ
本田宗一郎は、謙虚な姿勢で知識や技術について常に学び続けることの大切さを説きました。
彼は周りの人々から多くのことを学び、それを自身のビジネスに活かしたのです。
良い製品は、良い人材から生まれる
本田宗一郎は良い製品を生み出すためには、優秀な人材を集め、育てることが重要だと考えていました。
彼は常に優秀な人材を探し、その人材を活かすことで、ホンダの自動車開発を進めていたのです。
人生とは道場であり、人生の全てが勉強である
本田宗一郎は、人生を道場ととらえ、経験から学ぶことが大切だと考えていました。
彼は自らも多くの挑戦と失敗を経験し、そこからとてもたくさんのことを学び、自身のビジネスに生かしていました。
成功するには、周りの人々と協力し、共に仕事を進めることが大切だ。
本田宗一郎は、一人では何も成し遂げられないと考え、周りの人々と協力し、共に仕事を進めることの大切さを説きました。
彼は社員たちと強い信頼関係を築き、ホンダはチームとして力を発揮したのです。
夢は叶わないものではなく、叶えるために努力しなければならないものである
本田宗一郎は、夢を追い求めることの重要性を説き、夢を実現するためには努力が必要だと考えていました。
彼は自らの夢を追いかけ、多くの人々に夢を与える存在として、多くの人々から尊敬されたのです。
最も重要なことは、最も重要でないことを見極めることである
本田宗一郎はビジネスにおいて、何が本当に重要であるかを見極めることの大切さを説いています。
彼は常に、自分たちが何をすべきかを明確にし、そこに全力を注ぎ、本当に必要なことに集中していました。
彼のこの姿勢は、ホンダの自動車開発においても極めて重要な役割を果たしたのです。
本田宗一郎が遺した数々の伝説的なエピソードとは?
50CCのバイク造りから始まり、『ホンダ』を世界的な自動車メーカーに育て上げた本田宗一郎は多くの業績と偉業を成し遂げ、数々の伝説的なエピソードを遺しています。
以下に本田宗一郎の伝説的なエピソードのうち、いくつかを紹介します。
無名時代のバイク作り
本田宗一郎がまだ無名だった頃、彼は自転車にエンジンを取り付けたバイクを試作しました。
当時の日本はまだ自動車は高価すぎて庶民には高嶺の花でした。
そのような事情から、バイクは交通手段として広く普及したのです。
彼がバイクを作るきっかけになったのは、毎日遠くまで買い物の行く奥様が乗る自転車でした。
戦後間もない頃、天竜川沿いの山奥に住んでいた本田夫婦でしたが、町に出る交通手段は自転車だけだったのです。
ある日これを見ていた本田宗一郎は「あの自転車にエンジンを付けたら、女房はどんなに楽だろう」と考えたのです。
その日から彼は自宅の庭先でエンジン付きの自転車づくりに励みます。
試作車ができると自ら走り回って、その性能を試しました。その後、このバイクを改良し製品化したのが『バタバタ』です。
これが、あっという間に大ヒットします。『ホンダ』はここから始まったのです。
デザインは美より機能性が信念!「鈍器のようなデザイン」と笑われた?
本田宗一郎は、自動車のデザインについて独自の考え方を持っていました。彼は、自動車のデザインには美しさよりも機能性が重要であると信じていたのです。
そのため、ホンダの車は競合他社の車と比べて「鈍器のようなデザイン」と揶揄されることもありました。
しかし、その機能性の高さが評価され、多くの人々から愛される自動車となっていくのでした。
本田宗一郎は「お客様第一主義」を徹底した!
本田宗一郎は、常にお客様のことを最優先に考える姿勢を貫いた経営者でした。
彼は、お客様が求める製品を提供することが、企業の成功の秘訣であると考えていたのです。
そのため、ホンダは、顧客ニーズに合わせた製品開発を積極的に行い、お客様からの支持を得ることに成功しました。
企業の経営者やこれから起業しようと考えている人には、とても重要なヒントです。
「失敗のない人生なんて面白くない」
本田宗一郎は常々このように言っていました。
「失敗のない人生なんて、つまらない。なんにも面白くない。歴史がないようなものです」
「自分の意志で何かやる、自分の考えが入るということが大事なんだよ。
車を作って売って、ただ儲けりゃいいってもんじゃない。それでは儚なすぎる」
現代人には耳を傾けるべき価値のある言葉が並んでいますね。
失敗を怖がっては何もできません。
自分たちはいつでも「トップランナー」でなければならない!
本田宗一郎を支え、成功に導いた思想の一つが「自分たちはいつでもトップランナーでなければならない」という信念でした。
彼は、常に競争相手よりも優れた技術や製品を開発し、業界のトップに立つことを目指していたのです。
そのために彼は、自らも学び、研究し、新しい技術や製品を開発することに力を注いでいました。
これらの伝説的なエピソードは、本田宗一郎の人生哲学でもあり、ビジネス哲学でもあったことを示しています。
そして、多くの社員や後進に影響を与えホンダの今に息づいているのです。
本田宗一郎は常に自分の信念に忠実でした。
競争相手と差別化するために独自のアプローチを追求することで、自動車産業界に革命をもたらしたのです。
最後に
いかがでしたか。
本田宗一郎が遺してくれた『名言』と『伝説のエピソード』は現代人の胸にど~んと響き、忘れていた人間本来のチャレンジ精神や探求心に火が付いた人もいると思います。
彼の精神と哲学が今日でも多くの人々に愛され、尊敬されている理由が、きっとお分かりいただけたことでしょう。
昭和のダイスター、高倉健から学ぼう!
高倉健は、実にかっこいい男でした。
とても魅力あふれる人でした。
代表作と言われる映画が、これほど多い俳優もまた他にいません。
そして、高倉健は礼儀正しい人でした。
礼儀にまつわる数多くのエピソードを遺しています。
例えば、健さんが出演した唯一の連続テレビドラマ『あにき』の脚本を書いた倉本聡は言います。
「自分より年下でも、相手が板前さんでもタクシー運転手でも駅員さんでも、きちんと立ち止まって礼をする人だった」
多くの作品にスタッフとして参加した映画関係者も、このように証言していました。
「とても礼儀正しい人です。大スターになっても全ての共演者に挨拶を忘れませんでした」
「監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う稀有な俳優でした」
高倉健はデビュー当時、大根役者だった?中国でのエピソードとは?
高倉健は、今でも中国で大人気です。
1976年公開された『君よ憤怒の河を渉れ』が中国に輸入されます。
これが大ヒットし、中国人の半分が観たとまでいわれるほどの人気だったのです。
宣伝のために共演した田中邦衛と訪中した時は高倉健を一目見ようと宿泊先のホテルへ大勢のファンが詰め掛け、その様子が日本でもニュースになりました。
高倉健が中国でこれほど人気があるのは映画のヒットだけが理由ではありません。
彼が中国に遺したエピソードが素晴らしいのです。
かつて健さんは中国の映画に出演したことがありました。
その時の中国人監督張芸謀は、健さんの行動に驚き感動します。
高倉健は休憩の時に椅子に一切座りません。
他のスタッフに遠慮して立ち続けていたのです。
さらには、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て
「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」
と感激のコメントを何度も発しています。
こうして、高倉健の礼儀正しさや他人への気遣いは中国中に知れ渡ったのです。
中国で高倉健が異常なほど人気を集める背景には、このようなエピソードが隠されています。
健さんは新人の頃、大根役者だった?
健さんは1955年ニューフェイス第2期生として東映へ入社しました。
ニューフェイスは入社すると俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスンを受けます。
その後には、東映の撮影所でエキストラ出演などさらに6か月の研修が課せられていました。
俳優座研究所では
「他の人の邪魔になるから、見学していてください」
と言われるのを何度も経験しています。
つまり、俳優としては落ちこぼれだったのです。
ぶっきらぼうで、演技下手な彼は研修が終わって映画に出演しますが、一向に売れません。
男くさい雰囲気を漂わせる礼儀正しい青年を何とか売り出そうと、東映の首脳陣はあれこれ手を尽くします。
当時、時代劇俳優として国民的スターになっていた中村錦之助(後の萬屋錦之助)も弟のようにかわいがり、よく面倒を見てくれました。
俳優として忍耐の日々が続いた健に大きな転機が訪れます。
1963年の『人生劇場 飛車角』で、準主役として出演したのですが、劇場に足を運んだ映画ファンの注目を集めました。
東映が時代劇から任侠映画に軸足を移しつつあった時期です。
そのタイミングで『人生劇場 飛車角』に出演し評判をとった彼は、任侠映画のスター候補となったのでした。
1964年には『日本侠客伝』で主役に抜擢されます。
東映は当初、中村錦之助に主役を打診しました。
やくざ映画を経営の柱にしたい東映が中村錦之助をやくざ映画の大スターに仕立てようともくろんだのです。
だが、当の中村錦之助は、あくまでも時代劇にこだわり、やくざ映画を嫌います。
そこで、健さんに白羽の矢が立ったという訳です。
だが、撮影に入ると監督らスタッフは頭を抱えます。
やくざ映画とはいえ、彼らがイメージしたのは時代劇の延長線上にある、やくざ同士の斬り合いです。
ところが高倉健の演技は、剣豪の殺陣とは程遠いものでした。
まるで野球選手がバットを振り回すようなアクションだったのですから、監督はたまりません。
しかし、映画が公開されると予想外の反応がありました。
健さんの寡黙な立ち居振る舞いと眼力が、スクリーンを通じて映画ファンを圧倒します。
大衆のそのような反応を知った健さんは、俳優としてのイメージ作りにのめり込んでいくのです。
無口で禁欲的な任侠道を貫く男という人物像を崩さないように努めます。
「俳優は肉体労働」という信条もあり、このころから筋力トレーニングとジョギングを欠かしませんでした。
1964年からは『日本侠客伝シリーズ』が始まります。
さらに翌年の1965年には『網走番外地』シリーズがスタートし『昭和残侠伝シリーズ』にも主演したのです。
もう、押しも押されもしない東映の看板スターになっていました。
『網走番外地』シリーズでは主題歌も爆発的なヒットを記録します。
レコードは200万枚を売り上げたのでした。
1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒット。
この二曲は今も、カラオケなどで歌い継がれています。
『唐獅子牡丹』には、このようなエピソードも隠されていました。
有名人や著名人の中にも高倉健ファンがたくさんいます。
あの、三島由紀夫も高倉健の大ファンだった!
小説家の三島由紀夫も高倉健ファンの一人でした。
彼が割腹自殺を遂げたいわゆる『三島事件』当日のことです。
1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫は自衛隊に決起を呼びかけるため市ヶ谷駐屯所へ向かいます。
道中『盾の会』のメンバーと一緒に乗っていた車の中で彼が口ずさんでいたのは『唐獅子牡丹』だったのです。
網走番外地や任侠シリーズが人気だった当時は、学生運動の真っただ中でした。
そのような社会を背景に、背筋がピンと伸び、鍛えられた身体。
寡黙で、不条理な仕打ちに耐え、一言も言い訳はしない。
義理と人情に命を懸け、恋も愛も捨ててついには復讐を果たす。
このような高倉健演じる主人公は、若者から中年サラリーマンなど幅広い層に圧倒的な支持を得たのです。
彼は実に格好いい俳優ですした。
学生運動にのめり込む学生までもが健さんのとりことなったのです。
しかし、健さん本人は年間10本以上にも及ぶ出演に消耗します。
ハードな制作スケジュールだけではなく、同じようなストーリーが毎回繰り返される単調さにも辟易し、疲弊したのです。
もう限界だと思っていた時に映画館を覗きました。
通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって叫び、喝采し、拍手まで送ります。
映画が終わって帰途に就くファンの姿は、映画館に入った時と明らかに違っていました。
自分が演じる主人公の影響を受けて、皆、目を輝かせています。
中には肩を怒らせて意気揚々と引き上げるファンまでいたのです。
これには驚きます。
同時になぜこんな風になるのか不思議でもありました。
だが、この体験で高倉健の意識は変化します。
たとえ、単調であってもファンの期待に応え、『定番』を懸命に演じ続けると心に決めたのです。
代表作が多い高倉健の役者魂はすごかった!
俳優業へ注ぐ高倉健の情熱は凄まじいものでした。
生活のすべてを役者としてのイメージづくりにささげた、と言っても過言ではありません。
いや、もしかしたら『主人公・高倉健』を自分自身で演じ続けていたのかもしれません。
初の松竹出演作であり、代表作の一つでもある『幸福の黄色いハンカチ』では、こんな逸話が残っています。
映画の冒頭で田舎町の食堂が映し出されます。
奥のテーブルにはポツンと男が座っていました。
刑期を終え、刑務所から出所したばかりです。
ビールを頼むと親切に女性店員がついでくれます。
男はグラスにつがれたビールを噛みしめるように飲み干しました。
続いて、ラーメンとカツ丼がテーブルに並びます。
男はラーメンの一口目だけをゆっくり味わった後、一気に平らげてしまうのです。
見ていて、よだれがこぼれるほど美味しそうに頬ばっていました。
演じたのは高倉健です。
撮影はNGなしの一発OKでした。
それにしても、あまりにもリアルな演技です。
山田洋次監督も完璧さに驚きます。
あまりの見事さに監督は思わず健さんに声をかけました。
返ってきた言葉に唖然とします。
「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」
健さんらしく、言葉少なに答えたのです。
実力を証明した『幸せの黄色いハンカチ』
粗製乱造のやくざ映画はあっという間に廃れます。
革命に名を借りた暴力集団が乱立し、学生運動もいつしか雲散霧消してしまいました。
だが『俳優高倉健』を確立した健さんは、実力にも人気にも一切陰りが見えることはありません。
『幸福の黄色いハンカチ』の後も、実に多くの代表作を残しています。
『野性の証明』『動乱』『遙かなる山の呼び声』『駅 STATION』『南極物語』『居酒屋兆治』『ブラック・レイン』『四十七人の刺客』『鉄道員(ぽっぽや)』など、出演する作品が次々とヒットしたのです。
高倉健は、生涯206本の映画に出演しています。
テレビドラマはわずかに6本です。
しかも、連続ドラマは先ほど少し触れた倉本聰の『あにき』1本だけでした。
故石原慎太郎は「最後の大物俳優」と評していましたが「最後の映画俳優」とも言えるでしょう。
映画だけでこれほど長きにわたり人気を保ち続けた日本の俳優は他に例をみません。
高倉健は永遠の映画スターです。
律義を絵に描いた男、昭和の大スター渡哲也に学ぼう!
渡哲也は格好いい俳優でした。
180㎝を超えるスラリとした長身で稀に見る律義さ。
彫りが深くて精悍、ハンサムでかつ男らしい顔。
すでに経営が傾きかけていた日活へ入社したのは、1964年(昭和39年)のことです。
日活の看板スターだった石原裕次郎は、初対面だった新人渡哲也に対して椅子から立ち上がり、丁寧にあいさつしました。
渡哲也は感激し、裕次郎さんに対して尊敬の念を抱きます。
その思いは、生涯かわることはありませんでした。
東映からの誘いを断り石原プロへ入ったのも、そのことが決め手となったのです。
挨拶は大事。
病魔と闘い続けた、男・渡哲也の壮絶で律義な生涯
すで経営が傾きかけていた日活は、大型新人として渡哲也を大々的に売り出します。
日活本社や主要映画館には横断幕が掲げられました。
『映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!』
そして、青山学院大学で空手をやっていた渡は記者発表の場で瓦割りを披露します。
渡哲也のデビューは1965年(昭和40年)3月の『あばれ騎士道』。
宍戸錠さんとのダブル主演でした。
続いて『赤い谷間の決闘』に出演し映画はヒットしなかったが、ファンには強烈な印象を残します。
「カッコいい俳優だなあ」
スクリーンに映る渡を見て、多くの若者はそう思ったものです。
『赤い谷間の決闘』は北海道の留萌を舞台としているが、倶知安町の硫黄谷が主な撮影現場だった。
石原裕次郎と渡哲也の共演だったが、この映画に限っては渡さんの方が目立っていたものです。
本当に格好良かったですよ。
映画の筋書きは実に単純なものです。
『東京から一人の若い男が北海道の留萠にやってくる。
しかし地元のやくざたちにからまれ痛めつけられてしまう。
たまたま通りかかった男に助けられますが。その男は石切り場で働いた。
やがて二人は協力してやくざと戦うことに。
戦いに勝利し石切り場は守られ、地元に平穏が戻る』
こんなあらすじですから、映画の内容ではなく俳優や女優のスター性だけを頼りにしていたのが当時の日活映画だったのです。
この後も日活は渡哲也に命運を託すかのように、石原裕次郎二世として必死の売り出し作戦を展開しします。
過去に大ヒットした石原裕次郎作品を渡哲也主演でリメークしたのです。
伝説の『嵐を呼ぶ男』や『陽のあたる坂道』などを次々と製作。
こんなクオリティのないことばかりやるのですから、折角の待望久しい大型新人もヒットを飛ばすことはできません。
1973年8月にリリースした『くちなしの花』が大ヒット。
『くちなしの花』が流行った当時はカラオケがまだなく、有線放送全盛時代。
スナックへ行くと、どの店も有線から演歌が流れていました。
歌に自信のあるやつは、有線を止めアカペラで唄っていたものです。
ミュージックボックスが流行ったのもこの時代でした。
渡哲也の最高傑作は何と言っても『西部警察』。
1979年10月14日 第1回の放送がスタートしています。
背広にビシっとネクタイを締め、角刈り頭にサングラス、手にはショットガン。
まさに型破りの警察官『大門巡査部長』と『大門軍団』。
一体、何台の車を燃やしたのだろうと思うほど、よく車を燃やしていました。
テレビドラマでは最強だったあの男が、常に病魔と闘っていたとは人生はむごい。
ざっと調べて見ただけで、これほどの病気と怪我との戦いを強いられていたのだから、言葉を失ってしまいます。
・1972年に30歳でフジテTVのドラマ『忍法かげろう斬り』に主演中、葉間肋膜炎と診断される。
・1974年1月主演を務めたNHK大河ドラマ『勝海舟』撮影中に高熱が続き、肋膜炎と診断される。
・1989年にはドラマのロケ中にヘリから飛び降りて左足腓腹(ひふく)筋を断裂。
・1991年には直腸がんと闘うため自ら病名を公表。
・2004年には肺炎を患う
・2015年には急性心筋梗塞での緊急手術を受ける
これほどの病魔と闘いながら、TV画面に映るときはその表情に病苦の欠けらさえ見せなかったのです。
役者が仕事とはいえ、あの毅然たる姿は相当な精神的強さに裏打ちされていなければ不可能。
病魔と闘いながら求道者のごとき内面の強さを積み重ね、弱弱しさや老いをまったく世間に感じさせなかったことは役者の鏡であり、奇跡とさえ言えるのではないでしょうか。
自分がこれほどまで過酷な運命に襲われたなら、果たして渡哲也のように立ち向かうことができたであろうか?
はっきり言って自信がありません。
渡哲也が映画デビューしたばかりの時のこと、日活の食堂で食事をしていた石原裕次郎の元に挨拶に行きました。
座って食事中だった大スター裕次郎が、なんとわざわざ立ち上がって励ましてくれたのだという。
「石原裕次郎です。君が新人の渡君ですか、頑張って下さいね」
あの時の感動が一生、渡哲也の心から離れることはありませんでした。
生涯、裕次郎の背中を追い続ける動機となったのです。
そして、渡はこの時の裕次郎を見習って、自分が大スターになってもベテラン若手関係なく、必ずきちんと立ち上がって挨拶を交わしたのだといいます。
渡の律義な態度に多くの若手俳優が感動しました。
石原軍団の舘ひろしもその一人です。
この気遣いは起業を目指す者やビジネスに身を置く者は、決して見逃してはならないでしょう。
倒産寸前だった石原プロに身を投じ、『西部警察』などで経営再建に大貢献した渡であるが、その起因となったのは裕次郎の挨拶だったのだから、たかが挨拶と蔑ろにしてはいけません。
渡も若手俳優に気遣いを見せたことで、永遠の人望を得たのです。
渡哲也だ大ブレークした西部警察の秘話とは?
渡哲也が大ブレークしたのはテレビ朝日系列で放送された『西部警察』です。
『西部警察』は1979年10月から1984年10月にかけて全3シリーズが放送されました。
彼が演じたのは大門圭介部長刑事です。
彼が率いる西部警察署捜査課の刑事たちは、『大門軍団』の異名をとり、犯罪者から恐れられます。
犯罪を憎む強固な意志を貫き、軍団は強い絆で結ばれていました。
武装した最強軍団を署内でから指揮するのは、石原裕次郎さん演じる木暮謙三警視です。
最新テクノロジーを搭載したスーパーマシンの数々を駆使して、大門軍団は凶悪犯罪に立ち向かいます。
ドラマはスリル満載で迫力もすごかったですね。
その辺の刑事ものとはスケールが違いました。
約5年間の撮影で訪れたロケ地が4,500ケ所。
封鎖した道路は40,500ヶ所に上ります。
さらに爆破させた自動車車両は約5,000台でヘリコプターは延べ600機も飛ばしました。
壊した家屋、ビルは320軒で使用した火薬の量が4.8トン、ガソリンは約12,000リットルを消費しています。
ちょっと想像するのが難しいですね。
全238話を撮影し放送していますが、あの大掛かりな撮影と派手なアクションで負傷者は数人出したものの、死者は出ていません。
日本のドラマ・映画史上空前絶後のスケールでした。
ああ、それにしても懐かしいですね『大門軍団』が。
このドラマで角刈りにサングラスが渡哲也のトレードマークになりました。
ドラマが放送されてから約一年後にある週刊誌が「サングラスの似合う人」のアンケートをとっています。
結果は二位を大きく引き離して、渡哲也がダントツのトップでした。
『西部警察』というタイトルは、西部劇のような刑事ドラマをイメージしたことから名づけたのです。
石原プロの企画、製作ですが、このドラマを放送する直前の石原プロは、経営が青息吐息の状態でした。
石原裕次郎はじめ、石原プロの首脳陣は西部警察に起死回生を託したのです。
そこで考えだされたのが、テレビ朝日との直接契約という手法でした。
民放は、ほぼ全ての番組でスポンサーと放送局の間に広告代理店が介在します。
広告代理店は番組内容に注文をつけ、広告料の10%〜20%を手数料として徴収します。
それをカット出来れば自由に番組をつくれるうえに、広告料は丸々、石原プロに入ります。
だが、石原プロには広告代を払ってくれるスポンサー企業を探すノウハウはありません。
そこで白羽の矢が立ったのは、東急エージェンシーだったのです。
東急エージェンシーは番組の枠をテレビ朝日から買い、少しのマージンを乗せて石原プロに売ります。
その代わりスポンサーを集め、広告料から手数料を取らなかったのです。
この斬新な手法で、石原プロは盤石な経営基盤を築くことに成功します。
そして、30億円の預金までできたと言われています。
この企画を成功に導いた陰には石原裕次郎さんの兄、石原慎太郎の強力な支援がありました。
渡哲也主演で大ヒットした西部警察はドラマのスケールも大きかったのですが、企画段階から大掛かりなプロジェクトが動いていたのです。
吉永小百合との結婚が叶わず、渡哲也が選んだ奥さんとは?
渡哲也は若いころ吉永小百合と結婚寸前だったと言われています。
だが、吉永小百合の両親が強固に反対し結婚には至りませんでした。
娘に経済のすべてを頼り切っていた両親は結婚により芸能界から引退されては大変だと思い強く反対したと、当時は言われました。
だが、真偽のほどは確かめようがありません。
そんな渡哲也が結婚相手に選んだのは、青山学院大学の一年後輩だった俊子さんです。
お父さんは大手鉄鋼会社の役員を務めた方でした。
したがって、渡哲也の奥さんは良家のお嬢様だったことになります。
しかし、良妻賢母の典型的な人です。
渡哲也が最初の病に倒れた時は、長男を妊娠していました。
それでも、必死に看病を続け、早産ではありましたが、一人息子も無事出産したのです。
決して表に出ることはなく、子どもを育てながら、渡哲也さんを支え続けました。
大スターにしてはひっそりとした家族葬だったのも「静かに送ってほしい」との夫である渡さんの遺言に従ったからだと言われています。
奥様、男・渡哲也を全力で支えていただき本当にありがとうございました。
そして渡哲也、くつろいでゆっくりお休みください。
戦後民主主義の伝道者、坂西志保から学ぶこと!
あなたは、北海道出身で小樽生まれの偉人・坂西志保を知っていますか?
戦時中はアメリカと母国・日本、両国からのスパイ容疑に苦しみ、終戦と同時にGHQ職員に抜擢された波瀾万丈の前半生。
そして、外務省やNHKに公職を得、憲法調査会委員を務めるなど行政、立法、教育と幅広く活躍し、いかんなく才能を発揮した後半生。
彼女は塩谷村の開拓農家に生まれた。
現在の小樽市塩谷3丁目、通称伍助沢だ。
伍助沢分教所では、あの伊藤整の父から学んでいる。
明治の終わり十代の少女が開拓村からたった一人で上京するのだから、想像を絶する意志の強さと行動力だ。
志保の行動力はそれにとどまらなかった。
大正時代には20代半ばで単身渡米するのだから、まさしく不撓不屈だ。
その博識と理知で戦後民主主義の伝道者とさえ言われる才媛。
しかし、多くの書物で坂西志保は東京生まれと記述されている。
このミステリアスな誤謬は、第二次世界大戦を挟みアメリカと日本両国で彼女を襲った、数奇な運命によるところが大きいと思われる。
他の追随を許さない彼女の進取の精神と才能あふれる人生を追いながら、小樽生まれがなぜ東京生まれと記されるのか、その謎に迫った。
小樽・塩谷の開拓農家に生まれた坂西志保が東京生まれの謎?
小樽を超えて日本を代表する才媛・坂西志保は、出生地小樽でも知る人は少ないのではないだろうか。
彼女の人生は波乱に満ち、そしてミステリアスさえ感じさせるのだ。
1922年(大正11年)にアメリカへ留学した志保は哲学博士の学位を取得し、学業を終えた後も現地にとどまり、大学で助教授として教鞭をとるなど、その出世は目ざましかった。
日米開戦時にはアメリカ議会が運営する図書館で重要なポストにあったが、この頃の志保は次々といわれなき人災に襲われた。
公開された機密文書によって発覚したのであるが、日米が太平洋戦争に突入した当時の米国大統領は、かなり特異な性質の持ち主だった。
「人種間にある優劣を重視し、人種交配によってこそ文明が進歩する」
「インド系やユーラシア系とアジア系、そしてヨーロッパ人とアジア人種を交配させるべきだ」
「けれど、日本人だけは除外する」
まったく、大きなお世話であるが、側近にこんなことを平気で話す、レイシストを通り越してかなり得体の知れない人物であったが、なんと大統領に三選されるのだった。
この男は目の上のたんこぶ日本に戦争を仕掛け、叩きのめしたくてうずうずしていた。
これにまんまと乗せられたのが、軍部と一体となった当時の日本政府なのだから、こちらも決して上等とは云えない判断力だった。
国のトップ、組織のトップがいつも正常であり、優秀であるとは限らない。
正常な判断力を失った日米両政府に翻弄され、そしてその過酷な運命を克服し世に多大なる功績を残した人が坂西志保だった。
聡明で毅然とした彼女こそ国境を越えた才媛と呼ぶに相応しい。
坂西志保に興味を抱き調べてみると、誰もが不思議なことに突き当たるのではないだろうか。
彼女の経歴で明治29年(1896年)12月6日、東京神田生まれと記しているメデアがとても多いのだが、これでは辻褄が合わない。
なぜなら、志保の両親である坂西傳明夫妻が北海道後志国忍路(おしょろ)郡塩谷村(現小樽市塩谷)の開拓地に入植したのは、明治26年で彼女が生まれる3年も前のことであった。
しかも、父である伝明氏は北海道へ渡る以前は横浜の外国人居留地で警察官をしていたのだから、一家が東京に住居を構えていた形跡などもまったく見当たらない。
今でこそ交通網が発達し、横浜・東京間は目と鼻の先、通勤圏であるが、明治期に都内に居を構え横浜に勤務するなど、とても考えられないことである。
実弟や友人たちによって編集された志保亡き後の追悼集には、彼女が当時の塩谷村で生まれたことが明記され、父の入植時期に触れられた書物も残っている。
なのに東京生まれと流布されているとは、その生誕からしてミステリアスだ。
母校の 捜真女学校がホームページで発表している、彼女の略歴を見てみよう。
【略 歴】
1896年(明29)小樽市生れ
1918年(大7) 捜真女学校英文専科卒業・東京女子大学入学
1921年(大10)~1922(大正11) 関東学院英語教師
1922年(大11) 米国マサチューセッツ州ノートンにある女子大学イートン・カレッジ入学
1925年(大14) 同大学卒業学士号取得
ミシガン大学大学院入学
1926年(昭元) 同大学英語科修士号取得
1929年(昭4) 同大学Ph.D(博士号)取得
ヴァージニア州ホリンズ・カレッジ助教授就任
1930年(昭5) 米国議会図書館中國文献部門助手として就職 日本語資料整理担当
1938年(昭13) 同図書館オリエンタル部日本課課長就任
1942年(昭17) 日米開戦後、収容所に抑留される。その後交換船で強制帰国
1942年(昭17) 外務省嘱託 米国の国状について解説、分析を行う
1976年(昭51) 逝去
ご覧の通り母校の捜真学院・捜真中高女学校では、小樽出身と明記されている。
だが、ネットで引用されることの多いWikipediaに、坂西志保、東京神田区で生まれると書き込んだ人がいる。
これを鵜呑みにしたメデアによって、坂西志保・東京生まれ説が跋扈していると思われる。
戦時中から坂西自身が経歴書で東京出身を通していたのだが、Wikipediaに書き込んだ人やメデアが確認作業を怠っていたのだろうと推測できる。
そうして、ここで最も重要な疑問に行きつくことになる。
なぜ彼女は東京出身で通したのか。
自己の経歴を飾るため小樽を捨て東京を選ぶなど、坂西志保に限っては100%あり得なことだ。
その陰に見え隠れするものは、戦時中の剣呑な空気と狂気めく特別高等警察・いわゆる特高の存在である。
経歴で分かる通り坂西は米国の大学で博士号を取得し、アメリカ議会図書館日本課長に抜擢されるほど、異国においても優秀さを認められていた。
しかし、運命とはなんと皮肉で理不尽なものだろうか。
後にその優秀さゆえに警戒され、まったく身に覚えのないスパイ容疑をかけられ、日本へ強制送還されるのだからたまらない。
当時のアメリカ諜報機関トップから「好ましからざる人物」と名指しされた彼女は、在米日本人女性としては唯一人拘束・収容され、1942年(昭和17年)6月に米国を出港した日米交換船で強制的な帰国を余儀なくされたのだった。
帰国後、坂西は留学以来つぶさにその目で見てきたアメリカと、母国日本の国力の違いを再認識する。
太平洋の向こうから見るよりもその差は大きく、愕然とするほどだった。
日本の将来を憂い、折に触れ国力の差を訴え戦争からの早期撤退を願ったのであるが、血迷った軍部がこれを快く思うはずもなく、彼女は四六時中特高に尾行されることになってしまう。
一時は命の危険を感じるほど、執拗なものだったという。
アメリカからスパイ容疑で追放された坂西であるが、今度は母国にあって親米スパイの危険分子と見做されたのだからたまったものではない。
何という不条理、何という理不尽であろう。
しかし、それが戦争と言うものなのだろう。
私は特高や憲兵を知らないが冷静さを欠き、ただただ戦争への道を狂信的に突っ走る彼らは、尋常ならざる組織であっただろうことは想像できる。
身辺を付け狙われる坂西志保であったが、当時父親や家族は塩谷に住んでいたのだから、家族に危険が及ばぬよう東京出身と偽ったとしても全く不思議ではない。
この頃の志保は家族について、友人、知人に対しても固く口を閉ざし、一切語ることはなかったと伝えられている。
狂気の特高から家族を守るため自らの経歴に『東京生まれ』と書いた可能性は高く、すぐれた危機管理と言えるだろう。
やがて坂西が危惧した通り、圧倒的な国力の差を見せつけられ、日本敗戦で戦争は終結する。
そして、戦時中には日米両国からスパイ嫌疑をかけられ、危険人物として徹底的にマークされる存在であったが、終戦後はその評価が一変した。
双方の国から才能を高く評価され、重用されるのだから坂西志保の人生は痛快なほど大逆転するのだった。
真っ先に坂西の実力を認めたのは、当時の日本を占領したJHQである。
敗戦国日本にアメリカ的民主主義を根付かせ、軍部や財閥を解体すべく任務を負ったGHQは坂西志保を職員として採用した。
彼女は理知と博識に裏打ちされた能力を存分に発揮し、やがては治安維持法の改定に関わる仕事を任せられるまでに信頼を勝ち得るのだった。
治安維持法は昭和27年に制定された破防法によってその意図を引き継がれる、いわば共産主義者による暴力革命阻止を念頭において制定された法律だ。
アメリカは経済面おいても軍事的にも目の上のたんこぶだった日本とドイツを敗戦に追い込み、大戦後の警戒しべき対象は旧ソビエト連邦を中心とした共産主義に移っていた。
その共産主義を警戒した法律の見直しを、かつてアメリカ本国でスパイ扱いされた坂西に任せたのであるから、これは実にスリリングであり、強固な信頼の証とも取れるだろう。
このことからJHQ及びアメリカは坂西が日本へ帰国したのちの冷静な言動を見極め、スパイ容疑を完全に払拭していたと推察できる。
真珠湾攻撃の直前あたりから日本に対するアメリカの警戒心は異常に高まり、しかるべき地位にあった米国内の日本人は誰彼となくFBIに連行された。
坂西へのいわれなき仕打ちも、アメリカのパニックによる所業だったのです。
スパイ容疑など、まさに濡れ衣以外の何物でもなかった。
頭脳明晰で沈着な坂西志保はアメリカ在住のころから日米国力の差を認識し、スパイどころかむしろ、戦争忌避をそれとなく在米日本政府関係者に訴えていた形跡がある。
しかし、いつの時代も狂信的な声の前では冷静な声は無力なのだ。
思考力が低下した者をトップに戴く組織の人間に、正常な判断を望むのはやはり困難だった。
当時、彼女ほどアメリカに精通した日本女性はいなかっただろう。
いや、男女を超えて最もアメリカを知る日本人の一人だったことは疑うべきもない。
だが坂西志保の憂いも忠告にも、外務省など日本政府関係者が耳を貸すことはなく、むしろ親米の危険分子としてマークされる事態を招くことになってしまうのだった。
こうして、坂西はまたもスパイの濡れ衣を着ることになり、アメリカでは強制収容、母国日本では特高に四六時中張り付かれる存在になる。
戦争が終結を見たことによりアメリカを主体としたJHQには至極まっとうな判断力が戻り、優秀で日米両国の政治、法律、文化、民族像に精通した坂西を三顧の礼を持って迎えるに至ったのだ。
彼女は次のような名言を残している。
『事実から離れた知識というものはあり得ない』
坂西志保と伊藤整の接点は伍助沢分教所
立法、行政、教育と多岐にわたり活躍し、晩年は憲法調査会委員、国家公安委員も務めた坂西志保であるが、鉄のように固く冷徹な女性だったかと言うとそうではない。
彼女はヒューマニズムに立脚した評論活動に後半生の軸を置き、著書は多彩な分野に及んでいる。
若いころから文学に親しみ、歌集の翻訳本を出版するほどの才能も発揮した。
1934年(昭和9年)には石川啄木の「一握の砂」、翌1935年(昭和10年)には、何と与謝野晶子の「みだれ髪」を英訳し出版している。
稀代のアクションスター千葉真一から学ぼう!
千葉真一が亡くなられたのは2021年8月19日のことでした。
82歳で逝ってしまいましたが、とても80歳を超えているとは思えないほど若々しかったのに、本当に残念です。
俳優にとって『肉体は命』が千葉真一の信念だった!
亡くなられるわずか1ヶ月前にある雑誌のインタビューを受けています。
その中で千葉真一は、このように言っていました。
「俳優にとって肉体は命です。屈強な体がなければ、よい演技はできません。
だから、アメリカの俳優は体を鍛えます。でも、日本の俳優で本格的に身体を鍛える人はまだまだ少ない」
そして、このように結んでいます。
「私の身体は頑丈だ。まだまだ俳優としてやっていける」
しかし、それからわずか1月後にコロナで入院しあっという間に、帰らぬ人となってしまったのです。
最初の奥さんは野際陽子で二人の息子が千葉真一のDNAを継ぐ!
大女優だった野際陽子は最初の奥さんで、二人の間に生まれたのが、女優の真瀬樹里。
そして、再婚した奥さんとの間には二人の息子がいます。
今、活躍中の新田真剣佑に眞栄田郷敦です。
芸能一家ですから彼のDNAはこの二人を中心に、間違いなく引き継がれることでしょう。
千葉真一は日本で唯一無二のアクションスターだった!
千葉真一はよく『日本を代表するアクションスター』と表現されますが、これは少し間違っていると思います。
彼は、日本において唯一無二のアクションスターでした。
アクションの革命児とも言える存在です。
千葉真一は1968年からTBSで放送された『キイハンター』に出演します。
このドラマで見せた彼のアクションはテレビファンの度肝を抜きました。
千葉真一が演じたのは国際警察特別室特殊スタッフの一員である風間洋介です。
この男の行動がスゴイ。
なんと猛スピードでひた走る列車へ、トンネルの上から飛び乗ってしまうのですから見ている方はビックリ仰天です。
そして、列車の上で犯人と猛烈な格闘を繰り広げます。
一歩間違えばひたすら走り続ける列車から、真っ逆さまに転落して当たり前の危険な演技です。
列車の屋根での格闘シーンが初めてなら、スタントマンを使わずにスター俳優本人がこんな危険な場面を演じるのも日本初でした。
この他にも視聴者をハラハラさせるシーンには事欠きません。
深い渓谷を行き来するロープウェイにワイヤを投げてぶら下がり、そこからよじ登るカットもあります。
列車同様にバスに飛び降り屋根での格闘シーンは、毎度おなじみと言えるほどでした。
自動車から並走する軽飛行機に飛び移る場面など、息を飲むシーンを連発したものです。
雪渓を転がり落ちて滝の前でギリギリストップしたと思ったら、息もつかせず今度は犯人と格闘ですから本当に見ごたえがありました。
このようなスリル満点のドラマ『キイハンター』は、つねに視聴率が30%を超えます。
1年の予定が5年に延長された『キイハンター』
『キイハンター』が1年の放送予定を5年に延長されたのは当然です。
危険なアクションシーンは千葉真一さん本人が演じています。
スタントマンなしです。
したがってケガも絶えませんでした。
小さな怪我は、ほぼ毎回ありました。
左足首の骨折もしたし、日本刀で腕を斬られたこともあったと言います。
こんな調子ですから視聴者の度肝を抜いたのは当然のことです。
それまでのアクションと言えば、殴る蹴るが中心で狭い範囲での喧嘩シーンが主流でした。
そのイメージを大きく変えたのが、千葉真一さんのアクションだったのです。
後年、彼はこのドラマの撮影を振り返り、次のように言っています。
「あのときは文字通り体当たりでね。何せ僕以外にあんなことはできないわけだから。
でも、僕が日体大出身だったからできたことです」
日体大時代、怪我で体操を断念し俳優の道に!
千葉真一本人が言っているように日体大で体操選手だったことを抜きに、彼のアクションを語ることはできません。
千葉真一は1931年1月22日、福岡県福岡市博多区で生まれました。
4歳の時に千葉県君津市へ転居します。
中学生になると器械体操を始めるのですが、夢はオリンピック出場です。
高校は千葉県立木更津一高へ進学し、器械体操を続けます。
1年生で全国大会に入賞を果たし、3年生になると全国大会で優勝を成し遂げたのです。
1957年には体操の名門、日本体育大学体育学部体育学科に進学しました。
オリンピック出場も有望視された彼の運命が暗転するのは、大学2年生の時です。
跳馬の練習中に着地で失敗します。
腰と両膝に大きなダメージを受けてしまったのです。
練習とアルバイトの掛け持ちが身体に大きな負担となっていたこともあり、医者から「1年間の運動禁止」を宣告されてしまいます。
1年間の運動禁止宣告は体操選手をやめろと言われたも同然でした。
休学も検討しましたが、アルバイトもできないので学費を工面できません。
退学を決断します。
失意のまま君津へ帰ろうとした彼が代々木駅で見たのは『東映第6期ニューフェイス募集!』のポスターでした。
2万6千人が応募した中でトップの成績で合格を果たします。
1年後の1960年1月7日にはテレビドラマ『新 七色仮面』の主演でデビューを飾りました。
このように千葉真一は、役者としての下積み期間はほぼありません。
それまでのアクションスターで柔道や空手の有段者はいましたが、器械体操のプロは誰一人いなかったのです。
その特技を生かして、彼はスターへと駆け上って行きます。
ただ、その前に彼の気持ちの切り替えの早さに注目すべきでしょう。
オリンピック出場の夢は露と消え、体操選手を続けることさえままならなかったのに彼は腐ることもなく、すぐに気持ちを切り替え俳優を目指します。
この決断の速さとためらうことのない行動力が、千葉真一にとって最大の武器だったのです。
あの切れの鋭い俊敏なアクションは、日体大で学んだ体操の技術と本人の性格によって生まれたと言えるでしょう。
彼は日体大で体操競技に打ち込んだことをとても誇りにしていました。
その気持ちが通じたのでしょう。
2013年3月10日には日本体育大学から、正式に卒業証書を授与されました。
千葉真一は器械体操プラス武道の習得で無敵となった!
千葉真一は俳優として活躍の傍ら武道を学びます。
少林寺拳法や極真空手に精力的に取り組みました。
器械体操に拳法や空手が加わるのですから、アクションスターとしてはまさに鬼に金棒です。
このような強力な武器を携えて、やがて彼は時代劇に挑戦します。
映画の時代劇において強烈な存在感を発揮したのが深作欣二監督の『柳生一族の陰謀』です。
千葉真一はデビュー間もないころから深作欣二さんとコンビを組み、大きな影響を受けています。
「役者はどんな役にも対応できるよう身体の鍛錬が必要だ。 肉体は俳優の言葉だ」
若い頃深作欣二監督からこのように言われそれを実践し続けたのが千葉真一さんです。
『柳生一族の陰謀』では柳生十兵衛を演じますが鍛え上げた肉体での殺陣が見ごたえたっぷりでした。
最大の敵が成田三樹夫演じる公家の烏丸少将です。
烏丸少将の演技がまた素晴らしい。
「おじゃる」言葉を使って一見、物腰はやわらかいが、一皮むくとニヒルで冷酷、そして公家には稀な凄腕の剣術使いです。
ラスト近くでは1対1の死闘を制して、千葉演じる柳生十兵衛が「ふー」とため息をつくシーンが実にリアルでした。
千葉真一がキアヌ・リーブスに尊敬される理由は?
時代劇で共演したことのある的場浩司さんは言います。
「ため息と笑顔がとても似合う方でした」
時代劇でも彼のアクションは改革をもたらしたのです。
『柳生十兵衛七番勝負』で共演した村上弘明は言います。
「旧来の立ち回りに変革をもたらした人です。
特にアクション、殺陣の分野において曲芸的なもの、よりショーアップしたものを取り入れ、アクションを創り上げた人でした」
『源義経』で共演した東山紀之は驚嘆しています。
「千葉真一さんは時代劇の立ち回りにアクションを入れた最初の方なんです」
「今、世界中の映画で行われているアクションものは、実は最初に千葉さんがお考えになったものです。この功績は凄いです」
『戦国自衛隊』も素晴らしかったですね。
この映画では千葉真一が子役時代から可愛がってきた真田広之が飛行中のヘリから飛び降りるシーンがありました。
とても危険極まりないシーンです。
これに関して千葉真一はこのように言っています。
「真田君に万が一のことがあったら、僕も死のうと心の中で決めていました」
派手なアクション男は、弟子思いで実はとてもやさしかったのです。
千葉真一はサニー千葉の名前で『キル・ビル』などハリウッド映画にも出演し、アメリカではとても有名でした。
そんな彼に子どもの頃から憧れていたハリウッドの大スターがいます。
『スピード』『マトリックス』など、アクション映画の主演で知られるキアヌ・リーブスがその人です。
「サニー千葉は僕らアクション俳優なら、誰でも尊敬しているんじゃないかな。
彼はアクションスターで主役という、ひとつの基本を作った人だよ」
あの、キアヌ・リーブスから最大の賛辞を贈られるのが、千葉真一です。
志村けん
ジャンケンは「最初はグー」で始まります。
今では日本中、いつでもどこでも誰もが何の不思議もなく使っている言葉です。
実は、これを最初に使ったのが志村さんでした。
1969年に始まったTBSの『8時だョ!全員集合』は子どもからお年寄りまで幅広いファン層に支持され爆発的な人気番組となりました。
この番組内で1981年から始まったのが志村けんさんと仲本工事による『ジャンケン決闘』です。
志村けんの発案で、この時から使われるようになったのが「最初はグー」でした。
そうして、日本全国へ広まったのです。
志村けんといかりや長介が衝突した理由とは?
志村けんはドリフターズの中では最も若く、人気、実力ともにトップになります。
だが、それですべてうまくいくとは限らないのが人生。
人気絶頂のドリフターズにあって、志村けんとリーダーであるいかりや長介の不和説が流れます。
理由は芸風の違いでした。
きちんとした台本を基にいかりや長介さんの号令一下、リハーサル通りにコントを繰り広げるのがデビュー以来変わらぬ、ドリフターズのスタイルです。
ところが、志村けんは本番が始まると観客の反応に合わせて、アドリブを連発するのでした。
さらに彼は、加藤茶やリーダーを抑えてメンバーの中でもトップの人気を誇るようになります。
しかし、最も若いことを理由にいつまでたっても一番下に扱われるのでした。
これがはどうしても割り切れず、不満となっていたのです。
台本に従った基本を大事にするリーダーいかりや長介に対して、アドリブで観客を引き付ける志村けんの衝突。
芸の道は深いと言うべきかはたまた、多岐にわたると言うべきなのでしょうか。
ビートたけしが見た、コントにかける志村けんのエピソードとは?
台本に忠実なリーダーいかりや長介に対して、アドリブの志村けんさん。
だが、ビートたけしから見ると、これがまた一味違う論評になるのです。
たけしはコントにかける志村けんの、こんなエピソードを披露しています。
志村さんとたけしは、一時期頻繁に飲み歩きました。
たけしが志村けんの大ヒット番組『バカ殿』にゲスト出演した時のことです。
その時の様子をこのように語っていました。
『けんちゃんは基本的に、すごく気を遣う人だし、マジメなんだよね。
だから、コントに対してもマジメっていうか。
バカバカしいことをただやるっていうんじゃなくて、つくり上げたバカバカしいことが面白いっていう。
我々が、バカバカしいことが偶然出てくるのを狙ってエサを撒く笑いなのとは大違い。
けんちゃんはバカバカしいことをちゃんと狙って、頭の中に描いてからこなすんだよ。
こっちはアドリブばっかりやりたくなるけど、けんちゃんはカメラの位置や撮り方まで全部指示するんだ。
それ見ちゃうとアドリブも入れようがなくて、おお、しっかりしたコントやってるんだ、と思ったね』
いかりや長介との間に、アドリブで距離ができたと言われる志村けんですが、たけしから見るとかなり違ったニュアンスになります。
これがプロの芸の奥深さなのでしょう。
たかが『笑い』というなかれ。
志村けんのコントにかけた真剣さが伝わるエピソードです。
笑いの裏には、人知れぬ努力と苦労があります。
やはり、一芸に人生をかけた人々のプロ根性はすごいのです。
志村けんといかりや長介は互いを否定したのではない!
衝突はしましたが、志村けんといかりや長介さんは、決して互いを否定したわけではありません。
いかりや長介は生前、志村けんを認めたコメントをたくさん残しています。
また、志村が呼び掛けて2017年にはドリフターズを再結集させました。
理由は、今のお笑いはドリフターズのように大掛かりなセットを使ったコントがない。
だから、その素晴らしさを改めて知ってもらいたかったと言っています。
たけしも、似たようなことを言っています。
「けんちゃんには、いかりや長介さんの教えがしっかりと叩きこまれているんだよ」
志村けんのコントには信念があった!
志村けんは信念の人でもありました。
「自分が得意な分野しかやらない。
人がこれやってるけど それをやってみようかとはあまり思わない」
「無理してそんな 自分に合わないことをやってウケないよりは、自分の得意分野でウケた方がいいじゃないですか」
常々、このように言っていました。
また、このようにも言っています。
「面白いコントを作るコツは1個だけ。自分が楽しいと思うことしかやらない。
それ以外やると自分がどっか行っちゃうんですよね」
一流はしっかりと自分を持っているのです。
そして、彼を調べていくと、とても意外なことに突きあたります。
実は彼、超の付く照れ屋だったのです。
だから、カメラを前にして台本なしでしゃべるフリートーク番組が大の苦手でした。
厚いメイクを施して、ギンギラギンの衣装を着けなければ、うまく話せなかったと言いますから驚きです。
あれほどのキャリアと人気を誇りながら、『徹子の部屋』に一度も出ていないのはそれが理由だったと言います。
『バカ殿』や『ひげダンス』からは想像もできません。
彼は言います。
「煮詰まってくると いつもなるべく原点に帰るんです。
それでしゃべらないで音楽だけで何かできないかと考えて浮かんだのが『ひげダンス』なんです」
一流になりたかったら、しっかりと自分を持って原点を忘れないこと。
それで「だいじょうぶだあー」
天から声が聞こえてきそうです。
志村けんのお笑い人生は、いかりや長介の付き人から始まった!
志村けんは1950年2月20日東京都東村山市で男3人兄弟の3男として生まれました。
兄二人は公務員と堅実な職業につきましたが、彼一人だけ全く違う道を歩みます。
小学生の時すでに、コントで笑わせるお笑い芸人に漠然とした憧れを抱いていました。
中学生になると文化祭でコントを演じて笑いを取り「自分にはこの道しかない」と思うまでになっていたのです。
高校に入るとサッカー部に所属する傍ら、1年生の時から文化祭でコントを披露します。
友人たちからの反応は上々で、一層、芸人への想いを募らせたのです。
彼がこれほどまでにお笑いの世界にこだわった理由は、家庭環境にありました。
学校の教師をしていた父が厳格な人物で家庭にはあまり笑いがなかったのです。
志村けんが子どもの頃、テレビのお笑いと言えば落語と漫才が定番でした。
今と違い、お笑い番組がとても少なかったのです。
そして、テレビで漫才や落語を観ていると、父親も声を出して笑い、その時だけは家が明るくなったのだと言います。
志村自身も、そのような時間だけはくつろげて嫌なことを忘れることができました。
そんな中で、彼は笑いの大切さを知り、心には自然と笑いへのあこがれが芽生えたのです。
高校3年生の3学期、彼は一大決心をします。
お笑い芸人の住所録を手に入れ、『ザ・ドリフターズ』のリーダーいかりや長介の自宅へ押しかけたのです。
目的は弟子入りを直談判することでした。
冷たい雨に打たれながら家の前で待つこと12時間、いかりや長介が、ようやく帰宅します。
小雨の中を12時間待った根性が認められました。
芸人の世界では付き人を『ボーヤ』と呼びます。
今いるボーヤがだれかやめて、欠員ができたらという条件付きで弟子入りが認められたのです。
卒業式が間近に迫ったある日、いかりや長介から電話が入ります。
指定された後楽園ホールへ駆けつけると、その場で弟子入りを許されたのです。
「ありがとうございます。では高校を卒業したら来ます」
彼は嬉しさと緊張が入り混じった声でお礼を言います。
「バカ野郎、誰が卒業してから来いと言った。明日から一緒に青森に行くんだよ」
いかりや長介の怒りの声が耳をつんざくのでした。
それにしても、二人のやり取りが目に浮かびますね。
浅黒く長い顔のいかりやさんが、目を吊り上げ口角泡を飛ばして怒鳴りつける。
まだ、黒々と長髪だった志村けんが「へえ、へっへえー」とばかりに頭(こうべ)を垂れる。
もう、これ自体がコントです。
卒業式の当日だけは午前中休暇をもらい、長く過酷な『ボーヤ』生活が始まったのです。
東村山音頭で大ブレーク!
それから4年後、彼は22歳で井山淳とお笑いコンビ「マックボンボン」を結成し「志村健」の芸名で芸能界にデビューします。
すぐにレギュラー番組をもらう幸運に巡り合いますが持ちネタの少なさが災いし、番組は半年余りで打ち切られてしまうのでした。
また、ドリフターズに戻ります。
今度は加藤茶の付き人となり、芸名も『志村けん』に改めました。
そして再びチャンスが巡ってきます。
1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、
彼は4月1日をもってドリフターズの正式メンバーに昇格したのです。
他に二人ほど候補者はいましたが加藤茶の強い推薦によって、一番若かった志村が起用されます。
24歳の時でした。
ドリフターズのメンバーとなり、ギターを担当します。
だが、ギャグがなかなか受けません。
転機となったのが『8時だョ!全員集合』の少年少女合唱隊コーナーで歌った『東村山音頭』でした。
他のメンバーから東村山から来た田舎者とイジられていた彼は意地になってリハーサル中に東村山音頭を歌っていたのです。
ところが、メンバーがそれを聞いておもしろがり、番組本番で歌ってみようと言うことになりました。
1976年3月6日に行われた新潟県民会館での公開生放送で初披露されます。
これが大うけし『東村山音頭』はたちまち全国へ広まったのです。
歌の中心になった志村けんも一挙に人気が爆発します。
これにより東村山市の知名度も全国的に爆上がりとなりました。
その功績で志村けんの銅像が西武線の東村山駅前に建立されたのです。
数々の伝説を残した志村さんですが、特筆すべきエピソードと言えます。
その後は、加藤茶との絶妙コンビで『ひげダンス』を披露するなどあっという間にドリフターズの中心メンバーとして成長を遂げたのです。
昭和の命歌舞伎役者、中村吉右衛門から学ぼう!
中村吉右衛門が主役を演じた時代劇・鬼平犯科帳には数々の名言が登場します。
「死ぬつもりか。それはいけねえなあ。どうしても死にてえのなら、一年後にしてごらん。
一年も経てば、すべてが変わる。人間にとって時の流れほど、強い味方はねえものよ」
このセリフには、とても印象深いものがあります。
若かりし頃、死ぬほど苦悩した中村吉右衛門が言ったからこそ、心に響いたのかもしれません。
日本の伝統芸能である歌舞伎俳優一族の名家に生まれ、文化勲章を受章し有名大学の特任教授を務め、最後は人間国宝にまで上りつめた中村吉右衛門。
何の不足もない実に満たされた一生だったろうと想像するが、彼の人生を調べてみると生まれながらにして幸せな人などいない、と思わざるを得ません。
幸せだけの人生なんてありえない。
そんな風に思えて仕方ないのです。
華やかな家系図と経歴!運命に苦悩した中村吉右衛門の人生とは?
中村吉右衛門の家系図と経歴は実に華々しい。
1944年(昭和19年)5月22日生まれ。
実の父は歌舞伎の8代目松本幸四郎、後の初代松本白鸚で、次男として生まれました。
兄には二代目松本白鳳がいます。
10代目松本幸四郎は甥で、松たか子は姪です。
生まれた時の名は「藤間久信」。
幼くして、初代中村吉右衛門の養子になりました。
4歳の時、中村萬之助の名で初舞台を踏みます。
1966年(昭和41年)には22歳の若さで二代目中村吉右衛門を襲名しました。
2011年(平成23年)には、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されます。
関西学院大学客員教授を務め、日本芸術院会員にも就任していました。
数々の勲章も授与されています。
平凡な庶民には縁遠い華麗なる家系であり、実に華々しい実績と経歴の持ち主です。
あの『鬼平犯科帳』など多くのテレビドラマにも出演し、一般的には時代劇の人としてのイメージが強く、昭和・平成の人気スターでした。
はたからは、いかにも順風満帆な人生に見えてしまいます。
ところがです、その中村吉右衛門が自殺を真剣に考えたことがあるというのですから穏やかではありません。
驚きと言ってよいでしょう。
阿川佐和子との対談でこのように語っています。
「僕はアブナイ性格で、一度は死ぬことを考えました」
そして
「一番強く歌舞伎役者を辞めたいと思ったのはいつ頃ですか?」
という質問には「37、8歳の頃」と答え、40歳くらいまでは、いつもそう思っていたと言います。
3年から4年近く、本当に思い詰めていたようです。
日本経済新聞の『私の履歴書』ではさらに緊迫した場面を具体的に描写しています。
自殺を図ろうと
「ガス管をくわえたことがある」と告白したのです。
あの『鬼平』が自殺を企て、ガス管をくわえるところまで行ったというのですから、これは衝撃です。
人間とは、本当に悩みが尽きないものだとつくづく思わずにはいられません。
彼がここまで悩み追い詰められた理由は、その生まれと育ちを知らなければ理解できません。
もう少し詳しく彼の育った環境を見ていきましょう。
4歳で養子に出されて中村吉右衛門の苦悩とは?
4歳で市川萬之助として初舞台に立った彼は、それからすぐに初代中村吉右衛門の養子になります。
彼の母、正子さんは初代中村吉右衛門の一人娘でした。
ご存じのように歌舞伎界は女人禁制で男でなければ舞台に上がれません。
そこで初代中村吉右衛門は正子さんに婿養子を取ろうと考えていました。
だが、意に反して娘は同じ歌舞伎一家である8代目松本幸四郎の藤間家へ嫁ぐことを選択します
そこで、初代吉右衛門は結婚を認める代わりに条件を提示します。
「男の子が二人生まれたら、一人を必ず自分のところへ養子に出すこと」
それを正子さんと藤間家は受け入れました。
こうして生まれたのが次男の2代目中村吉右衛門だったのです。
生まれる前から養子縁組が決まっているなんて、戦国時代から江戸時代までの武家社会だけではありません。
昭和時代にも厳然と存在していたのです。
いや、令和の今もあると思います。
この宿命を背負った生い立ちが、彼に大きな苦悩とプレッシャーを与えたのです。
中村吉右衛門が活躍し始めた昭和30年代から昭和50代の歌舞伎は今ほど注目されていませんでした。
ですから、生活のために映画やテレビに仕事を求める歌舞伎役者がとても多かったのです。
中村吉右衛門もその一人で、歌舞伎の本家である松竹から東宝に移ってまで、映画出演にこだわりました。
特に彼が中学だったころは歌舞伎人気は底辺ともいえる時代でした。
そこに颯爽と現れたのが石原慎太郎と裕次郎兄弟でした。
兄である当時の市川染五郎と彼・中村萬之助は石原兄弟にとても憧れたのだと言います。
この影響で二人は思い余って、母である正子さんに歌舞伎役者を辞めたいと言ったこともありました。
そんな中村萬之助に当たり役が舞いこみます。
山本周五郎原作の『さぶ』が歌舞伎化され『さぶ役』を演じます。
演技を激賞されますが彼は悩みました。
「はまり役と言われ、脇の三枚目ばかり演じるようになってしまうのか」と。
毎晩のように精神安定剤とジンのストレートを一緒に飲みほして、とうとう夜中に血を吐いて倒れ救急車で運ばれる始末です。
なぜ、演技が評価され拍手喝さいのハマリ役に悩んだのかと言えば、それこそまさしく彼の運命によるプレッシャーだったのです。
名跡、中村吉右衛門を継がなくてはならない人間が新作劇で笑いを取る役ばかり演じて、それで満足するのか?
と、苦悩の中で自問自答を繰り返しました。
しかし、誰にも理解してもらえず、未成年なのに薬と酒の力を借りるまでになったのでした。
彼の苦労や苦悩はこれだけにとどまりません。
歌舞伎役者としての中村吉右衛門を継承するためには東宝にいたのでは無理だと考え、頭を下げて元の松竹に出戻ります。
しかし、そこで待っていたのは『新参者』としての扱いでした。
同じ年頃の御曹司たちは次々と年齢やキャリアに相応しい役に挑戦していく一方、彼は脇役や年代に合わない老け役をつとめなければならなかったのです。
しかし吉右衛門は腐らずに稽古に励み先輩たちの舞台を見て、歌舞伎役者としての修業をひたすら地道に積み重ねていきました。
こうして苦労を重ね、歌舞伎役者としての実力を次第に周囲は認めるようになります。
役者はやはり演技力です。
テレビからも声がかかるようになり1980年には時代劇『斬り捨て御免!』に主演し花房出雲を演じました。
この役が当たり1986年にはNHK新大型時代劇『武蔵坊弁慶』で主役の弁慶を好演します。
その年の暮れには第36回NHK紅白歌合戦に審査員として出演しました。
こうして、中村吉右衛門の名前は全国的に売れていったのです。
そして、ついにやってきます。
時代劇・鬼平犯科帳はの鬼平は現代にも通じる理想の上司像だ!
1989年、池波正太郎原作の時代劇『鬼平犯科帳』で主役の長谷川平蔵役に抜擢されます。
当時、彼は45歳になっていましたが、実は5年前の40歳の時に『鬼平犯科帳』への出演依頼がありました。
だが、彼は実の父親である8代目松本幸四郎が演じた貫禄ある『鬼平』が頭から離れず、自分にはまだ早いと断ったことがあったのです。
しかし、ある本で実際に長谷川平蔵が『火つけ盗賊改』の役職に就いたのが45歳だったと知り、そろそろ同じ年の自分がやってもいいかと考え、引き受けたのだと言います。
『鬼平』役をやってくれと中村吉右衛門に声をかけたのは、原作者の池波正太郎でした。
この時代劇は素晴らしかったですね。
いろんな俳優さんが鬼平を演じましたが、やはり、中村吉右衛門が一番はまっていたのではないでしょうか。
小悪人をいさめる慈悲深い目。
大悪党を憎み、必ず捕まえてやると決意して「あの畜生め!」の迫力に満ちた表情とセリフ。
そして、部下の不始末や自分の失態を詫びるため懐に辞表を忍ばせて上司である京極備前守を訪れた時の押し殺したしゃべりと立ち居振る舞い。
どれを取ってもほれぼれしますね。
だから、部下や密偵の忠誠心も半端ではありません。
あのドラマには一種の組織論に通じるものがありましたね。
言ってみれば長谷川平蔵こそ、現代に求められる上司像です。
冷静沈着、そして熱意と責任感。
大胆であり細心であり、功を焦らない忍耐力と抜群の行動力。
冷と熱、剛と柔、人情と非情。
そして、生真面目と遊び心。
相反する論理と感情を巧みに使い分ける凄さですね。
名家に生まれ、養子に出されて名門を継ぐために苦しみ、悩んだ中村吉右衛門だから演じ切れたと言えます。
家を継ぎ、伝統を守るのは、かくも過酷なものなのか、庶民には計り知れません。
だが、奈落を覗いた吉右衛門だからこそ、発揮できた深みと迫力ある演技だったことも間違いないでしょう。
中村吉右衛門はフランス女性と恋に落ちて歌舞伎役者をやめる寸前だったった?
さて、最後に中村吉右衛門若かりし頃の秘話を一つ披露しましょう。
18歳の頃でした、彼は美しい女性と恋に落ちます。
相手は何とフランス人です。
彼は真剣に結婚を考えました。
しかし、彼女は家庭の事情でフランスへ帰らなければなりません。
引き留めたいけれど、18歳の彼にはどうすることも出来なかったのです。
やがて彼女は帰国してしまいます。
彼は忘れようにも忘れることなど、到底無理。
若い吉右衛門は決心しました。
彼女を追いかけてフランスへ行こうと。
養父はすでに亡くなっていたので、実の父に相談します。
歌舞伎役者をやめて彼女を追いかけ、フランスに行きたい。
それを聞いた父は意外にも反対しませんでした。
「行きたければ、どこへでも行ってしまいな」
しかし、後ろを向いてそのように言う父の背中はとても寂しそうでした。
「ああ、俺を必要だと思ってくれているんだなあ」
そう感じて、中村吉右衛門は彼女を諦めフランス行きを思いとどまったのです。
やはり、彼は何に対しても、一途に打ち込む男だったのでした。
はあー、ため息が出ますね。
豪快な中に哀愁漂う中村吉右衛門の演技がもう見られないとは。
鬼平はこういっていましたなあ。
「死ぬつもりか。それはいけねえなあ。どうしても死にてえのなら、一年後にしてごらん。
一年も経てば、すべてが変わる。人間にとって時の流れほど、強い味方はねえものよ」
このセリフには泣けました。
田村正和と言えばなんといっても『古畑任三郎』です。
この『警部補・古畑任三郎』シリーズは、少し変わった軌跡をたどりながら超人気ドラマになります。
第1シーズンでの視聴率は平均12%から15%と、まあ、まあ及第点と言ったところでした。
ところが再放送で人気が爆発します。
ファンは次期シリーズを渇望したのです。
こうして、第2シーズン以降は平均視聴率20%を越え、古畑任三郎は日本中の話題をさらったのです。
田村正和はプロ中のプロでした。
彼は二枚目俳優として松竹からデビューしますが、映画ではヒット作品に恵まれません。
田村正和がたどった、眠狂四郎から古畑任三郎までの軌跡
夢を叶えるための・・・
田村正和が俳優として存在感を発揮したのが、1970年に出演したテレビドラマ『冬の旅』でした。
以降は繊細な青年の役柄を中心に活躍し、松竹を退社して活躍の場をテレビに移します。
そして1972年から1973年にかけて放送されたテレビ時代劇『眠狂四郎』で、スター街道を歩み始めます。
彼が眠狂四郎役を演じたのは29歳の時でした。
世間の義理、人情、人への憐みから、目を背ける孤独な侍。
己の出生に対するコンプレックスが、そうさせたのです。
ニヒルな表情の『円月殺法』で人を斬り、出生の秘密を引きずった陰のある眠狂四郎を彼は、見事に演じ切りました。
二枚目でデビューした田村正和さんにも1970年代後半に入ると転機が訪れます。
ちょっと頼りなく、優柔不断で生徒に翻弄される、学校の先生を演じて三枚目に転じたのです。
その後も、ホームドラマの父親役などで三枚目を演じ続けます。
1987年には『パパはニュースキャスター』に出演しました。
突然現れた3人の娘に翻弄される父親役です。
おませな娘たちとのやり取りが実に軽妙で、見ている方は、そのおかしさに思わず笑いがこぼれてしまいます。
戸惑いながらも徐々に父性に目覚めていく様子が実によく表現されていて、素晴らしい演技でした。
このドラマによって、田村正和は二枚目でも三枚目でも演じられる、優れた役者であることを証明したのです。
芸能関係者だけではなく、視聴者にも強い印象を残しました。
そして、ついにやってきます。
1994年に放送が始まった刑事ドラマ『警部補・古畑任三郎』シリーズです。
このシリーズで彼はまたまた、新境地を開きます。
鋭い推理力と冷静な洞察力で警部補の古畑任三郎が完全犯罪を企む犯人たちと対決する刑事ものです。
いまや伝説のサスペンスドラマと言えるでしょう。
ドラマの特徴は冒頭で犯人が明かされます。
そこから証拠に基づく推理によって犯行動機や手口を暴いて見せるという画期的な筋書きです。
物語の展開に陰影をつけて深みを増したのが田村正和、独特の語り口でした。
緩急自在と言うか、野球で言えば7色の魔球を操るコントロール抜群の投手みたいな刑事さんです。
時には笑みを浮かべながら、二人っきりになって犯人を追い詰める古畑任三郎は痛快そのものでしたね。
アメリカで製作されNHKが放送して大人気となった『刑事コロンボ』とよく比較されます。
作品そのものはコロンボをモチーフにしていることは疑いのない事実です。
だが、主人公の印象はかなり違います。
コロンボは、よれよれのコートでぼさぼさの髪をぼりぼりかくなど
「今夜はシャワーを浴びてから寝てください」
と言いたくなる雰囲気です。
一方、我らが古畑任三郎は、整ったマスクに清潔感あふれる、きれいな親指と人差し指をパチンと打ち鳴らして犯人に迫ります。
このように漂わせる雰囲気はかなり違いますがどちらも類まれなる推理力を有して、唯一無二と言える名刑事です。
『刑事コロンボ』の影響を受けているのは『古畑任三郎』だけではありません。
古くは『太陽に吠えろ』の『山さん』が人物像を模倣しています。
現在では『相棒』の右京による謎解きがそうですね。
ズバリ『信濃のコロンボ事件ファイル』というのもあります。
『刑事コロンボ』が採用した最初に犯人を暴露する手法を「倒叙(とうじょ)ミステリー」と言うのだそうです。
この手法と古畑任三郎を演じた田村正和の名演技によってドラマは大ヒットします。
「この役を演じられるのは、田村正和しかいない」
「田村正和と言えば古畑任三郎!」
と誰もが納得できる、素晴らしい演技でした。
おそらく視聴者だけでなく、制作者や脚本担当の三谷幸喜も田村正和演じる古畑任三郎の虜になってしまったのではないでしょうか。
これこそが、まさにスターの証明です。
回を重ねるごとに古畑任三郎はカリスマ性さえ漂わせ、10年以上も続きました。
『この事件は創作であり、古畑任三郎は架空の刑事です。』
毎回このテロップが出て番組は終了するのですが、これも話題になりました。
この作品の大ヒットにより、三谷幸喜は日本を代表する脚本家へと駆け上がったのです。
脚本と役者がこれ以上ない、ドンぴしゃりとハマッた稀なドラマと言えるでしょう。
そして残念ながら、遺作となってしまったのが『眠狂四郎 The Final』でした。
田村正和は歌舞伎役者から俳優に転身し、サイレント映画時代から戦後にかけて大活躍した阪東妻三郎の三男として生まれます。
長兄の田村高廣、弟の田村亮も俳優で『田村三兄弟』と言われ、芸能一家として有名です。
『眠狂四郎 The Final』が撮影されたのは、東映京都撮影所でした。
この撮影所に大物俳優がくるのは決して珍しいことではありません。
だが、田村正和が撮影に訪れることが決まると「阪妻の息子が来る」と噂になり所内がピリピリとした空気に一変したと言います。
『阪妻』とは田村正和のお父さんである阪東妻三郎のことです。
そして東映京都撮影所は『阪妻プロダクション』の跡地に建っています。
そのような事情もありますが、映画界において『阪妻』は今もって伝説の人なのです。
したがって、田村正和は芸能界のサラブレッドと言える存在でした。
さて、そんな中で臨んだのが『眠狂四郎 The Final』の撮影です。
劇中に眠狂四郎が川辺にたたずむシーンがあります。
このシルエットがまた、実に絵になるのです。
孤独を演じさせたらこれ以上の俳優はいないと思わせる見事なシーンでした。
1分のスキもない華麗で鋭い『円月殺法』と時々浮かべる微笑み。
妖しくニヒルな剣豪ぶりは、圧巻でした。
なんとこの撮影時、彼は73歳だったのです。
驚きました。
とても、そんな年齢を感じさせないところが、やはり一流であり、プロなのでしょう。
田村正和は俳優のイメージを守るため私生活を公表しなかった!
親の七光りを持った有名人の子どもが芸能界にデビューするとSNSなどでよく見かける言葉があります。
「二世芸能人にはうんざり」がそれです。
田村正和も親の七光りと言う面においては誰にも負けません。
戦後生まれの人は、もう誰も覚えていませんが、『阪妻』は知る人ぞ知る、映画界では伝説の名優です。
しかし、田村正和は決して親の七光りで有名になった俳優ではありません。
彼はどんな役でも、自分独自の色に染め上げてしまうのが特徴です。
そして、いつしか人々は「はまり役」と認識させられてしまいます。
どんな役を演じても、端正でダンディで、格好いい田村正和がそこにいるのです。
一つのブランドを確立した、数少ない役者だと言えます。
ですから、二世がダメ、三世がダメ、という先入感で見たら本質に迫れません。
何事も十把ひとからげはやめて、あくまでも個々を観察する心の目が大事です。
冒頭で田村正和は「プロ中のプロだ」と言いました。
彼のどこが超一流のプロだったのでしょうか?
プライベートを一切明かさなかったことで彼は有名でした。
妻や私生活をほぼ公表していません。
自分の出演した作品と俳優としてのイメージを守るためそうしたのです。
彼はこのように言っています。
「俳優は白いキャンバスの様であるべきです。
プライベートなことを知られることはそこに余計な色を付けてしまうことになります」
「俳優は夢を売る仕事であり、どんな人間かを知られ過ぎると役者としてはマイナスになってしまうのです。
夢を見る余地を残すのがファンや番組を見る人たちへの、本当のサービスだと思います」
この美学を徹底して実践したのが俳優、田村正和です。
ですから、人前での食事も極力控えました。
長期間、同じロケに参加しながら、彼が食事しているのを一度も見たことがないと言う、共演者が多くいるのは彼のこの美学によります。
独特の美学を貫く姿勢こそ、プロフェッショナルと呼ぶにふさわしいのです。
若い頃にはこんなエピソードも残しています。
劇団で鍛えられた俳優陣に囲まれてドラマの撮影に臨み、自分の力のなさを痛感しました。
そこで彼は劇団で修行したいと思い、千田是也さんや宇野重吉さんなど演劇界の重鎮が主宰する劇団を見学します。
しかし、劇団の雰囲気が自分には合わないことを悟るのです。
それで考えたのが、別に稽古場を借りることでした。
先生として指導を受ける役者さんを、そこに呼んで芸を学んだと言います。
本当にやることが徹底しているのです。
一つ間違えば、大きな誤解を生みかねないことばかりでした。
だが、彼は自分の意志と美学を貫いたのです。
これほど美学という言葉が似合う俳優は他にはいません。
あの、華奢とも思える外見からは想像もできない、太い芯が心をしっかりと支えていたのでした。
「人を裁く権利は我々にはありません。
私たちの仕事は、ただ事実を導き出すだけです」
この名セリフをもう一度、聴かせてもらいたいなあ。
古畑任三郎さん&田村正和さん。
昭和の異才、アントニオ猪木に学ぼう!
『波乱万丈の人生』とはよく聞く言葉ですがこの人のようにその表現がピッタリ合う男は、そう多くはいません。
その名はアントニオ猪木。
人の一生は出会いによって大きく左右されます。
自分が自覚するかしないかの別はあっても、誰の人生にもしばしば起きることです。
そして、その出会いによって運命を大きく切り拓いたのがアントニオ猪木でした。
彼の真実を知るためには、まず彼の少年時代を知る必要があります。
アントニオ猪木はブラジルで力道山にスカウトされてプロレスラーになった!
名前とあの風貌から、ハーフだと思っている方も多いと思いますが、アントニオ猪木は日本において日本人の両親のもとに生まれたれっきとした日本人です。
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)の出身で、本名は猪木寛至(かんじ)です。
1943年(昭和18年)2月20日父・猪木佐次郎さんと母・文子さんとの間に誕生しました。
父の佐次郎さんはアントニオ猪木が5歳の時に亡くなっています。
実家は石炭問屋を営んでいたのですが、戦後の昭和30年代になるとエネルギーの主力は石炭から石油へとシフトします。
主を失ったうえ、あまりにも早い変化に対応できず、石炭問屋は倒産してしまうのでした。
アントニオ猪木が12歳になったばかりのことで、猪木家の生活は厳しさを増していきます。
貧困を抜け出したいとの強い思いから、一家はブラジルへの移住を決意します。
サンパウロ市近郊の農場で家族と共に働く寛至少年でしたが、その労働は過酷なものでした。
コーヒー豆の栽培と収穫に早朝5時から夕方の5時まで汗だくの日々が続いたのです。
そんな完至少年に大きな大きな出会いが訪れたのは17歳の時でした。
地元の陸上競技大会に出場し砲丸投げで優勝した体格の良さに注目した人がいたのです。
たまたまブラジル遠征中だった力道山が完至少年の身体能力を高く評価し、その場でプロレスラーに
スカウトされました。
日本へ帰国した彼は力道山の下で厳しいトレーニングに明け暮れついにデビューのチャンスをつかみます。
1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至でリングに上がりました。
ジャイアント馬場との同時デビューです。
ブラジル帰りのアントニオ猪木とプロ野球ジャイアンツのピッチャーからプロレスへ転向したジャイアント馬場のライバル物語はここから始まりました。
一枚看板としてプロレス界を牽引し、全盛時代を築き上げた力道山が次のリーダーと見込んだのが、この二人でした。
期待の大きい二人に対する指導とトレーニングはこれはもう、本当に苛烈を極めたようです。
『巨人の星』や『明日のジョー』でおなじみの漫画原作者・梶原一騎がデビュー前に二人の練習を密かに見学させてもらったことがあったそうです。
のちに、その情景を次のように書いています。
「まだデビューする前のアントニオ猪木とジャイアント馬場のすさまじい練習を見たらプロレスがインチキだ、八百長だと言うものはいなくなるだろう」
「何がすさまじいかと言えば、練習をする二人の身体から滴り落ちる汗は蒸気となって後楽園ホールの天井へ昇る。
蒸気はやがて冷え、水滴となってリングと二人の身体へぽたりぽたりと落ちてくる」
「もう二人の体内には汗になる水分が残っていないのではないかと心配になってしまうほどだった。
それでも二人は練習をやめない。
力道山もやめさせない」
ため息が出ますね。
デビュー前の練習から命がけだったのです。
楽をして一流になった者は誰一人いない。
それが良くわかるエピソードですね。
デビューを飾ったアントニオ猪木は、師匠である力道山の付き人に抜擢されます。
1962年(昭和37年)にはリングネームをアントニオ猪木と改めました。
しかし、凶刃に襲われた力道山は、1963年(昭和38年)12月15日に死去してしまうのですから、運命とはあがらい難く、予想不可能なものです。
頼るべき大きな存在を失ったアントニオ猪木はアメリカへ武者修行に旅立ちます。
アメリカでの修行によってプロレスラーとして自信を深めた彼は帰国の途に就きました。
盟友のジャイアント馬場と途中のハワイで落ち合う予定だったが、空港で待っていたのはプロレスラーの豊登でした。
「このままでは、いつまでたってもジャイアント馬場の下で終わりだ」
その説得に乗ってしまい、日本プロレスを脱退して豊登らと東京プロレスを旗揚げします。
しかし、準備期間もなく安易に設立された東京プロレスは、わずか3ヶ月で破産してしまったのです。
このピンチは自民党副総裁だった川島正次郎の仲介で、古巣の日本プロレスに戻ることになり、何とか切り抜けられました。
日本プロレスへ復帰したアントニオ猪木は水を得た魚のようにリングで暴れまわります。
ジャイアント馬場とのタッグは、史上最強とまで言われプロレス人気は沸騰しました。
だが、これで収まらないのがアントニオ猪木の生きざまです。
誰が日本で一番強いか決めようではないか。
そんな思いでジャイアント馬場との直接対決を申し入れるが無視されます。
さらには東京プロレスの経理が不透明である事にも不満が爆発し、今度は『新日本プロレス』を旗揚げして再び脱退したのです。
その後は異種格闘技戦を度々行っています。
もっとも有名なのがプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリとの一戦です。
世界各国にテレビ中継されアントニオ猪木は一躍世界の有名人となりました。
そして、参議院議員になり、北朝鮮を訪問するなどプロレスの枠を超えて活躍したことはご存じのとおりです。
さて、アントニオ猪木とジャイアント馬場には長年にわたり確執があったと言われています。
気になりますね。
そこで調べてみたら意外なことがわかりました。
確かに確執はあったが、それは日本プロレス時代のことだったと証言する人物がいます。
馬場さんとの直接対決を無視された当時は対立しましたが、それも活字メディアがあおって話を大きくしたのだと言います。
そのように証言するのは、長年二人を取材してきた東スポの門馬記者です。
彼はまた、このように言っています。
日本プロレスの役員が馬場の悪口を言うと
「そんな悪い人じゃないよ。そんなこと言うもんじゃないよ」
と猪木は庇っていたそうです。
また、次のようにも言っています。
「38年間見てきたけど、あの2人がケンカしたのは見たことがない」
会えばジャイアント馬場は
「おー、寛至、元気~」
アントニオ猪木は
「おー、馬場さん、どうも」
と言っていたようです。
ジャイアント馬場はアントニオ猪木を「寛至」「猪木」って呼んでいたが、猪木さんは「馬場さん」と呼んでいたようです。
アントニオ猪木が5歳下ですから、当然と言えば当然ですね。
だが入門以来、猛練習に明け暮れた二人ですが、デビュー後の待遇には大きな違いがあったことも事実です。
馬場はプロ野球のジャイアンツから入ってきて、ある程度知名度があり、2万円の月給をもらっていました。
かたやブラジルから来た17歳の猪木は、全くの無名であり仕事も遅く、力道山の機嫌が悪いと半端なくぶん殴られていたようです。
馬場は殴られたことが一度もありません。
だから猪木は、内心かなり馬場さんへのライバル心が強かったのではないかとも言われています。
しかし、そのような逆境こそがアントニオ猪木をより強くしたのだとプロレス記者の多くは見ているようです。
『燃える闘魂』アントニオ猪木はこのようにしてつくられていったのでしょう。
逆境を跳ね返すことこそ、アントニオ猪木の真髄だったのです。
しかし、燃える闘魂も病魔には勝てませんでした。
アントニオ猪木を襲ったのは『全身性アミロイドーシス』と言われる病気でした。
厚生労働省指定の難病です。
アミロイドーシスは、アミロイドと呼ばれるナイロンのような線維状のタンパク質がさまざまな臓器に沈着する病気です。
心臓に沈着すると心肥大や不整脈が起こり、心不全になってしまいます。
複数の臓器にアミロイドが沈着する『全身性』と、特定の臓器に限ってたまる『限定性』に分類されます。
アントニオ猪木が患っていたのは『老人性の全身性アミロイドーシス』でした。
主に80歳以上に多い病気で、日本人の場合80歳以上の約15%は心臓や腱にアミロイドがたまっているとのデータがあります。
加齢によって機能が低下しタンパク質が増えるなど、老化が引き金になっていると考えられていますが、そのメカニズムの詳細は分かっていません。
天国で待ち構えていたジャイアント馬場が
「よう完至よく来たな」
と迎え、
「おー馬場さん、お久しぶりです」
とアントニオ猪木が答える。
ここまではよかったが、
「馬場さん、対戦の機は熟しましたよ。そろそろどうですか?」
いやはや、燃える闘魂はあちらでも健在のようです。