「アメリカにジャズあり、フランスにシャンソンあり、日本に演歌あり」
これが口癖の日本を代表する演歌歌手・北島三郎。
サブちゃんの愛称で親しまれ、お年寄りは勿論のこと若者でさえ名前を知らない人はいません。
あの、ジャニー喜多川をして
「一度会ったことがあるけど、素敵な男だ」
「NHKは北島さんの紅白卒業をもう少し大切に演出して欲しかった」
そう言わしめたのだから、やはり大した男です。
彼ほど長い間、歌謡界に君臨し日本の演歌を引っ張り続けた歌手は他にいないでしょう。
北島三郎を襲った悲劇、次男の死
北島三郎は北海道上磯郡知内町で生まれました。
今でこそ『町』だが、当時の知内は産業と言えば漁業だけの小さな村でした。
最も近い都市は函館市で、北島三郎は市内の高校へ進学しましたが中退し、歌手を目指して上京しました。
のちに大ヒットする『函館の女』のイメージもあり北島三郎の出身地は函館と思っている人も多いようです。
今では演歌界の大御所と呼ばれますが、上京してからデビューまでには相当の時間を要し苦労も多かったようです。
渋谷での『流し』、作曲家・船村徹宅での住み込み修行時代など、厳しかったデビューまでのエピソードについては、後ほどじっくりお話します。
その前に北島三郎を突如襲った悲劇について触れなければなりません。
デビュー以来、常に演歌の王道を歩き続けた歌謡界の大御所は突然、次男を失ってしまいます。
2018年3月3日のことでした。
北島三郎の次男・大野誠さんが自宅で死亡しているところを発見されたのです。
誠さんは独身だったので、孤独死だったことが判明しました。
死因は心不全で、死後1週間ほど経過していました。
北島三郎音楽事務所の役員を務めていた誠さんの死亡発見がこれほど遅れたのには理由があります。
北島三郎の長男であり『北島三郎音楽事務所』代表でもある大野竜は弟の誠さんと2月20日に会っていました。
電話で最後に話したのは2月22日でした。
その後も何度か電話しましたが、通じなかったようです。
このころ、亡くなった次男の誠さんは事務所に所属する北山たけしと大江裕のデュエット曲を制作していたのだと言います。
誠さんはこれまでも仕事に熱中すると家に閉じこもり、電話に出ないことが良くありました。
だから、それほど気にかけていなかったようです。
しかし、あまりにも返信がこないので警察立会いで、長男の大野竜が調布の自宅を訪れたのです。
服を着たまま倒れていた誠さんを発見し、兄の竜はすぐに救急車を呼びましたがその場で死亡が確認されました。
急遽その日のうちに記者会見に臨んだ北島三郎ですが、深い悲しみに包まれ憔悴しきっていました。
愛する息子に先立たれた本当の気持など、当人でなければ理解できないことです。
しかし、北島三郎の悲しみの深さは想像して余りあります。
それでも、大きな悲しみを抱えたまま記者会見に臨まなければならない芸能人は大変ですね。
「息子であると同時に私にとっては良き相方でした」
「音楽的な才能が豊かで、私もいろんなことを彼から教えられました」
そのように話す北島三郎の 唇は時々震え顔は青ざめ、終始うつむき加減でした。
いくつになっても明るく元気な北島三郎のあれほど深い悲しみに沈んだ表情を見たのは初めてのことです。
亡くなった次男の大野誠さんはかつてロックバンドを結成し、リーダー兼ボーカルを務めていましたが3年ほどで解散しました。
その後は大地土子(だいち・とこ)のペンネームで作詞・作曲を手がけています。
彼の曲で有名なのはNHKのEテレで放送されているアニメ『おじゃる丸』の主題歌『詠人』ですね。
誠さんは酒好きで肝臓が悪かったようです。
ただ、入院するほどではなく、他に持病もありませんでした。
それが心不全で簡単に逝ってしまうとは。
人の一生とは本当にはかないものです。
「息子に先立たれるなんて・・・・」
北島三郎は何度も何度もそのようにつぶやいたそうです。
余りにも大きなショックに見舞われた北島三郎ですが、その後2019年5月15日には新元号「令和」にちなんだ楽曲「令和音頭」を発表しています。
次男の死を乗り越えて北島三郎は音楽活動に励む元気を取り戻したようです。
歌集・北島三郎を支え続けた糟糠の妻、大野雅子さん
今年85歳で芸能活動60周年を迎えた北島三郎ですが、その60年を支え続けたのが大野雅子さん。
そうです、その大野雅子さんこそ北島三郎の奥さまです。
北島三郎は高校中退後、歌手を目指して北海道から上京しますが、デビューまでは決して平たんな道のりではありませんでした。
1954年に上京した彼はすぐに『東京声専音楽学校』に入学します。
しかし歌謡曲志向であった為、学校の指導内容と合わず、間もなくこの学校もやめてしまいます。
そして彼が選んだのは渋谷の飲み屋街を拠点にした『流し』でした。
『流し』とは、ギターを抱えて飲み屋を一軒一軒訪ねて回り、酔客のリクエスト曲を歌ってチップをもらう。
それを職業としていた人たちのことです。
北島三郎が流しをしていた当時は、三曲歌って100円が相場だったそうです。
彼は、このころ都内で下宿生活を送っていました。
その下宿には働き者で、人柄もキップも良い娘さんがいました。
その人が雅子さんです。
二人はやがて惹かれあうようになります。
ある日、北島三郎は恐る恐る雅子さんにたずねました。
「もし、俺たちが一緒になったとして、俺が歌手になってもうまくいかなかったら、その先どうなるんだろう?」
働き者で、キップの良い雅子さんは躊躇なく答えたのです。
「私が3年間頑張って養ってあげるから、その間に一人前の歌手になればいい」
北島三郎、本名・大野穣は天にも昇る思いで、この人以外に自分の嫁はいないと心に決めたのでした。
しかし、雅子さんのご両親は二人の結婚に大反対しました。
海のものとも山のものともつかない、田舎からポット出の若造が歌手志望だなんて、生意気に。
今やっている『流し』だって、いわばやくざな商売。
そうですよね、こんな状況では結婚に反対する両親の気持ちもよくわかります。
だが、二人の熱意が両親に通じたのか、北島三郎がデビューする3年前の1959年11月30日に挙式しています。
この時、式及び披露宴に出席したのは両家合わせて21人だけだったと言われています。
奥さんとなった雅子さんは懸命に歌手・北島三郎を支えます。
奥さんの支えによって北島三郎には幸運の女神も近づいてきました。
デビュー直前の『流し』時代にこんなエピソードがあります。
北島三郎がいつもように渋谷の居酒屋で歌を披露していた時のことでした。
通常は3曲100円が相場だったチップですが、一曲歌っただけで1,000円も渡してくれたお客さんがいたのです。
その方は『歌のうまい流し』として評判だった北島三郎を密かに見に来ていたレコード会社日本コロムビアの芸能部長でした。
その後、喫茶店で引き合わされたのが作曲家・船村徹だったのです。
こうして、北島三郎は船村徹の住み込みの弟子となったのです。
この時の事を振り返り北島三郎はテレビで興奮しながら、このように言ってます。
「こういうちょっとした出会いなんだけど、僅かな出会いが人生で物凄い出会いになってくる」
素晴らしい話ですね。
一歩間違うと身を持ち崩しかねない『流し』の世界ですが、北島三郎のように目標を持って強い気持ちでいれば、きっとチャンスは巡って来る。
それを教えてくれるエピソードです。
話は前後しますが、北島三郎が演歌界のトップに上り詰めたころ二人はテレビで共演しました。
その時、船村徹が聞きました。
「最近、場末の居酒屋に顔を出しているか?」
北島三郎が答えました。
「いやー、行きたいのですが忙しくて行けません」
船村は言います。
「ダメだよ、忙しくても行かなければ。
演歌の心を忘れるぞ。お前の原点はそこにあるのだから」
北島は謙虚に答えていました。
「ハイ、近いうちに必ず行きます」
これもまた、素晴らしい話ではありませんか。
『初心忘れるべからず』『原点回帰』
などと言いますが、船村徹も北島三郎もそのことを決して忘れないから、あそこまで大成したのでしょう。
人の人生をのぞいてみて、無駄になることは本当にありませんね。
さて、1962年6月5日に発売されたデビュー曲の『ブンガチャ節』は卑猥だという理由で、なんと1週間後には放送禁止になってしまったのです。
急遽8月20日に発売された2曲目『涙船」が大ヒット。これが、北島三郎の出世作となったのです。
翌年にはNHKの紅白歌合戦に初出場を果たします。
しかし、雅子さんの試練は続きます。
いくら25歳を過ぎた遅いデビューとはいえ、当時は『既婚の新人歌手』などあり得ないことでした。
歌手・北島三郎のプロフィールは独身で通す事になったのです。
夫婦でありながら、夫と寄り添って町を歩くなどもってのほか。
正妻でありながら、日陰の身。
これが夫・北島三郎デビュー当時の雅子さんの姿でした。
だが、セカンドシングル『涙船』の大ヒットでテレビへの露出が増えた北島三郎。
世間からの注目度も大きくなり、週刊誌が私生活を追い回すようになっていました。
紅白の出場が決まるや否や週刊誌にスッパ抜かれたのが長男の誕生でした。
これにより当時所属していた新栄プロダクションの社長とも相談し、妻子の存在を公表したのです。
雅子さんは晴れて、歌手・北島三郎の妻を名乗ることができるようになりました。
デビューから10年後、北島三郎は独立して「北島三郎音楽事務所」を設立しました。
この時、社長に就任したのが奥様の雅子さんでした。
その後、雅子さんは目立たないながらも事務所代表として歌手・北島三郎の盛り立て役に徹します。
そして、母親として5人の子供を育て上げました。
妻として、母として、そして芸能事務所の社長として決して目立つことなく、縁の下の力持ちに徹した北島三郎の奥様である雅子さんは、たくましい昭和の女そのものですね。
妻である大野雅子さんの存在抜きに歌手・北島三郎を語れません。
さて、気になるのは85歳を迎えた北島三郎の現在の姿とこれからですね。
今年に入ってからは3月11日から3月13日にかけて博多座。
4月17日から4月19日にかけては新歌舞伎座。
そして5月13日から5月15日までは御園座で「ファイナルコンサート」と銘打った劇場公演を行っています。
直近では7月19日に東京・八王子で『芸道60周年 北島三郎コンサート 2022 ~地元の皆様へ感謝を込めて~』と銘打ったライブを行いました。
北島三郎さんは1984年から八王子市に住んでいます。
約1500坪の大豪邸を構え、北海道出身ですが、八王子を第2の故郷と語るほど愛着を持っています。
地元への凱旋ともいえるこの公演ですが、コンサートに足を運んだ女性が言ってました。
「北島さんはスタートから最後までずっと涙ぐんでいたんですよ」
「途中の挨拶でも今回がファイナルと何度も繰り返していました」
「最後の舞台になると思う。みんなと別れるのがつらい」
と言って最後に歌ったのが『まつり』でした。
この時もしゃくりあげながら歌っていたようです。
だから、見た人の多くはこのように言っています。
「これで最後なんじゃないかと思えて、なんだか悲しくなってしまいました」
ラストと銘打つ公演を続けていますが事務所は引退について一切触れていません。
実は北島三郎と加山雄三は親友です。
育ちも芸能界での歩みもまるで違う二人ですが、とても気が合う仲なのだそうです。
その親友、加山雄三も今年限りでの引退を明言しています。
さて、北島三郎も引退となってしまうのか?
今後の北島三郎から目が離せません。