スウェーデンの科学者アルフレド・ノーベル(Alfred Nobel、1833ー1896)が、世界で最も栄誉あるとされるノーベル賞の創設に至った背景には、誤報の死亡記事がありました。
死亡を報じたフランスの新聞に死の商人と書かれてショックを受けたノーベルが、その汚名をそそぐために取った手段がノーベル賞の創設だったのです。
さらにその陰には、あるオーストリア人女性との出会いもあったのです。
『女性募集』の広告がもたらした出会いとは?
募集広告で出会った女性がノーベル賞の創設に影響を与えた!
1876年のことでした。
40歳を過ぎたノーベルはダイナマイトの発明によって得た大金で、パリに住み悠々自適な生活を送っていました。
ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)に詳しいアメリカのジャーナリスト、スコット・ロンドン(Scott London)氏によると、当時のノーベルは容姿に全く自信がなく自己嫌悪の塊みたいな男だったようです。
自分は結婚には値しない人間だとまで考えていました。
また、ダイナマイトという破壊的な爆薬を発明したことにも苦悩していたという。
彼の発明したダイナマイトは、手榴弾に応用され戦争で多量に使われていました。
それによって発明者である、ノーベルの懐は大いに潤っていたというわけです。
そんなノーベルですがある日、新聞に求人広告を出します。
『求む秘書兼家政婦。裕福で知的な老紳士が、数か国語に堪能な熟年女性を募集』
という内容でした。
実際のノーベルは老紳士ではありませんが、広告を見て応募してきた女性がいました。
彼女はオーストリアの伯爵令嬢で後に平和活動の先駆者となったベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner、1843-1914)です。
ノーベルより10歳年下のベルタが彼の下で働いたのはわずか1週間程度のことで、結婚のためにすぐにやめてしまいます。
だが、不思議なことに男女を超えた2人の友情は、ノーベルが死去する1896年まで続いたのです。
ノーベルに宛てた1895年の書簡でベルタは、ノーベルの第一印象について次のようにしたためています。
「思考家で詩人。
皮肉屋だけどお人好し。
不機嫌だけど楽しげで、思考は超人的に飛躍する。
愛には熱情的で、人間の愚かさに深い不信感を抱いているが全てを理解し、無欲な人」
「出会ってから20年がたっても、この印象が消えることはない」とも書かれていました。
ノーベル研究者の多くは、ノーベルとベルタの間に男女間の愛情が存在したとの見方には否定的だ。
だがロンドン氏はこのような見解を示します。
ベルタと知り合ったことは、当時ヨーロッパで台頭していた平和運動をノーベルに理解させる鍵となったはずだ。
ノーベルが平和賞を考案するにあたってベルタの存在が影響を与えたことは間違いない、と断言するのです。
「なんと言っても、武器でもうけた大富豪と平和運動の先駆者とが出会ったんです。
スリリングじゃありませんか」
自身の「死亡記事」に恐怖したアルフレッド・ノーベル
一方、1888年に起きたもう1つの『誤報の偶然』も、ノーベルの心に大きな影響を与えたことは間違いありません。
フランスのある新聞が、ノーベルの兄であるルードヴィ(Ludvig Nobel)の死亡情報をノーベル本人のものと勘違いして『死の商人、死す』と題した死亡記事を掲載します。
「アルフレド・ノーベル博士は可能な限りの最短時間で、かつてないほど大勢の人間を殺害する方法を発見し、富を築いた人物です。その人が昨日、死亡した」――。
この記事を読んだノーベルは戦慄し、以降は自分の死後の評判について非常に気にするようになりました、とロンドン氏は解説します。
「その後、彼はそれまでの考えを変え、資産のほとんどを後のノーベル賞設立のために遺贈するのです。
それによって、自分は平和と発展へ憧れていたと誰もが確信するだろう。
将来、死亡記事を書く記者が疑いを持つ余地がないよう手を打ったのです」
とロンドン氏は述べています。
誤報の死亡記事から8年後、ノーベルは他界し有名な遺言が公表されました。
その遺志によって創設された賞は現在、世界で最も権威と名誉ある賞とみなされています。
一方、ベルタは1889年に発表した小説『武器を捨てよ!(Lay Down Your Arms!)』で平和活動家としての名声を高めます。
そして、1905年にはノーベル平和賞の第1回受賞者となったのです。
1914年に死亡しますが、第一次世界大戦の開戦わずか3か月前のことでした。