ガッツ石松は伝説の人ですね。
数々ある伝説の中で真っ先に思い浮かぶのが、『名言』か『迷言』か判断に迷ってしまう『ガッツ語録』です。
『OK牧場』や『僕さー、ボクサーなの』『蝶々とパピヨンが一緒に飛んでいる』などは一般的に広く知られています。
だが、こんなものではありません。
ガッツ石松語録は、まだ、まだたくさんあります。
主なものをいくつか紹介しましょう。
ガッツ石松の長女がアメリカでホームレス?ガッツの名言が愉快だ!
ガッツ石松が発した数々の名言をいくつか紹介しましょう。
まずは、喫茶店で同席した客が
「コーヒーをブラックで下さい」
と言う。
すると彼は
「じゃあ、俺はホワイトで」
ホワイトコーヒーをいれるのは、超一流のバリスタでも至難の業でしょうね。
飛行機に乗った時のことです。
「シートベルトをお締めください」
のアナウンスに
「今はもう、チャンピオンじゃないから」
そう言ってベルト着用を拒否しました。
にわかには信じられませんが、ガッツ石松なら考えられなくはありませんね。
アメリカにホームステイ中の長女については、このようにおっしゃっていました。
「うちの娘がアメリカで立派にホームレスしてましてね」
ホームレスになってまで、アメリカで何かを学ぼうとするお嬢さんは実にご立派です。
さすが、ガッツさんの血を引くだけのことはあります。
12月25日はクリスマスですが、誰の誕生日ですか?
と聞かれました。
答えは「七面鳥」
確かに12月25日に生まれた七面鳥もいるでしょうが、これにはイエスキリストさんも苦笑いでしょう。
ウォーリーを探せ!に挑戦して30分後に一言漏らします。
「これってナニ探せばいいの?」
30分間、一体何を考えていたのでしょうか。
「私の将棋は王将取られてからが強いんですよ」
王将を取れれてからの勝負なんて、天才・藤井聡太五冠でも戸惑ってしまいますね。
鎌倉幕府ができたのは何年ですか、と聞かれて
「ヨイクニだから・・・4192年」
4192年には鎌倉幕府が復活するという予言でしょうか。
どっちにしても、誰も生きていませんから確認のしようがありません。
「うるさい!いま催眠術にかかってるんだから、静かにしろ!」
これは、かかっていませんね。
インチキ催眠術師かな?
「うるさい!黙ってしゃべれ!」
これは天才・アインシュタインでも無理ですね。
「この選手は、体中から“オーロラ”が出ています」
オーロラを発光する人間がいるとは驚きです。
「世の中ってのは“ふり”が必要なんだよ。
“怒ったふり”“知らんぷり”“死んだふり”というね」
熊に遭遇したら「死んだふりしろ」と言う人がいますけど、実は何の役にも立ちません。
ディズニーシーに行ったときのことです。
「デズニーAとBはどこにあんの?」
長男が5歳の時、
上野動物園に連れて行ったことがあります。
パンダを見た帰りに長男が言いました。
「お父さん、シタの動物園ってどこにあるの?」
最初は「?????」でしたが、すぐに気が付きました。
「上」の動物園だから、「下」もあると思ったのでしょう。
いえ、いえ、ガッツさんは5歳児と同じだなんて、全く考えていません。
最後にとっておきの話です。
ガッツ石松には、こんなこともありました。
実弟のトラブルに巻き込まれ池袋で15人相手に大立ち回りしたごとがあったのです。
たちまち数人をノックアウト。
他の者たちはこれを見て、戦意喪失します。
警察に逮捕されますが、正当防衛で保釈されました。
釈放後、記者に向かって言い放った一言が秀逸です。
「チャンピオン認定書には、いかなる者の挑戦も受けなければならないと書いてある」
この当時はまだ、東洋チャンピオンでしたが自らの言葉を実践して2年後世界チャンピオンに輝いたのです。
鈴木石松からガッツ石松にリングネームを変えて理由とは?
ガッツ石松がライト級世界チャンピオンの座に就いたのは1974年のことです。
1974年4月11日、東京の日大講堂でWBC世界ライト級チャンピオンロドルフォ・ゴンザレスに挑戦しました。
ガッツ石松は99%勝てない。
それが戦前の予想でした。
だが、試合開始のゴングが鳴ると毎回ほぼ互角の打ち合いが続きます。
ガッツ石松に決定的チャンスが訪れたのは8回でした。
動きが重くなった王者に強烈な左フックをヒットさせたのです。
ゴンザレスは思わずロープに下がります。
獲物を射程にとらえた挑戦者は左右のパンチを繰り出しダウンを奪いました。
ところがレフェリーのカウントが遅い。
何とか立ち上がったゴンザレスに追い打ちをかけ、2度目のダウンを奪います。
しかし、レフェリーがあまりにもひどい。
これを「スリップ」と判断し、あろうことか、キャンバスに倒れた王者を助け起こしました。
明らかなルール違反です。
セコンドの米倉健司会長やエディ・タウンゼントトレーナーらが激高し抗議のためリングに上がろうとしたほどでした。
だが、ガッツ石松は冷静です。
「大丈夫。倒すから」とセコンド陣を制します。
そして、その言葉通りチャンピオン、ゴンザレスを再びコーナーに追い詰めたのです。
一挙に襲いかかり、左右のパンチを乱打し、完全にキャンバスへ沈めてしまいます。
実はこの前年、ガッツさんは「石の拳」の異名をとったライト級世界王者のロベルト・デュランに挑戦しました。
その試合は10回KO負けするのですが、試合後にこんなことを言ったのです。
「パナマのリングは暑くてスタミナが持たない。こりゃ勝てないと思ったね」
「2回が終わったころから倒れるタイミングを探していたよ」
この諦めの早さに米倉健司会長は怒ります。
ガッツさんはランニング嫌いでもありました。
そこで会長は
「もっと、ガッツあるボクサーになってくれるように」
との思いを込めて『ガッツ石松』と改名させたのです。
その前のリングネームは『鈴木石松」でした。
これは「死んでも治らない森の石松と同じおっちょこちょい」だからと本人が付けたものです。
はじめからガッツあふれる人ではなかったのかも知れません。
米倉ジムで鍛えられるうちに彼の内面に眠っていたものが、徐々に目を覚ましたのでしょう。
彼はこのように外見とは違った意外性をたくさん隠しています。
本当に楽しくて強い方です、ガッツ石松は。
ボクサー引退後は俳優、タレントとして大活躍のガッツ石松ですが、ここで彼の経歴を見ておきましょう。
本名は鈴木有二(すずきゆうじ)さんです。
1949年6月5日生まれの74歳。
出身地は栃木県の上都賀郡清洲村ですが後に粟野町となり、現在は鹿沼市です。
今でも鹿沼市粟野町支所のロビーには、地元出身の有名人としてガッツ石松の写真が額入りで飾られています。
中学生時代は学校の教師を夢見ていましたが、家庭の経済的事情で進学を断念し、中学卒業とともに上京しました。
子どもの頃は、本当に厳しい家庭環境で育ったようです。
小学生のころから新聞配達をしていたという話を聞いたこともあります。
ガッツ石松は1996年のことですが、森喜朗さんの勧めで衆議院議員総選挙に東京都第9区から自由民主党公認で立候補したことがあります。
結果は落選でしたが、選挙運動では選挙区である練馬区の団体などをくまなく回っていました。
少年野球の関係先にも顔を出して子どもたちや父兄を前に演説しています。
その時、彼はこのように言っていました。
「私も子どもの頃野球が大好きで、プロ野球の選手に憧れていました。だが、家が貧乏で野球道具など何一つ買ってもらえませんでした」
「好きな野球ができる君たちが、とてもうらやましい。
両親への感謝を忘れずに、好きな野球を思いっきり楽しんでください」
押し殺したような声で、真剣に語りかける彼に対して子どもも大人も黙って聞き入っていたのが、とても印象に残っています。
さて、上京したガッツさんは、さまざまな職業を転々としながら米倉ジムでボクシングに打ち込みました。
最初のプロテストでは不合格でしたが、1966年12月11日にプロデビューを果たします。
1回KOのうれしい初勝利でした。
その後、幾多の試練を乗り越えて世界チャンピオンの座を5度防衛して1978年現役ボクサーを引退したのです。
今では引退したボクサーのタレント活動は決して珍しいことではありません。
ガッツさんはその草分け的な存在で、最も成功した一人と言えるでしょう。
現在、ガッツ石松のテレビ露出は減っています。
でも別にタレント業を引退したわけではありません。
YouTubeチャンネルもありますから、いつでも元気な姿を見ることが出来ます。
仕事はセーブしているようですが、それでもTBS系列のドラマ「日本沈没―希望の人―」に出演していました。
さて、まだまだ元気なガッツ石松の、名言をもう一つ披露いたします。
「ガッツさんステーキのお味はどうですか?」
「うん、うまい!肉みたいな味だね」
本当にニクめない方です。