タクシーが客待ちをしている長崎屋の裏通りを、静屋通りという。
明治時代、榎本武揚とともにこの辺りの大地主だったのが第4代北海道長官・北国道国だ。
北国の雅号「静屋:せいおく」を訓読みにして『静屋:しずや』通りと命名。
明治の終わりに、石川啄木が勤務していた新聞社もこの通りにあった。
長さ200mほどしかない通りであるが、かつては個性的な店が軒を連ね『ナウな街』として、雑誌やガイドブックによく取り上げられていた。
『小樽の原宿』などと表現されたこともある、小樽屈指の繁華街だったが今はやや寂しい。
その静屋通りを歩いてみよう。
小樽の静屋通り最後の名店、蕎麦屋・藪半!
小樽駅に近く長崎屋の裏手にある静屋通りは、昭和50年代『小樽の原宿』と呼ばれていたこともあったという。
個性的な店が集まる街として雑誌などで評判を呼び、地元の若者はもちろん若い旅行者も大挙して押しかけた。
洒落た雑貨屋、石蔵のカフェ、洋食店などが軒を並べ、とても繁盛してたという。
有名なキャバレーもあったというから、今では考えられない賑わいを見せていたのだ。
特に『中華料理梅月』は、今や小樽のソウルフードとも言われる『あんかけ焼きそば』を提供して、大変な人気だった。
当時、小樽に3軒あったデパートで買い物をし、梅月で食事を楽しむことが小樽市民の憧れコースだったという伝説を残している。
『あんかけ焼きそば』発祥の店とも言われていたが、その梅月も今はもうない。
鬱蒼としたツタに建物一面を囲まれ、若者に人気のあった小さな喫茶店『叫児楼:きょうじろう』も営業をやめてしまった。
そんな静屋通りにあって今でも元気いっぱい、行列ができるほど頑張っているのが『蕎麦屋・藪半』だ。
上天ぷら蕎麦:1,260円(税込み)
表面入り口は歴史を感じさせる木造だが、店内に入ると奥にはどっしりと石蔵が構えていて、その手前には鉄瓶をつるした囲炉裏がある。
ちょっと違う時代に来てしまったかな?と錯覚さえ覚える空間が楽しい。
蕎麦は蘭越産の蕎麦(地物粉)と更科系の蕎麦(並粉)の2種類から選べる。
違いがよく分からないから、2年ほど前に行った時は蘭越産を選んだような記憶があるが、さて定かではない。
生ビールを一杯飲み、おつまみを頼んで、熱燗を2本。
最後にせいろそばを食べたはずだけど、日本酒がおいしすぎて頼んだメニューをきっちり思い出すことができない。
牡蠣蕎麦:1,800円(税込み)
これじゃ、もう一度食べに行かなければ。
和服を着た大女将も若女将も、とても愛想のよい方だった記憶だけは、はっきりしている。
藪半はとても勉強熱心のようだ。
店を休み従業員一同を引き連れて、全国の蕎麦屋さんを食べ歩いたり、そば粉を取り寄せている蘭越のファームを訪ねて蕎麦畑を見学したりしている。
雲丹とじ蕎麦:2,000円(税込み)
この、勤勉と努力があれば静屋通りの名店は、まだまだ繁盛が続くだろう。
次に行ったら、日本酒はやめて食べる方に専念しよう。
上天ぷら蕎麦にするか、天ざるにするか、いやいや雲丹とじ蕎麦も食べてみたいし、牡蠣蕎麦も美味しそう。
まあ、店に行ってメニューを見てからだ。
石川啄木は静屋通りの新聞社で記者をしていた!
石川啄木は明治40年9月、創立したばかりの新聞社『小樽日報社』に職を得た。
だが、その年の12月には辞めてしまう。
小樽日報社があったのは、静屋通りの本間内科が建つ場所だ。
玄関前に「石川啄木と小樽日報社跡」の看板が立っている。
主筆の岩泉江東と衝突を繰り返し、嫌気がさして辞めたのだった。
この時、奇しくも野口雨情も同僚として小樽日社に在籍している。
啄木は釧路の新聞社に就職が決まり、妻子を小樽に残して翌明治41年1月19日、一人で釧路へ向かった。
その時に詠った短歌がある。
小樽駅に向かって右側の高台、三角市場の近くの歌碑に刻まれている。
『子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな』
啄木一家は小樽に来ると、ひとまず姉夫妻の家に身を寄せる。
姉の夫である山本千三郎は北海道帝国鉄道管理局中央小樽駅・現小樽駅の駅長だったので官舎に住んでいた。
官舎は現在の三角市場付近にあり、啄木の歌碑が立つあたりだったと思われる。
啄木は他に小樽にちなんだ、次のような歌を残している。
『かの年のかの新聞の初雪の 記事を書きしは 我なりしかな』
『忘れ来し煙草を思ふ ゆけどゆけど 山なほ遠き雪の野の汽車』
これらの短歌はいずれも『一握の砂』に収められている。
問題なのは次の歌だ。
『かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ』
一読すると「小樽はなんて悲しい町だ。短歌を詠うようなしゃれた文化もなく、人々は大きな声で叫び合う有様だ」との解釈になってしまう。
実際に小樽では、そう感じた人が多いようだ。
だが、それは早計だ。
啄木は『初めてみたる小樽』という短文を遺している。
そこにはこのように記されているのだ。
しかし札幌にまだ一つ足らないものがある、それはほかでもない。
生命の続く限りの男らしい活動である。
二週日にして予は札幌を去った。
札幌を去って小樽に来た。
小樽に来て初めて真に新開地的な、真に植民的精神の溢(あふ)るる男らしい活動を見た。
男らしい活動が風を起す、その風がすなわち自由の空気である。
内地の大都会の人は、落し物でも探すように眼をキョロつかせて、せせこましく歩く。
焼け失せた函館の人もこの卑い根性を真似ていた。
札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く。
小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。
あたりの風物に圧せらるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。
されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫(とっかん)するのである。
日本の歩兵は突貫で勝つ、しかし軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。
朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。
出典:『初めてみたる小樽』より
啄木はエネルギッシュな小樽の人々に、感嘆したのである。
わき目もふらず、仕事に集中する小樽の労働者を称えたのだ。
その驚きと感動を啄木流に一ひねりして詠ったのだ。
この歌碑は水天宮の境内に立っている。