渡哲也さんは格好いい俳優でした。
180㎝を超えるスラリとした長身で稀に見る律義さ。
彫りが深くて精悍、ハンサムでかつ男らしい顔。
すでに経営が傾きかけていた日活へ入社したのは、1964年(昭和39年)のことです。
日活の看板スターだった石原裕次郎さんは、初対面だった新人渡哲也に対して椅子から立ち上がり、丁寧にあいさつしました。
渡哲也さんは感激し、裕次郎さんに対して尊敬の念を抱きます。
その思いは、生涯かわることはありませんでした。
東映からの誘いを断り石原プロへ入ったのも、そのことが決め手となったのです。
病魔と闘い続けた、男・渡哲也の壮絶で律義な生涯
すで経営が傾きかけていた日活は、大型新人として渡哲也を大々的に売り出します。
日活本社や主要映画館には横断幕が掲げられました。
『映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也!!』
そして、青山学院大学で空手をやっていた渡は記者発表の場で瓦割りを披露します。
渡哲也さんのデビューは1965年(昭和40年)3月の『あばれ騎士道』。
宍戸錠さんとのダブル主演でした。
続いて『赤い谷間の決闘』に出演し映画はヒットしなかったが、ファンには強烈な印象を残します。
「カッコいい俳優だなあ」
スクリーンに映る渡を見て、多くの若者はそう思ったものです。
『赤い谷間の決闘』は北海道の留萌を舞台としているが、倶知安町の硫黄谷が主な撮影現場だった。
石原裕次郎さんと渡哲也の共演だったが、この映画に限っては渡さんの方が目立っていたものです。
本当に格好良かったですよ。
映画の筋書きは実に単純なものです。
『東京から一人の若い男が北海道の留萠にやってくる。
しかし地元のやくざたちにからまれ痛めつけられてしまう。
たまたま通りかかった男に助けられますが。その男は石切り場で働いた。
やがて二人は協力してやくざと戦うことに。
戦いに勝利し石切り場は守られ、地元に平穏が戻る』
こんなあらすじですから、映画の内容ではなく俳優や女優のスター性だけを頼りにしていたのが当時の日活映画だったのです。
この後も日活は渡哲也さんに命運を託すかのように、石原裕次郎二世として必死の売り出し作戦を展開しします。
過去に大ヒットした石原裕次郎作品を渡哲也主演でリメークしたのです。
伝説の『嵐を呼ぶ男』や『陽のあたる坂道』などを次々と製作。
こんなクオリティのないことばかりやるのですから、折角の待望久しい大型新人もヒットを飛ばすことはできません。
1973年8月にリリースした『くちなしの花』が大ヒット。
『くちなしの花』が流行った当時はカラオケがまだなく、有線放送全盛時代。
スナックへ行くと、どの店も有線から演歌が流れていました。
歌に自信のあるやつは、有線を止めアカペラで唄っていたものです。
ミュージックボックスが流行ったのもこの時代でした。
渡哲也さんの最高傑作は何と言っていも『西部警察』。
1979年10月14日 第1回の放送がスタートしています。
背広にビシっとネクタイを締め、角刈り頭にサングラス、手にはショットガン。
まさに型破りの警察官『大門巡査部長』と『大門軍団』。
一体、何台の車を燃やしたのだろうと思うほど、よく車を燃やしていました。
テレビドラマでは最強だったあの男が、常に病魔と闘っていたとは人生はむごい。
ざっと調べて見ただけで、これほどの病気と怪我との戦いを強いられていたのだから、言葉を失ってしまいます。
・1972年に30歳でフジテTVのドラマ『忍法かげろう斬り』に主演中、葉間肋膜炎と診断される。
・1974年1月主演を務めたNHK大河ドラマ『勝海舟』撮影中に高熱が続き、肋膜炎と診断される。
・1989年にはドラマのロケ中にヘリから飛び降りて左足腓腹(ひふく)筋を断裂。
・1991年には直腸がんと闘うため自ら病名を公表。
・2004年には肺炎を患う
・2015年には急性心筋梗塞での緊急手術を受ける
これほどの病魔と闘いながら、TV画面に映るときはその表情に病苦の欠けらさえ見せなかったのです。
役者が仕事とはいえ、あの毅然たる姿は相当な精神的強さに裏打ちされていなければ不可能。
病魔と闘いながら求道者のごとき内面の強さを積み重ね、弱弱しさや老いをまったく世間に感じさせなかったことは役者の鏡であり、奇跡とさえ言えるのではないでしょうか。
自分がこれほどまで過酷な運命に襲われたなら、果たして渡哲也さんのように立ち向かうことができたであろうか?
はっきり言って自信がありません。
渡哲也さんが映画デビューしたばかりの時のこと、日活の食堂で食事をしていた石原裕次郎さんの元に挨拶に行きました。
座って食事中だった大スター裕次郎が、なんとわざわざ立ち上がって励ましてくれたのだという。
「石原裕次郎です。
君が新人の渡君ですか、頑張って下さいね」
あの時の感動が一生、渡哲也さんの心から離れることはありませんでした。
生涯、裕次郎さんの背中を追い続ける動機となったのです。
そして、渡さんはこの時の裕次郎さんを見習って、自分が大スターになってもベテラン若手関係なく、必ずきちんと立ち上がって挨拶を交わしたのだといいます。
渡の律義な態度に多くの若手俳優が感動しました。
石原軍団の舘ひろしもその一人です。
この気遣いは起業を目指す者やビジネスに身を置く者は、決して見逃してはならないでしょう。
倒産寸前だった石原プロに身を投じ、『西部警察』などで経営再建に大貢献した渡であるが、その起因となったのは裕次郎さんの挨拶だったのだから、たかが挨拶と蔑ろにしてはいけません。
渡さんも若手俳優に気遣いを見せたことで、永遠の人望を得たのです。
渡哲也だ大ブレークした西部警察の秘話とは?
渡哲也さんが大ブレークしたのはテレビ朝日系列で放送された『西部警察』です。
『西部警察』は1979年10月から1984年10月にかけて全3シリーズが放送されました。
彼が演じたのは大門圭介部長刑事です。
彼が率いる西部警察署捜査課の刑事たちは、『大門軍団』の異名をとり、犯罪者から恐れられます。
犯罪を憎む強固な意志を貫き、軍団は強い絆で結ばれていました。
武装した最強軍団を署内でから指揮するのは、石原裕次郎さん演じる木暮謙三警視です。
最新テクノロジーを搭載したスーパーマシンの数々を駆使して、大門軍団は凶悪犯罪に立ち向かいます。
ドラマはスリル満載で迫力もすごかったですね。
その辺の刑事ものとはスケールが違いました。
約5年間の撮影で訪れたロケ地が4,500ケ所。
封鎖した道路は40,500ヶ所に上ります。
さらに爆破させた自動車車両は約5,000台でヘリコプターは延べ600機も飛ばしました。
壊した家屋、ビルは320軒で使用した火薬の量が4.8トン、ガソリンは約12,000リットルを消費しています。
ちょっと想像するのが難しいですね。
全238話を撮影し放送していますが、あの大掛かりな撮影と派手なアクションで負傷者は数人出したものの、死者は出ていません。
日本のドラマ・映画史上空前絶後のスケールでした。
ああ、それにしても懐かしいですね『大門軍団』が。
このドラマで角刈りにサングラスが渡哲也のトレードマークになりました。
ドラマが放送されてから約一年後にある週刊誌が「サングラスの似合う人」のアンケートをとっています。
結果は二位を大きく引き離して、渡哲也がダントツのトップでした。
『西部警察』というタイトルは、西部劇のような刑事ドラマをイメージしたことから名づけたのです。
石原プロの企画、製作ですが、このドラマを放送する直前の石原プロは、経営が青息吐息の状態でした。
石原裕次郎さんはじめ、石原プロの首脳陣は西部警察に起死回生を託したのです。
そこで考えだされたのが、テレビ朝日との直接契約という手法でした。
民放は、ほぼ全ての番組でスポンサーと放送局の間に広告代理店が介在します。
広告代理店は番組内容に注文をつけ、広告料の10%〜20%を手数料として徴収します。
それをカット出来れば自由に番組をつくれるうえに、広告料は丸々、石原プロに入ります。
だが、石原プロには広告代を払ってくれるスポンサー企業を探すノウハウはありません。
そこで白羽の矢が立ったのは、東急エージェンシーだったのです。
東急エージェンシーは番組の枠をテレビ朝日から買い、少しのマージンを乗せて石原プロに売ります。
その代わりスポンサーを集め、広告料から手数料を取らなかったのです。
この斬新な手法で、石原プロは盤石な経営基盤を築くことに成功します。
そして、30億円の預金までできたと言われています。
この企画を成功に導いた陰には石原裕次郎さんの兄、石原慎太郎さんの強力な支援がありました。
渡哲也主演で大ヒットした西部警察はドラマのスケールも大きかったのですが、企画段階から大掛かりなプロジェクトが動いていたのです。
吉永小百合との結婚が叶わず、渡哲也が選んだ奥さんとは?
渡哲也さんは若いころ吉永小百合と結婚寸前だったと言われています。
だが、吉永小百合の両親が強固に反対し結婚には至りませんでした。
娘に経済のすべてを頼り切っていた両親は結婚により芸能界から引退されては大変だと思い強く反対したと、当時は言われました。
だが、真偽のほどは確かめようがありません。
そんな渡哲也さんが結婚相手に選んだのは、青山学院大学の一年後輩だった俊子さんです。
お父さんは大手鉄鋼会社の役員を務めた方でした。
したがって、渡哲也さんの奥さんは良家のお嬢様だったことになります。
しかし、良妻賢母の典型的な人です。
渡哲也さんが最初の病に倒れた時は、長男を妊娠していました。
それでも、必死に看病を続け、早産ではありましたが、一人息子も無事出産したのです。
決して表に出ることはなく、子どもを育てながら、渡哲也さんを支え続けました。
大スターにしてはひっそりとした家族葬だったのも「静かに送ってほしい」との夫である渡さんの遺言に従ったからだと言われています。
奥様、男・渡哲也さんを全力で支えていただき本当にありがとうございました。
そして渡哲也さん、くつろいでゆっくりお休みください。
合掌