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田中角栄の凄さと名言「思いっきりやれ、責任は俺がとる」に人は痺れた!

波乱の人生

田中角栄さんは、数々の名言を遺しました。

しかし「思いっきりやれ!責任は俺がとる」。

これ以上、人を奮い立たせる名言はありません。

 

伝説の男は、また演説の名人でもありました。

巧みな演説で人の心を引き付ける力には目を見張ったものです。

 

角さんの凄みをまざまざと見せつけたのが、大蔵大臣就任の挨拶と日中国交正常化交渉での一言でした。

その二つのエピソードからどうぞ!

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田中角栄の「思いっきりやれ、責任は俺がとる!」に人はしびれた

田中角栄氏は総理大臣になる直前の44歳で、大蔵大臣(現財務大臣)に就任します。

大蔵官僚は「我々が国を背負って立つ」と自負する超高学歴集団で、10人中9人が東大出身です。

 

現在の財務省も、その傾向は変わりません。

いきなり、そんなエリート集団の前に大臣として現れたのが、学歴のない田中角栄だったのです。

 

「蔵相の器ではない、軽量級だ」と見下す政治家も当然いました。

大蔵官僚の中にも「尋常小学校しか出ていない奴に何ができるか」の雰囲気がありました。

 

しかし 角栄の就任挨拶で大蔵省内の空気は一変してしまいます。

「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である!

諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ」

 

「私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。

一緒に仕事をするには、互いによく知り合うことが大切だ」

 

「われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい!何でも言ってくれ」

「上司の許可を得る必要はない!できることはやる!できないことはやらない」

「しかし、全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上!!」

 

講堂に集まった大蔵省の官僚たちから、どよめきが起こったといいます。

日本中から選りすぐられたエリート集団のハートを鷲摑みにした名演説でした。

 

大蔵省の役人は上から下まで目を見張り、若い新大臣に心を開いたのです。

エリート官僚だって血の通った人間。

 

秀才たちを前に堂々と「小学校卒」を宣言し、後は「思い切りやってくれ、責任は俺がとる!」ですから、心揺さぶられて当然でしょう。

 

「自分を飾らず、裸になって人と向き合う。捨て身の生きざまこそ、田中角栄氏の真骨頂だった」。

このエピソードについては長年、角栄の秘書を務めた早坂茂三氏の著書からの引用しました。

田中角栄、もう一つの「責任は俺がとる」!

 

田中角栄は歴代総理大臣の中でも、ズバ抜けてエピソードが多いことで有名です。

総理大臣就任直後、国交正常化のために中国を訪問した時のエピソードにも度肝を抜かれます。

 

田中角栄首相をはじめとした日中国交正常化の外交団が北京入りしたのは、1972年(昭和47年)9月25日でした。

 

具体的な交渉は、大平正芳外務大臣と周恩来首相によって進められます。

しかし、間もなく交渉は暗礁に乗り上げたのでした。

 

外交団がしょぼくれて控室に戻った時、彼らを迎えたのが角栄でした。

「こういう場面に出くわすと、大学出のインテリはまるでダメだなあ。」

 

大平外務大臣が少しムキになります。

「では、いったいどうすればいいんだ?

彼ら思ったより手強いぞ、一筋縄ではいかないんだ」

 

「ハッハハハ、何を言っている。それを考えるのが東大出の秀才諸君じゃないか。」

笑いながらそのように言う角栄を見て一行も大笑いし、落ち着きを取り戻します。

部屋には和やかにな空気が流れたのです。

 

「なあに、ここまで来たら譲歩する必要はないよ。とことんやってみてダメなら中国へ観光旅行に来たと思えばいい。俺がすべての責任を持つ!」

 

この言葉に日本から一緒に来た外交団は、勇気づけられます。

大平外相や二階堂幹事長は、武者震いしたと伝えられています。

 

やがて田中首相と周恩来首相を交えた交渉が始まりました。

しかし、周恩来は日本の軍国主義者によって中国や人民が被った例を事細かに強調し、文句や苦情を延々と続けるのでした。

 

最初のうちは熱心に耳を傾けていた日本の外交団も、中国側の執拗さにウンザリしてしまいます。

ついには角栄が顔色を変えたのでした。

 

一気にまくし立てます。

「いい加減にしてもらえませんかなあ。我々は貴国と仲良くなろうと思い、こうしてはるばる日本からやって来ておる!」

 

「それをあんなことされた、こんなことされたなどと文句ばかり言われては、交渉は一向に進みませんぞ」

 

もう止まりません。

「で、私は1933年の21歳の時に騎兵部隊の二等兵として満州に赴任していました。

その時、日本軍の大砲や私たちの持つ鉄砲の先(銃口)は、どっちを向いていたか分かりますか!?」

 

周恩来は虚を突かれ、戸惑いを見せる。

「えっ?・・・・・・??」

 

角栄の凄みと剣幕に他の中国スタッフは、水を打ったように静まり返りました。

やや間をおいて、角栄は例のダミ声にドスを聞かせて、しかし、ゆっくりと言い放ちます。

 

「鉄砲の先はソ連の方を向いていたのですよ!!」

中国側を一瞬、沈黙が支配します。

 

やがて、静寂を破って部屋中に大きな笑い声が響いたのでした。

「わーっはっはっは。これは愉快だ」

中国の首脳につられて、日本スタッフにも笑いがもれました。

 

中国とソ連は同じ共産主義国でありながら、当時の関係は決して友好的とは言えなかったのです。

そのような事情を調べつくしていた角栄は、中国側の痛いところをうまく突いたのです。

 

角栄が銃口の向きで表現したのは、中国をソ連の侵略から守るために満州にいた、という意味だったのです。

 

見事な機転でした。

これほどの大舞台で、こんなウェットに富んだ表現ができるとは、もう本当に鳥肌が立つではありませんか。

 

次の日、ついに国家主席である毛沢東が出てきます。

面談に望んだのは田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進自民党幹事長の3人でした。

 

「周恩来同志とのケンカは済みましたか?ケンカをしないとダメです。

ケンカをしてこそ初めて仲良くなれます。」

 

『小異を捨てて大同につく』

毛沢東が角栄を認めた瞬間でした。

 

多くの紆余曲折はありました。

だが、両国首脳の粘り強い交渉が実り、日中国交正常化交渉は成功裏に終わったのです。

 

「思いっきりやれ!すべての責任は俺がとる」

田中角栄が色あせない所以でしょう。

田中角栄さんは演説の名人で伝説の男!

豊富な知識と天才的な記憶力、そして抜群の行動力から「コンピュータ付きブルドーザー」とも呼ばれた『角さん』こと田中角栄さん。

 

彼の凄さは、それだけにとどまりません。

巧みな演説で、たちまち人を引き付けてしまうのでした。

 

パーティー会場のステージへ上り、

「私が田中角栄です」

というだけで万雷の拍手が起きました。

 

そして、必ず聴衆から声が飛びます。

「よっ!」「待ってました」などですね。

 

まるで時代劇の芝居小屋を彷彿させるような雰囲気を一瞬のうちに創り出してしまうのですから、これはもう、本当にすごいものがあります。

 

雰囲気だけではありません。

話す内容も実に巧みに計算されつくされているのです。

 

例えばA議員の大臣就任パーティーだったとします。

まず、A議員にお祝いの言葉を述べ、本人を褒めたたえることを忘れません。

 

そして、そのあとがスゴイ。

日本の経済状況や置かれている国際情勢について実にわかりやすく、簡潔に説明します。

 

次は、必ずA議員の地元の事情に触れます。

「彼の地元は製造業が盛んですが、もう少し輸出を増やせばもっと経済は活性化する。

地元のためにそれができるのはA議員しかいません」

 

さらには、議員の奥さんが出席していると必ず奥さんのこともほめるのです。

そして、もう一度議員本人の話に戻り、今後の活躍に期待する言葉を述べます。

 

最後に今後の日本はどうあるべきかを訴えて演説を終えるのです。

このようなパーティーは時間が限られているうえゲストが多いので、角さんといえども演説の持ち時間は精々5分程度です。

 

その短い制限時間内にこれだけの内容をしっかりとまとめて盛り込むのですから、これは天才以外の何者でもありません。

 

独特のダミ声ではありますが、語尾がしっかりしていて話し方がとても力強く、間の取り方がまた抜群なのです。

これで聴衆は聞きほれてしまいます。

田中角栄さんの凄さはお金の使い方に現れていた!

田中角栄さんは演説が素晴らしく上手でしたがお金の使い方が、これまたけた外れだったのです。

角さんはゴルフ好きで有名でした。

その彼がゴルフ場では最も愛し何度となくプレーに通ったのが小金井カントリ―倶楽部です。

 

ゴルフ会員権が日本で一番高いコースとして有名ですが、バブルの頃は4億円の相場をつけて、世界的な話題となりました。

現在は4千万円前後で推移しています。

 

角さんが小金井カントリー倶楽部に行った時に配る、チップの額が半端ではありません。

ただただ、たまげるばかりです。

コースで会う人会う人、すべての人たちに1万円札を配るのです。

 

フロントの方、レストランの従業員、キャディさん、売店の人、コース管理で草を刈っている人や木を剪定する人まですべてです。

 

ロッカーでカギを管理する人から浴場の雑用係まで、本当に隅から隅まで一万円札を配ります。

田中角栄さんが小金井カントリー俱楽部のメンバーになったのは1972年ころのことでしたが、その当時から1万円札を配っていました。

 

1972年と言えば、ラーメン一杯140円、週刊誌が90円で映画は800円で観られました。

大卒の初任給が 47,000円前後、高卒の初任給は37,500円くらいの時です。

 

1万円の価値がどれほどすごかったか、よく分っていただけると思います。

こんな角さんに出会ったら、誰も悪口を言えませんね。

田中角栄さんのゴルフは超せっかちだった?

田中角栄さんは、せっかちなことでも有名でした。

だから、ゴルフのプレーも速い。

 

通常はワンラウンド回るのに2時間から遅いと2時間半かかります。

それを角さんは1時間15分くらいで回ってしまうのです。

 

だから、1日にツーラウンドでもスリーラウンドでも平気で回ります。

角さんとは大の仲良しだった、藤原弘達さんという有名な評論家がいました。

二人は同じ小金井カントリー俱楽部のメンバー同士でもあり、よく一緒にプレーしたようです。

 

その藤原弘達さんが講演で言ってました。

「角栄のタフさは異常だよ。ゴルフをツーラウンド回って、赤坂か神楽坂あたりで一杯ひっかけて、夜もうワンラウンドやると丁度いい。というんだから驚くよ」。

 

夜も入れて、1日スリーラウンドが丁度よいと言うのですから、確かにタフですね。

角さんのお金配りはゴルフ場に限ったことではありませんでした。

 

地方に出張して旅館に泊まる際も女中さんから調理場、そして女将さんまで、分け隔てなくご祝儀を配っていたと言います。

 

だから芸者遊びも実に豪快でした。

宴席を設けると正式な料金とは別に、秘書を通じて女将さんへ数十万円を渡していました。

 

「仲居さんや板場で働く連中に分けてくれ」

そう言って渡すのです。

ゴルフ場同様に、そんなことをされて喜ばない人がいるはずもありませんね。

 

「我々にまで気を使うなんてスゴイ人だなあ」

と、どこへ行っても角さんの人気はうなぎ登りになるのです。

 

情に厚く金離れの良い角さんは、宴席も常に明るかったことで知られています。

角さんの芸者遊びはいつも笑いが絶えないので、他の座敷にいる芸者さんたちまで彼の座敷に移りたくて、そわそわと落ち着かなかったのだとか。

田中角栄さんは三つの家庭を持っていた?

そんな角さんですから、当然女性にはモテます。

分っているだけで3つの家庭を持っていました。

 

娘・真紀子さんを育てたのは目白御殿で、神楽坂芸者だった辻和子さんとの間には二人の息子さんがいます。

 

そして、もう一つの家庭は角さんの金庫番として有名だった佐藤昭さんと築きました。彼女との間には娘さんが一人います。

 

 角栄さんは情の人ですから、3人に対して同じように接し、大切にしたと言います。

子どもがいたかどうかは、分りませんがこの他にも女性はいたようです。

 

彼の哲学は

「外で遊んでもいいから、妻を大事にしろ」

でした。

 

田中派の議員や日本一の後援会と言われた越山会の関係者は、よくそのように言われたと聞きます。

そして女性に対しての記憶力とマメさもすごかったのです。

 

相手の女性が何が好きなのか、色やブランドの好みまで、全て頭に入っていたと言います。

行く先々でそれぞれの女性に合ったお土産を大量に買い求めていました。

 

秘書に買わせることもありましたが、渡すときだけは必ず自分が直接手渡します。

この記事を是非、前沢さんに読んでいただきたいと願っています。

 

角さんのお金の配り方と女性への接し方を学んでほしいと思うからです。

どなたか、前沢さんのお知り合いがいらっしゃいましたら、教えてあげてください。

最後まで情を貫いた田中角栄さん

さて、角さんは最後まで情を貫きました。ロッキード事件をきっかけに彼の資金源が批判の集中砲火を浴びます。

 

国会でも大問題となり、角さんの後援会である越山会の会計責任者として佐藤昭さんの証人喚問が検討されたのです。

 

彼女を国会の場に連れ出され、世間の好奇の目にさらすわけにいかない。

そう思い、佐藤昭女史を守るために田中角栄さんは総理大臣を辞任します。

 

辞任当初は他の理由がいろいろ取りざたされましたが、近年では佐藤昭さんを守るための決断だったとの説が有力です。

 

1972年の総理大臣就任直後に出版した『日本列島改造論』は90万部を売り上げるベストセラーになりました。

これにより、地価高騰を招き狂乱物価と言われるほどの混乱を招いたことも確かです。

 

しかし、高速道路や新幹線、さらには本州四国連絡橋などを整備して日本列島を線で結ぶという発想は素晴らしいものでした。

 

東京一極集中を解決し、地方の活性化を図るためには角さんのような強力なリーダーシップが必要です。

角さんはいつの場合も、大都市と地方は平等であるべきだと言う視点から日本を俯瞰していました。

 

彼には類まれなる人間愛と情があったから、それが出来たのです。

田中角栄のようなリーダーの出現が望まれています。

 

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