玉置浩二は天才と呼ばれます。
何が天才かと言えば、歌のうまさです。
音楽関係者がアーティストの歌唱力を語る時、必ずと言って良いほど玉置浩二の名前が登場します。
同じ現場でレコーディングに携わった人や、作曲家などもベタ褒めする人が多いのでかなり凄いことです。
ちょっと名前を忘れましたが、有名な音楽関係者が言っていました。
「歌のうまさとは、同じ曲を何度歌っても全く同じに歌えるのが、本当にうまい人だ」
これをできるのが、昔は『東海林太郎(しょうじたろう)さん』で今は玉置浩二が一番だと言っていたのが印象に残っています。
玉置浩二の歌とギターのうまさは天下一品だ!

歌手仲間にも彼の歌唱力を絶賛する人はとても多いので、本当に天才レベルなんです。
アーティスト何人かの声を聞いてみましょう。
ATSUSHIはこういって驚きを表現します。
「コンサート行った時に、玉置さんが声をグワーッって伸ばした時に、後ろからも音が来るんですよ。音の振動でビリビリビリと全方向から来るんですよ。背中側も振動しているんです、音で」
「化け物のように上手い」と徳永英明が言います。
スキマスイッチの大橋卓弥さんもこのように言ってベタ褒めです。
「日本で一番歌が上手い」
あの、山下達郎さんが尊敬しているのですから、やはりすごい。
「最も尊敬するボーカリスト」
Mr.Childrenの桜井和寿さんはも、このように言って最大限の賛辞を贈ります。
「日本で最も過小評価されているミュージシャン」
「天才であり最も尊敬するミュージシャンの一人」
日本語を全く分からない外国人がYouTubeで玉置浩二の歌を聞いて涙が出るほど感動した、という話があるほどです。
彼の曲を聴いていると意味が理解できなくとも、ストーリーや風景が頭に浮かんでくると言います。
天才、玉置浩二は北海道旭川市で生まれました。
1958年9月13日生まれですから、64歳です。
祖母が民謡教室で講師を務めていたこともあり、2歳のころから民謡を歌っていました。
小学生になると歌謡曲の歌手やグループ・サウンズに憧れ、早くも人前でその歌唱力を披露しています。
旭川市立神居中学校に入学しますが、2年生の時に転校してきた武沢豊同級生となり、1973年には2人でロックバンド『安全地帯』を結成しました。
また同時に中学校の生徒会長を務めていたと言いますから、行動力も抜群です。
その後、北海道立旭川農業高等学校に入学しますが、プロのミュージシャンを志し、直ぐに退学してしまいました。
高校を中退して3年ほどたったころには、旭川近郊にあった廃屋を買い取りスタジオに改装し、安全地帯のメンバーと共同生活を開始します。
バンドの練習は毎日、7時間から8時間に及びました。
意気込みと覚悟が違いますね。
プロを目指して入学したばかりの高校を中退し廃屋を改装して、合宿生活ですから。
改装したスタジオの300メートル四方には1軒の家もなかったため、どんなに大きな音量を出しても苦情が来ることはありませんでした。
したがって、安心して演奏や楽曲制作に打ち込むことができたのです。
ただ、改装にかかった費用500万円は借金だったので、メンバーは返済のため練習の合間を縫ってアルバイトに精を出すことになりました。
しかし、これほどの意気込みで長時間練習に励みますが、そう簡単には売れません。
玉置浩二と安全地帯にとって大きかったのは井上陽水との出会いでした。
井上陽水のバックバンドとして全国ツアーに参加
全国ツアーに同行してくれるバックバンドを探していた井上陽水が、音楽関係者の紹介で安全地帯の合宿所を訪問します。
すぐにセッションを行い、正式にバックバンドとして採用されたのでした。
これについて後日談があります。
この時、井上陽水本人は、安全地帯に対して特別魅力を感じていませんでした。
だが、知人の音楽関係者から強い推薦があり決めたのだと言います。
こんなもんですよね、世の中は。
経緯はいろいろありますが、肝心なのは当人が千載一遇のチャンスを活かせるかどうかです。
こうして上京し、バックバンドを務めるのですが、なんと無給だったと言うのですから、驚きます。
厳しいんです、芸能界は。有名タレントの付き人にしても、このようなバックバンドにしても、今でも無給が多いようです。
その代わり、業界に名前と顔が知られるようになりデビューのチャンスに巡り合えると言うことなのでしょう。
初対面では玉置浩二や安全地帯にあまり魅力を感じなかった井上陽水でしたが、全国ツアーを重ねるうちにその実力を認めるようになります。
1983年には井上陽水が詩を提供してくれたのです。
『ワインレッドの心』の大ヒットで玉置浩二と安全地帯は一躍全国区に!
これに玉置浩二が曲を書いて『ワインレッドの心』ができます。
曲はサントリーから発売された『赤玉パンチ』のCMソングに起用されました。
これが大ヒットして、玉置浩二と安全地帯は一挙にその名を全国へとどろかせたのです。
この『ワインレッドの心』にも玉置浩二を象徴するような後日談がありました。
レコード会社のプロデューサーやスタッフは、ヒット曲のない安全地帯を心配して、作曲も井上陽水にお願いしようと提案します。
しかし、彼はきっぱりと断りました。
後に彼はこのように言っています。
「歌謡曲っぽくて売れそうな感じの曲」を作曲したかったからだと。
しかし、どうでしょうか、玉置浩二には意地と自負心があったのだと思います。
「作曲なら俺だって負けない。ここで他人を頼ったら、いつまでたっても一人前のロックバンドになれない」
そんな思いが強かったと想像できるのです。
彼の意地が創らせた歌謡曲ぽい曲と井上陽水による危険な大人の恋模様を描いた詩がピタリとマッチして大ヒットとなったのでした。
翌年には『恋の予感』が大ヒットを飛ばします。
こうなると、もう勢いは止まりません。
『熱視線』『悲しみにさよなら』など、次々にヒット曲をリリースして、あっという間に日本を代表するロックバンドとなるのです。
冒頭で述べたように玉置浩二の歌唱力は別格だと言われています。
音程の正しさ、豊かな声量、音域の広さ聴く者の心を打つ声の響きなど、どれを取っても素晴らしいのです。
そして彼にはもう一つ、超一流の才能があります。
あまり知られていませんが、専門家が絶賛するのはギターの上手さです。
ギターに造詣が深い人たちに言わせると彼のギターはミスタッチが少なく、アレンジ力が抜群なのだとか。
弾き方が濃過ぎず、薄過ぎずで絶妙のバランスだといいます。
そして、歌の邪魔にならない程度に、ナチュラルに響かせるセンスが抜群だとも言われているのです。
日本ではギターリストが、過小評価される傾向にあります。
だから、彼のギターの上手さも、あまり注目されないのでしょう。
彼の繊細であり、ストイックなところが歌とギターの上手さに関係しているのは紛れもない事実です。
玉置浩二とプッツン女優、石原真理子の関係が二転三転?
玉置浩二は、これまで何度も女性問題が話題になりました。
一般女性と結婚しているにも関わらず女優の石原真理子との不倫が発覚して離婚します。
そして、不倫相手の石原真理子とも間もなく別離しました。
繊細でストイックな彼とプッツン女優と言われた彼女ですから、どう見たって長く続くわけはありません。
お互いに小走りで路地の角を曲がり、出会い頭に衝突したような恋愛だったのでしょう。
薬師丸ひろ子と離婚して石原真理子と再婚?
1991年には薬師丸ひろ子と結婚します。
だが、この結婚生活も7年で幕を閉じました。
その後、玉置浩二は急性膵炎を患い長期療養に入ります。
心身の消耗が激しく、生まれ故郷である旭川市の精神病棟に入院していたと伝えらました。
そして、目を疑うようなニュースが飛び込んできたのは、2009年 2月25日ことです。
その日の日刊スポーツに驚きの記事が載ります。
彼と石原真理子が23年ぶりに復縁したというのです。
翌26日には婚姻届を提出したと報道されます。
しかし、その半年後の9月4日には、破局していたことが報じられるのですからなんともお忙しい二人ではありませんか。
さらにおまけがつきます。
2月に提出したとされた婚姻届は役所で不受理だったというのです。
その理由がまた、あり得ないような話でした。
石原真理子は2003年に白人男性と結婚しますが、その離婚が成立していなかったというのです。
彼、玉置浩二は歌の天才だと言われます。
天才は常識を超えるから天才なのです。
彼を凡人の尺度に合わせてはいけません。
平穏無事な夫を求めること自体に無理があるのです。
現在の奥さん青田典子とは相性抜群?
現在の奥さんである、青田典子と玉置浩二は相性良いのではないでしょうか。
夫婦関係は上手くいっているのでしょう。
危ういうわさは、ほどんと聞こえてきません。
二人の相性が抜群で、青田典子は陰の支え役に徹しているからだと思います。
玉置浩二はいろいろありましたが、最後に素晴らしいパートナーに恵まれました。
離婚した薬師丸ひろ子は今でも言います。
「日本で一番歌が上手なのは、玉置浩二さんです」
とても良い関係だと思います。
別れた元奥さんが心からたたえてくれるなんて、
本当に素晴らしいことです。
玉置浩二は、ストイックな持ち味を存分に発揮してまだまだ、歌い続けてくれることでしょう。