高倉健さんは、実にかっこいい男でした。
とても魅力あふれる人でした。
代表作と言われる映画が、これほど多い俳優もまた他にいません。
そして、高倉健さんは礼儀正しい人でした。
礼儀にまつわる数多くのエピソードを遺しています。
例えば、健さんが出演した唯一の連続テレビドラマ『あにき』の脚本を書いた倉本聡は言います。
「自分より年下でも、相手が板前さんでもタクシー運転手でも駅員さんでも、きちんと立ち止まって礼をする人だった」
多くの作品にスタッフとして参加した映画関係者も、このように証言していました。
「とても礼儀正しい人です。大スターになっても全ての共演者に挨拶を忘れませんでした」
「監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う稀有な俳優でした」
高倉健はデビュー当時、大根役者だった?中国でのエピソードとは?

高倉健さんは、今でも中国で大人気です。
1976年公開された『君よ憤怒の河を渉れ』が中国に輸入されます。
これが大ヒットし、中国人の半分が観たとまでいわれるほどの人気だったのです。
宣伝のために共演した田中邦衛さんと訪中した時は高倉健さんを一目見ようと宿泊先のホテルへ大勢のファンが詰め掛け、その様子が日本でもニュースになりました。
高倉健さんが中国でこれほど人気があるのは映画のヒットだけが理由ではありません。
彼が中国に遺したエピソードが素晴らしいのです。
かつて健さんは中国の映画に出演したことがありました。
その時の中国人監督張芸謀は、健さんの行動に驚き感動します。
高倉健さんは休憩の時に椅子に一切座りません。
他のスタッフに遠慮して立ち続けていたのです。
さらには、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て
「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」
と感激のコメントを何度も発しています。
こうして、高倉健さんの礼儀正しさや他人への気遣いは中国中に知れ渡ったのです。
中国で高倉健さんが異常なほど人気を集める背景には、このようなエピソードが隠されています。
健さんは新人の頃、大根役者だった?
健さんは1955年ニューフェイス第2期生として東映へ入社しました。
ニューフェイスは入社すると俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスンを受けます。
その後には、東映の撮影所でエキストラ出演などさらに6か月の研修が課せられていました。
俳優座研究所では
「他の人の邪魔になるから、見学していてください」
と言われるのを何度も経験しています。
つまり、俳優としては落ちこぼれだったのです。
ぶっきらぼうで、演技下手な彼は研修が終わって映画に出演しますが、一向に売れません。
男くさい雰囲気を漂わせる礼儀正しい青年を何とか売り出そうと、東映の首脳陣はあれこれ手を尽くします。
当時、時代劇俳優として国民的スターになっていた中村錦之助(後の萬屋錦之助)さんも弟のようにかわいがり、よく面倒を見てくれました。
俳優として忍耐の日々が続いた健さんに大きな転機が訪れます。
1963年の『人生劇場 飛車角』で、準主役として出演したのですが、劇場に足を運んだ映画ファンの注目を集めました。
東映が時代劇から任侠映画に軸足を移しつつあった時期です。
そのタイミングで『人生劇場 飛車角』に出演し評判をとった彼は、任侠映画のスター候補となったのでした。
1964年には『日本侠客伝』で主役に抜擢されます。
東映は当初、中村錦之助さんに主役を打診しました。
やくざ映画を経営の柱にしたい東映が中村錦之助さんをやくざ映画の大スターに仕立てようともくろんだのです。
だが、当の中村錦之助さんは、あくまでも時代劇にこだわり、やくざ映画を嫌います。
そこで、健さんに白羽の矢が立ったという訳です。
だが、撮影に入ると監督らスタッフは頭を抱えます。
やくざ映画とはいえ、彼らがイメージしたのは時代劇の延長線上にある、やくざ同士の斬り合いです。
ところが高倉健さんの演技は、剣豪の殺陣とは程遠いものでした。
まるで野球選手がバットを振り回すようなアクションだったのですから、監督はたまりません。
しかし、映画が公開されると予想外の反応がありました。
健さんの寡黙な立ち居振る舞いと眼力が、スクリーンを通じて映画ファンを圧倒します。
大衆のそのような反応を知った健さんは、俳優としてのイメージ作りにのめり込んでいくのです。
無口で禁欲的な任侠道を貫く男という人物像を崩さないように努めます。
「俳優は肉体労働」という信条もあり、このころから筋力トレーニングとジョギングを欠かしませんでした。
1964年からは『日本侠客伝シリーズ』が始まります。
さらに翌年の1965年には『網走番外地』シリーズがスタートし『昭和残侠伝シリーズ』にも主演したのです。
もう、押しも押されもしない東映の看板スターになっていました。
『網走番外地』シリーズでは主題歌も爆発的なヒットを記録します。
レコード200万枚を売り上げたのでした。
1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒット。
この二曲は今も、カラオケなどで歌い継がれています。
『唐獅子牡丹』には、このようなエピソードも隠されていました。
有名人や著名人の中にも高倉健ファンがたくさんいます。
あの、三島由紀夫も高倉健の大ファンだった!
小説家の三島由紀夫さんも高倉健ファンの一人でした。
彼が割腹自殺を遂げたいわゆる『三島事件』当日のことです。
1970年(昭和45年)11月25日、三島由紀夫さんは自衛隊に決起を呼びかけるため市ヶ谷駐屯所へ向かいます。
道中『盾の会』のメンバーと一緒に乗っていた車の中で彼が口ずさんでいたのは『唐獅子牡丹』だったのです。
網走番外地や任侠シリーズが人気だった当時は、学生運動の真っただ中でした。
そのような社会を背景に、背筋がピンと伸び、鍛えられた身体。
寡黙で、不条理な仕打ちに耐え、一言も言い訳はしない。
義理と人情に命を懸け、恋も愛も捨ててついには復讐を果たす。
このような高倉健さん演じる主人公は、若者から中年サラリーマンなど幅広い層に圧倒的な支持を得たのです。
彼は実に格好いい俳優ですした。
学生運動にのめり込む学生までもが健さんのとりことなったのです。
しかし、健さん本人は年間10本以上にも及ぶ出演に消耗します。
ハードな制作スケジュールだけではなく、同じようなストーリーが毎回繰り返される単調さにも辟易し、疲弊したのです。
もう限界だと思っていた時に映画館を覗きました。
通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって叫び、喝采し、拍手まで送ります。
映画が終わって帰途に就くファンの姿は、映画館に入った時と明らかに違っていました。
自分が演じる主人公の影響を受けて、皆、目を輝かせています。
中には肩を怒らせて意気揚々と引き上げるファンまでいたのです。
これには驚きます。
同時になぜこんな風になるのか不思議でもありました。
だが、この体験で高倉健さんの意識は変化します。たとえ、単調であってもファンの期待に応え、
『定番』を懸命に演じ続けると心に決めたのです。
代表作が多い高倉健の役者魂はすごかった!
俳優業へ注ぐ高倉健さんの情熱は凄まじいものでした。
生活のすべてを役者としてのイメージづくりにささげた、と言っても過言ではありません。
いや、もしかしたら『主人公・高倉健』を自分自身で演じ続けていたのかもしれません。
初の松竹出演作であり、代表作の一つでもある『幸福の黄色いハンカチ』では、こんな逸話が残っています。
映画の冒頭で田舎町の食堂が映し出されます。
奥のテーブルにはポツンと男が座っていました。
刑期を終え、刑務所から出所したばかりです。
ビールを頼むと親切に女性店員がついでくれます。
男はグラスにつがれたビールを噛みしめるように飲み干しました。
続いて、ラーメンとカツ丼がテーブルに並びます。
男はラーメンの一口目だけをゆっくり味わった後、一気に平らげてしまうのです。
見ていて、よだれがこぼれるほど美味しそうに頬ばっていました。
演じたのは高倉健さんです。
撮影はNGなしの一発OKでした。
それにしても、あまりにもリアルな演技です。
山田洋次監督も完璧さに驚きます。
あまりの見事さに監督は思わず健さんに声をかけました。
返ってきた言葉に唖然とします。
「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」
健さんらしく、言葉少なに答えたのです。
実力を証明した『幸せの黄色いハンカチ』
粗製乱造のやくざ映画はあっという間に廃れます。
革命に名を借りた暴力集団が乱立し、学生運動もいつしか雲散霧消してしまいました。
だが『俳優高倉健』を確立した健さんは、実力にも人気にも一切陰りが見えることはありません。
『幸福の黄色いハンカチ』の後も、実に多くの代表作を残しています。
『野性の証明』『動乱』『遙かなる山の呼び声』『駅 STATION』『南極物語』『居酒屋兆治』『ブラック・レイン』『四十七人の刺客』『鉄道員(ぽっぽや)』など、出演する作品が次々とヒットしたのです。
高倉健さんは、生涯206本の映画に出演しています。
テレビドラマはわずかに6本です。
しかも、連続ドラマは先ほど少し触れた倉本聰さんの『あにき』1本だけでした。
故石原慎太郎さんは「最後の大物俳優」と評していましたが「最後の映画俳優」とも言えるでしょう。
映画だけでこれほど長きにわたり人気を保ち続けた日本の俳優は他に例をみません。
高倉健さんは永遠の映画スターです。