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石原慎太郎の名言と人生。ノーベル賞文学賞作家大江健三郎との関係は?

波乱の人生

「自分の一生をプロデュースし演じるのは、誰でもない自分自身であって、それ以外の何者でもない」

「群を抜く仕事を成した人間を、人々は天才と呼ぶが、何の努力もなしに天才であった人はいない。才能の二倍、三倍の努力をしなければ、才能は表れてくれない」

 

「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね。私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」

「国を憂えている。若いやつは何してんだ。みんな腰抜けじゃないか。このままじゃ死ねない」

 

これはすべて石原慎太郎が残した名言です。

首尾一貫した言葉ばかりだ。

自らの言葉を実践した石原慎太郎の人生を追いました。

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太陽の季節で文学界に衝撃を与えた石原慎太郎!

石原慎太郎は作家であり政治家でした。

とても才能豊かな方です。

 

日本を代表する俳優の石原裕次郎は実弟でした。

二人は長い間、日本でもっとも有名な兄弟と言われ、抜群の知名度を誇り日本では知らない人がいないほどです。

 

他にも有名な兄弟、姉妹はいるが、これほど長きにわたり日本人の心をとらえ続けたのは彼ら以外にいないでしょう。

 

石原慎太郎は、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞しています。

その後の活躍は目覚ましく、36歳で参議院議員に初当選しました。

 

当初は自民党公認ですが、その後めまぐるしく所属政党などが変わります。

彼の華やかで多彩な人生を知るためには、まずその経歴を知っておくことが大事です。

 

石原慎太郎の経歴と歩みを時系列で追いかけてみましょう。

1932年9月30日、兵庫県神戸市須磨区で生まれました。

 

山下汽船の役員を務めた父の転勤に伴い、その後、北海道の小樽市、神奈川県の逗子市で

育ちます。

神奈川県立湘南高等学校を卒業後、一橋大学に進学しました。

 

公認会計士になるために一橋大学に入学しましたが、自分は会計士には向かないことを自覚します。

そこから彼は文学に傾倒して行くのでした。休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力します。

 

努力が実って同人誌は復活し、何とか印刷するところまでこぎつけます。

だが、その印刷代が足りない。

 

思案を巡らせた彼は、一橋大学のOBであり文学評論家の伊藤整に資金援助をお願いしようと考えます。

友人と二人で伊藤整さん宅を訪ねました。

 

当時の金額で8千円ほどですが、現在だと数十万円になる金額を伊藤整は気前よく二つ返事で引き受けてくれたのです。

 

やはりこのころから、石原慎太郎の行動力は並ではなかったようです。

だが、彼は決して押し付けがましかったり強引ではありませんでした。

伊藤整は、のちに彼が寄付をもらいに自宅へ来たときのことをこのように書いています。

 

「そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。

だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。

 

押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。

 

すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた」

 

この辺りが両者ともに、すごいですね。きらりと光る印象を残す青年とそれを忘れない成功者。

これに似た話は時々、他でも聞きます。

 

背の高い石原青年は、どこかに育ちの良さを漂わせていたのでしょう。

感じの良さが決め手だったのだと思います。

 

いくら文芸評論家として売れっ子だった伊藤整さんとはいえ、感じの悪い青年に大金をポンと渡すわけがありません。

こうして、一橋大学の同人誌『一橋文藝』は復活します。

 

しかし、人間の運命というのはわからないものです。

自分の努力で復活させた同人誌によって、すぐに自分の文学的才能が開花するなんて、彼はこの時、全く予想もしていなかったことでしょう。

 

石原慎太郎は、復刻した同人誌『一橋文藝』に処女作である『灰色の教室』を発表します。

これが文芸評論家の浅見淵に絶賛されたのです。

彼は大いに自信をつけます。

 

そして第2作目となる『太陽の季節』を発表し、第34回芥川賞を受賞してしまうのですから、驚きです。

自らの才能を開花させるために、自分の力で何事かを切り拓いていく。

 

若き日の慎太郎の行動力に敬意を表すると同時に彼の運命的強さを感じずにはいられません。

学生であった彼の芥川賞受賞は世間に大きな衝撃を与えます。

 

昭和生まれとしては初の芥川賞でもありましたが、議論を呼んだのは小説の描写でした。

若さを強調した情念や生々しい性描写、倫理に挑戦するがごとき内容が賛否両論を呼び、議論が沸き起こったのです。

 

同人誌『一橋文藝』発行にあたり多額の寄付を寄せた伊藤整はこのころ、文芸春秋で『文學界新人賞』の選考委員を務めていました。

 

賛否別れる『太陽の季節』をこのように評しています。

「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後にのびる」

と推奨し『太陽の季節』は『文學界新人賞』も受賞したのです。

石原慎太郎とノーベル文学賞作家・大江健三郎の関係とは?

実はこのころ、あまり知らていませんが、石原慎太郎は、ノーベル賞作家の大江健三郎と親交がありました。

慎太郎より2学年下で東大生だった大江健三郎は、よく下宿を訪ねてきたそうです。

 

東京大学文学部に在籍していた大江健三郎ですが、学内には友達ができず、一橋大学の同人誌の仲間と文学について語り合ったと言います。

 

一緒に酒を飲んで慎太郎さんの下宿に泊まることもしばしばあったようですから、かなり慎太郎さんを慕っていたのでしょう。

 

だが、二人は決別します。

文学的にも政治的思想でもほぼ対極に位置するほどの関係になったのです。

 

両者とも芥川賞作家であり、売れっ子になるとどちらかと言えば、大江健三郎の方が石原慎太郎の政治スタンスを批判することが多かったように思われます。

 

石原慎太郎はあまり彼のことを批判しませんでしたが、一度だけやんわりと否定したことがあります。

 

「大江健三郎の晦渋(かいじゅう)は偽物だ」

晦渋とは難しすぎるという意味です。

 

そして、一度だけ本気で怒ったこともあります。

大江健三郎がノーベル文学賞の授賞式で「日本はヨーロッパの周辺の小さな国に過ぎません」と言ったことに怒りが爆発したのです。

 

「なぜ、日本がヨーロッパの周辺国なんだ」

「大江のような日本のインテリはどうして白人の前に出ると、母国を貶めるようなことを平気で言うのか」

 

このように大江健三郎を叱ったのです。

そして結びにこんなことを書いています。

 

「大江は孤独を癒すために俺の下宿に来て文学論を戦わせながら、あまり強くない酒を飲み、度々酔いつぶれた。あの純情をどこに忘れてきたのだ」

作家・石原慎太郎が政界へ華々しくデビュー!

石原慎太郎はその後も、ヒット作、話題作を連発します。

そして1968年、36歳で自民党から参議院議員に出馬しました。

 

選挙では抜群の知名度を生かして、史上最高の301万票あまりを得ています。

しかし、彼の政治家人生はこの後、めまぐるしいほどの動きを見せるのです。

 

1972年12月に行われた衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し衆議院に転進します。

1973年には田中内閣による台湾と国交断絶して中国と国交を結ぶ『日中国交正常化』に反対し、反共を旗印にした政策集団「青嵐会」を結成しました。

 

東京都知事選挙に立候補したのは1975年4月のことでした。

美濃部亮吉革新都政に挑戦するが、大敗してしまいます。

おそらく、この敗北によって石原慎太郎は人生初めての挫折感を味わったのではないでしょうか。

 

その屈辱から立ち直り、再度国政に復帰し、環境庁長官、運輸大臣などを歴任し、自民党総裁選にも立候補しますが、対立候補の海部俊樹に破れてしまいました。

 

1995年4月には、理由をはっきりさせないまま衆議院議員を辞職します。

それから約4年後の1999年、突如として東京都知事選への立候補を表明しました。

 

都知事選では4選を果たしますが、猪瀬直樹を後継に指名して途中でやめてしまいます。

その年に行われた衆議院議員総選挙に日本維新の会から比例東京ブロックで出馬しました。

 

当選して17年ぶりで国政へ復帰しますが、党の分裂などで所属政党が何度も変わります。

2014年の衆議院議員総選挙に立候補したのですが、落選して政界からの引退を表明するに至ったのです。

憲法改正は石原慎太郎の見果てぬ夢だった!

都知事をやめて再度国政に復帰し、何がしたかったのでしょうか。

憂国の思いに駆られていたことは十分理解できます。

 

だが、国政に返り咲いてすぐに何かを実行できるほど簡単ではありません。

政治がそんな甘いものではないことを豊富な経験で学ばなかったのかと、少し疑問が残る行動でした。

 

石原慎太郎には4人の息子さんがいます。

長男は石原伸晃で総裁選出馬経験もある、自民党の重鎮でしたが前回の総選挙で落選してしまいました。

 

三男も自民党の議員ですが、もっとも有名なのは次男の石原良純です。

テレビのワイドショーやバラエティ番組に出演していますので、知っている方も多いと思います。

 

良純さんは父である慎太郎の死を受けて、このように発言していました。

「父は小説家として、人生を全うしたと思います。

小説家としてはやり尽くしました」

 

間近で父・石原慎太郎を見てきた者からしたら、やはり小説家としての存在が大きかったのでしょう。

石原慎太郎さんが『太陽の季節』で芥川賞を受賞した昭和31年に日本政府は白書に「もはや戦後ではない」と書いています。

 

彼はこれに強く反発し続けました。

日本がアメリカから本当に独立し、戦後が終わるのは憲法を改正して、独自の軍隊を持つことだとの思いがとても強かったのです。

 

『憲法改正』は石原慎太郎さんの悲願でもあり、見果てぬ夢でした。

 

確かに石原慎太郎は政治家としても、それなりの実績は残しています。

運輸大臣時代に指示した成田国際空港へのJRと京成電鉄の乗り入れ、リニアモーターカーの実験線拡充などは彼の功績です。

 

また、都知事時代にはディーゼルエンジンの規制や前任の青島知事時代に弱体化した、東京都の財政立て直しにも成功しました。

 

だが、多くの石原ファンが彼に求めたのは、そのレベルではなかったのではないでしょうか。

憲法改正こそが石原本人とファンの悲願だったはずです。

 

都知事に転身した段階で、彼はその夢をあきらめたのでしょうか。

それとも、こちらの過剰な期待だったのだろうか。

いづれにしても、石原慎太郎はもういません。

 

彼はこうも言ってました。

「俺がいなくなった世の中は、退屈だぞ」

 

行動力抜群で知の巨人でもあった石原慎太郎は2022年(令和4年)2月1日、89歳の生涯を静かに閉じたのでした。

合掌

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