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志村けんの銅像が建ったエピソードといかりや長介と衝突した芸風のちがい!

波乱の人生

ジャンケンは「最初はグー」で始まります。

今では日本中、いつでもどこでも誰もが何の不思議もなく使っている言葉です。

実は、これを最初に使ったのが志村けんさんでした。

 

1969年に始まったTBSの『8時だョ!全員集合』は子どもからお年寄りまで幅広いファン層に支持され爆発的な人気番組となりました。

 

この番組内で1981年から始まったのが志村けんさんと仲本工事さんによる『ジャンケン決闘』です。

 

志村けんさんの発案で、この時から使われるようになったのが「最初はグー」でした。

そうして、日本全国へ広まったのです。

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志村けんのお笑い人生は、いかりや長介の付き人から始まった!

志村けんさんは1950年2月20日東京都東村山市で男3人兄弟の3男として生まれました。

兄二人は公務員と堅実な職業につきましたが、彼一人だけ全く違う道を歩みます。

 

小学生の時すでに、コントで笑わせるお笑い芸人に漠然とした憧れを抱いていました。

中学生になると文化祭でコントを演じて笑いを取り「自分にはこの道しかない」と思うまでになっていたのです。

 

高校に入るとサッカー部に所属する傍ら、1年生の時から文化祭でコントを披露します。

友人たちからの反応は上々で、一層、芸人への想いを募らせたのです。

 

彼がこれほどまでにお笑いの世界にこだわった理由は、家庭環境にありました。

学校の教師をしていた父が厳格な人物で家庭にはあまり笑いがなかったのです。

 

志村けんさんが子どもの頃、テレビのお笑いと言えば落語と漫才が定番でした。

今と違い、お笑い番組がとても少なかったのです。

 

そして、テレビで漫才や落語を観ていると、父親も声を出して笑い、その時だけは家が明るくなったのだと言います。

 

志村さん自身も、そのような時間だけはくつろげて嫌なことを忘れることができました。

そんな中で、彼は笑いの大切さを知り、心には自然と笑いへのあこがれが芽生えたのです。

 

高校3年生の3学期、彼は一大決心をします。

お笑い芸人の住所録を手に入れ、『ザ・ドリフターズ』のリーダーいかりや長介さんの自宅へ押しかけたのです。

 

目的は弟子入りを直談判することでした。

冷たい雨に打たれながら家の前で待つこと12時間、いかりや長介さんが、ようやく帰宅します。

 

小雨の中を12時間待った根性が認められました。

芸人の世界では付き人を『ボーヤ』と呼びます。

 

今いるボーヤがだれかやめて、欠員ができたらという条件付きで弟子入りが認められたのです。

卒業式が間近に迫ったある日、いかりや長介さんから電話が入ります。

指定された後楽園ホールへ駆けつけると、その場で弟子入りを許されたのです。

 

「ありがとうございます。

では高校を卒業したら来ます」

彼は嬉しさと緊張が入り混じった声でお礼を言います。

 

「バカ野郎、誰が卒業してから来いと言った。

明日から一緒に青森に行くんだよ」

いかりや長介さんの怒りの声が耳をつんざくのでした。

 

それにしても、二人のやり取りが目に浮かびますね。

浅黒く長い顔のいかりやさんが、目を吊り上げ口角泡を飛ばして怒鳴りつける。

 

まだ、黒々と長髪だった志村けんさんが「へえ、へっへえー」とばかりに頭(こうべ)を垂れる。

もう、これ自体がコントです。

卒業式の当日だけは午前中休暇をもらい、長く過酷な『ボーヤ』生活が始まったのです。

 

それから4年後、彼は22歳で井山淳とお笑いコンビ「マックボンボン」を結成し「志村健」の芸名で芸能界にデビューします。

 

すぐにレギュラー番組をもらう幸運に巡り合いますが持ちネタの少なさが災いし、番組は半年余りで打ち切られてしまうのでした。

 

また、ドリフターズに戻ります。

今度は加藤茶の付き人となり、芸名も『志村けん』に改めました。

そして再びチャンスが巡ってきます。

 

1974年3月31日をもって荒井注さんが脱退し、

彼は4月1日をもってドリフターズの正式メンバーに昇格したのです。

 

他に二人ほど候補者はいましたが加藤茶の強い推薦によって、一番若かった志村けんさんが起用されます。

24歳の時でした。

 

ドリフターズのメンバーとなり、ギターを担当します。

だが、ギャグがなかなか受けません。

 

転機となったのが『8時だョ!全員集合』の少年少女合唱隊コーナーで歌った『東村山音頭』でした。

他のメンバーから東村山から来た田舎者とイジられていた彼は意地になってリハーサル中に東村山音頭を歌っていたのです。

 

ところが、メンバーがそれを聞いておもしろがり、番組本番で歌ってみようと言うことになりました。

1976年3月6日に行われた新潟県民会館での公開生放送で初披露されます。

 

これが大うけし『東村山音頭』はたちまち全国へ広まったのです。

歌の中心になった志村けんさんも一挙に人気が爆発します。

 

これにより東村山市の知名度も全国的に爆上がりとなりました。

その功績で志村けんさんの銅像が西武線の東村山駅前に建立されたのです。

数々の伝説を残した志村さんですが、特筆すべきエピソードと言えます。

 

その後は、加藤茶との絶妙コンビで『ひげダンス』を披露するなどあっという間にドリフターズの中心メンバーとして成長を遂げたのです。

志村けんといかりや長介の仲たがいは芸風の違いが原因だった?

人気、実力ともに一流となりますが、それですべてがうまくいくとは限りません。

やがて、志村けんさんとリーダーであるいかりや長介さんとの不和説が流れます。

理由は芸風の違いでした。

 

きちんとした台本を基にいかりや長介さんの号令一下、リハーサル通りにコントを繰り広げるのがデビュー以来変わらぬ、ドリフターズのスタイルです。

 

ところが、志村けんさんは本番が始まると観客の反応に合わせて、アドリブを連発するのでした。

さらに彼は、加藤茶やリーダーを抑えてメンバーの中でもトップの人気を誇るようになります。

 

しかし、最も若いことを理由にいつまでたっても一番下に扱われるのでした。

これがはどうしても割り切れず、不満となっていたのです。

 

台本に従った基本を大事にするリーダーいかりや長介さんに対して、アドリブで観客を引き付ける志村けんさん。

だが、芸の道は深いと言うべきかはたまた、多岐にわたると言うべきなのでしょうか。

 

これが、あのビートたけしから見るとまた一味違う論評になるのです。

志村けんさんとたけしは、一時期頻繁に飲み歩きました。

たけしさんが志村けんの大ヒット番組『バカ殿』にゲスト出演したこともあります。

 

その時の様子をこのように語っていました。

『けんちゃんは基本的に、すごく気を遣う人だし、マジメなんだよね。

だから、コントに対してもマジメっていうか。

バカバカしいことをただやるっていうんじゃなくて、つくり上げたバカバカしいことが面白いっていう。

 

我々が、バカバカしいことが偶然出てくるのを狙ってエサを撒く笑いなのとは大違い。

けんちゃんはバカバカしいことをちゃんと狙って、頭の中に描いてからこなすんだよ。

 

こっちはアドリブばっかりやりたくなるけど、けんちゃんはカメラの位置や撮り方まで全部指示するんだ。

 

それ見ちゃうとアドリブも入れようがなくて、おお、しっかりしたコントやってるんだ、と思ったね』

 

いかりや長介さんとの間に、アドリブで距離ができたと言われる志村けんさんですが、たけしさんから見るとかなり違ったニュアンスになります。

 

これがプロの芸の奥深さなのでしょう。たかが笑いというなかれ。

笑いの裏には、人知れぬ努力と苦労があります。

やはり、一芸に人生をかけた人々のプロ根性はすごいのです。

 

そして、志村けんさんといかりや長介さんは、決して互いを否定したわけではありません。

いかりや長介さんは生前、志村けんさんを認めたコメントをたくさん残しています。

 

また、志村けんが呼び掛けて2017年にはドリフターズを再結集させました。

理由は、今のお笑いはドリフターズのように大掛かりなセットを使ったコントがない。

 

だから、その素晴らしさを改めて知ってもらいたかったと言っています。

たけしも、似たようなことを言っています。

「けんちゃんには、いかりや長介さんの教えがしっかりと叩きこまれているんだよ」

 

志村けんさんは信念の人でもありました。

「自分が得意な分野しかやらない。

人がこれやってるけど それをやってみようかとはあまり思わない」

 

「無理してそんな 自分に合わないことをやってウケないよりは、自分の得意分野でウケた方がいいじゃないですか」

常々、このように言っていました。

 

また、このようにも言っています。

「面白いコントを作るコツは1個だけ。自分が楽しいと思うことしかやらない。

それ以外やると自分がどっか行っちゃうんですよね」

 

一流はしっかりと自分を持っているのです。

そして、彼を調べていくと、とても意外なことに突きあたります。

実は彼、超の付く照れ屋だったのです。

 

だから、カメラを前にして台本なしでしゃべるフリートーク番組が大の苦手でした。

厚いメイクを施して、ギンギラギンの衣装を着けなければ、うまく話せなかったと言いますから驚きです。

 

あれほどのキャリアと人気を誇りながら、『徹子の部屋』に一度も出ていないのはそれが理由だったと言います。

『バカ殿』や『ひげダンス』からは想像もできません。

 

彼は言います。

「煮詰まってくると いつもなるべく原点に帰るんです。

それでしゃべらないで音楽だけで何かできないかと考えて浮かんだのが『ひげダンス』なんです」

 

一流になりたかったら、しっかりと自分を持って原点を忘れないこと。

それで「だいじょうぶだあー」

天から声が聞こえてきそうです。

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