あなたは、北海道出身で小樽生まれの偉人・坂西志保を知っていますか?
戦時中はアメリカと母国・日本、両国からのスパイ容疑に苦しみ、終戦と同時にGHQ職員に抜擢された波瀾万丈の前半生。
そして、外務省やNHKに公職を得、憲法調査会委員を務めるなど行政、立法、教育と幅広く活躍し、いかんなく才能を発揮した後半生。
彼女は塩谷村の開拓農家に生まれた。
現在の小樽市塩谷3丁目、通称伍助沢だ。
伍助沢分教所では、あの伊藤整の父から学んでいる。
明治の終わり十代の少女が開拓村からたった一人で上京するのだから、想像を絶する意志の強さと行動力だ。
志保の行動力はそれにとどまらなかった。
大正時代には20代半ばで単身渡米するのだから、まさしく不撓不屈だ。
その博識と理知で戦後民主主義の伝道者とさえ言われる才媛。
しかし、多くの書物で坂西志保は東京生まれと記述されている。
このミステリアスな誤謬は、第二次世界大戦を挟みアメリカと日本両国で彼女を襲った、数奇な運命によるところが大きいと思われる。
他の追随を許さない彼女の進取の精神と才能あふれる人生を追いながら、小樽生まれがなぜ東京生まれと記されるのか、その謎に迫った。
小樽を超えて日本を代表する才媛・坂西志保は、出生地小樽でも知る人は少ないのではないだろうか。
彼女の人生は波乱に満ち、そしてミステリアスさえ感じさせるのだ。
1922年(大正11年)にアメリカへ留学した志保は哲学博士の学位を取得し、学業を終えた後も現地にとどまり、大学で助教授として教鞭をとるなど、その出世は目ざましかった。
日米開戦時にはアメリカ議会が運営する図書館で重要なポストにあったが、この頃の志保は次々といわれなき人災に襲われた。
公開された機密文書によって発覚したのであるが、日米が太平洋戦争に突入した当時の米国大統領は、かなり特異な性質の持ち主だった。
「人種間にある優劣を重視し、人種交配によってこそ文明が進歩する」
「インド系やユーラシア系とアジア系、そしてヨーロッパ人とアジア人種を交配させるべきだ」
「けれど、日本人だけは除外する」
まったく、大きなお世話であるが、側近にこんなことを平気で話す、レイシストを通り越してかなり得体の知れない人物であったが、なんと大統領に三選されるのだった。
この男は目の上のたんこぶ日本に戦争を仕掛け、叩きのめしたくてうずうずしていた。
これにまんまと乗せられたのが、軍部と一体となった当時の日本政府なのだから、こちらも決して上等とは云えない判断力だった。
国のトップ、組織のトップがいつも正常であり、優秀であるとは限らない。
正常な判断力を失った日米両政府に翻弄され、そしてその過酷な運命を克服し世に多大なる功績を残した人が坂西志保だった。
聡明で毅然とした彼女こそ国境を越えた才媛と呼ぶに相応しい。
坂西志保に興味を抱き調べてみると、誰もが不思議なことに突き当たるのではないだろうか。
彼女の経歴で明治29年(1896年)12月6日、東京神田生まれと記しているメデアがとても多いのだが、これでは辻褄が合わない。
なぜなら、志保の両親である坂西傳明夫妻が北海道後志国忍路(おしょろ)郡塩谷村(現小樽市塩谷)の開拓地に入植したのは、明治26年で彼女が生まれる3年も前のことであった。
しかも、父である伝明氏は北海道へ渡る以前は横浜の外国人居留地で警察官をしていたのだから、一家が東京に住居を構えていた形跡などもまったく見当たらない。
今でこそ交通網が発達し、横浜・東京間は目と鼻の先、通勤圏であるが、明治期に都内に居を構え横浜に勤務するなど、とても考えられないことである。
実弟や友人たちによって編集された志保亡き後の追悼集には、彼女が当時の塩谷村で生まれたことが明記され、父の入植時期に触れられた書物も残っている。
なのに東京生まれと流布されているとは、その生誕からしてミステリアスだ。
母校の 捜真女学校がホームページで発表している、彼女の略歴を見てみよう。
【略 歴】
1896年(明29)小樽市生れ
1918年(大7) 捜真女学校英文専科卒業・東京女子大学入学
1921年(大10)~1922(大正11) 関東学院英語教師
1922年(大11) 米国マサチューセッツ州ノートンにある女子大学イートン・カレッジ入学
1925年(大14) 同大学卒業学士号取得
ミシガン大学大学院入学
1926年(昭元) 同大学英語科修士号取得
1929年(昭4) 同大学Ph.D(博士号)取得
ヴァージニア州ホリンズ・カレッジ助教授就任
1930年(昭5) 米国議会図書館中國文献部門助手として就職 日本語資料整理担当
1938年(昭13) 同図書館オリエンタル部日本課課長就任
1942年(昭17) 日米開戦後、収容所に抑留される。その後交換船で強制帰国
1942年(昭17) 外務省嘱託 米国の国状について解説、分析を行う
1976年(昭51) 逝去
ご覧の通り母校の捜真学院・捜真中高女学校では、小樽出身と明記されている。
だが、ネットで引用されることの多いWikipediaに、坂西志保、東京神田区で生まれると書き込んだ人がいる。
これを鵜呑みにしたメデアによって、坂西志保・東京生まれ説が跋扈していると思われる。
戦時中から坂西自身が経歴書で東京出身を通していたのだが、Wikipediaに書き込んだ人やメデアが確認作業を怠っていたのだろうと推測できる。
そうして、ここで最も重要な疑問に行きつくことになる。
なぜ彼女は東京出身で通したのか。
自己の経歴を飾るため小樽を捨て東京を選ぶなど、坂西志保に限っては100%あり得なことだ。
その陰に見え隠れするものは、戦時中の剣呑な空気と狂気めく特別高等警察・いわゆる特高の存在である。
経歴で分かる通り坂西は米国の大学で博士号を取得し、アメリカ議会図書館日本課長に抜擢されるほど、異国においても優秀さを認められていた。
しかし、運命とはなんと皮肉で理不尽なものだろうか。
後にその優秀さゆえに警戒され、まったく身に覚えのないスパイ容疑をかけられ、日本へ強制送還されるのだからたまらない。
当時のアメリカ諜報機関トップから「好ましからざる人物」と名指しされた彼女は、在米日本人女性としては唯一人拘束・収容され、1942年(昭和17年)6月に米国を出港した日米交換船で強制的な帰国を余儀なくされたのだった。
帰国後、坂西は留学以来つぶさにその目で見てきたアメリカと、母国日本の国力の違いを再認識する。
太平洋の向こうから見るよりもその差は大きく、愕然とするほどだった。
日本の将来を憂い、折に触れ国力の差を訴え戦争からの早期撤退を願ったのであるが、血迷った軍部がこれを快く思うはずもなく、彼女は四六時中特高に尾行されることになってしまう。
一時は命の危険を感じるほど、執拗なものだったという。
アメリカからスパイ容疑で追放された坂西であるが、今度は母国にあって親米スパイの危険分子と見做されたのだからたまったものではない。
何という不条理、何という理不尽であろう。
しかし、それが戦争と言うものなのだろう。
私は特高や憲兵を知らないが冷静さを欠き、ただただ戦争への道を狂信的に突っ走る彼らは、尋常ならざる組織であっただろうことは想像できる。
身辺を付け狙われる坂西志保であったが、当時父親や家族は塩谷に住んでいたのだから、家族に危険が及ばぬよう東京出身と偽ったとしても全く不思議ではない。
この頃の志保は家族について、友人、知人に対しても固く口を閉ざし、一切語ることはなかったと伝えられている。
狂気の特高から家族を守るため自らの経歴に『東京生まれ』と書いた可能性は高く、すぐれた危機管理と言えるだろう。
やがて坂西が危惧した通り、圧倒的な国力の差を見せつけられ、日本敗戦で戦争は終結する。
そして、戦時中には日米両国からスパイ嫌疑をかけられ、危険人物として徹底的にマークされる存在であったが、終戦後はその評価が一変した。
双方の国から才能を高く評価され、重用されるのだから坂西志保の人生は痛快なほど大逆転するのだった。
真っ先に坂西の実力を認めたのは、当時の日本を占領したJHQである。
敗戦国日本にアメリカ的民主主義を根付かせ、軍部や財閥を解体すべく任務を負ったGHQは坂西志保を職員として採用した。
彼女は理知と博識に裏打ちされた能力を存分に発揮し、やがては治安維持法の改定に関わる仕事を任せられるまでに信頼を勝ち得るのだった。
治安維持法は昭和27年に制定された破防法によってその意図を引き継がれる、いわば共産主義者による暴力革命阻止を念頭において制定された法律だ。
アメリカは経済面おいても軍事的にも目の上のたんこぶだった日本とドイツを敗戦に追い込み、大戦後の警戒しべき対象は旧ソビエト連邦を中心とした共産主義に移っていた。
その共産主義を警戒した法律の見直しを、かつてアメリカ本国でスパイ扱いされた坂西に任せたのであるから、これは実にスリリングであり、強固な信頼の証とも取れるだろう。
このことからJHQ及びアメリカは坂西が日本へ帰国したのちの冷静な言動を見極め、スパイ容疑を完全に払拭していたと推察できる。
真珠湾攻撃の直前あたりから日本に対するアメリカの警戒心は異常に高まり、しかるべき地位にあった米国内の日本人は誰彼となくFBIに連行された。
坂西へのいわれなき仕打ちも、アメリカのパニックによる所業だったのです。
スパイ容疑など、まさに濡れ衣以外の何物でもなかった。
頭脳明晰で沈着な坂西志保はアメリカ在住のころから日米国力の差を認識し、スパイどころかむしろ、戦争忌避をそれとなく在米日本政府関係者に訴えていた形跡がある。
しかし、いつの時代も狂信的な声の前では冷静な声は無力なのだ。
思考力が低下した者をトップに戴く組織の人間に、正常な判断を望むのはやはり困難だった。
当時、彼女ほどアメリカに精通した日本女性はいなかっただろう。
いや、男女を超えて最もアメリカを知る日本人の一人だったことは疑うべきもない。
だが坂西志保の憂いも忠告にも、外務省など日本政府関係者が耳を貸すことはなく、むしろ親米の危険分子としてマークされる事態を招くことになってしまうのだった。
こうして、坂西はまたもスパイの濡れ衣を着ることになり、アメリカでは強制収容、母国日本では特高に四六時中張り付かれる存在になる。
戦争が終結を見たことによりアメリカを主体としたJHQには至極まっとうな判断力が戻り、優秀で日米両国の政治、法律、文化、民族像に精通した坂西を三顧の礼を持って迎えるに至ったのだ。
彼女は次のような名言を残している。
『事実から離れた知識というものはあり得ない』
坂西志保と伊藤整の接点は伍助沢分教所
立法、行政、教育と多岐にわたり活躍し、晩年は憲法調査会委員、国家公安委員も務めた坂西志保であるが、鉄のように固く冷徹な女性だったかと言うとそうではない。
彼女はヒューマニズムに立脚した評論活動に後半生の軸を置き、著書は多彩な分野に及んでいる。
若いころから文学に親しみ、歌集の翻訳本を出版するほどの才能も発揮した。
1934年(昭和9年)には石川啄木の「一握の砂」、翌1935年(昭和10年)には、何と与謝野晶子の「みだれ髪」を英訳し出版している。
あまり知られていないが、坂西の英訳は当時の文学関係者から絶賛されたようだ。
ちなみに「一握の砂」は「A Handfel of Sand」、「みだれ髪」は「Tangled Hair」の表題となっている。
塩谷、伍助沢、文学とくれば伊藤整を連想する人も多いのではないだろうか。
坂西志保と伊藤整は塩谷村立塩谷尋常小学校伍助沢分教場において接点があった。
忍路群塩谷村に開拓民として入植したのが志保の父・坂西傳明であるが、当局から割り当てられた土地は小高い山と山に挟まれた伍助沢だった。
その農地の近にあった伍助沢分教場では伊藤整の父・昌整が4年間教鞭をとっている。
志保はその4年間、整の父に学んだのだった。
生徒数総勢30人ほどの小さな分教場であったから、教室は一つ、教師一人、校舎と教員住宅は棟続きだったと思われる。
「そこは山の中の分教場であった。
廊下を間において、向うには、大きな一室だけの教室があった。
そこで授業している父の声が、廊下のこちら側の、住居まで聞こえて来る」
これは、伊藤整が著した小説の一節だ。
幼い整と小学生の志保が分教場の廊下や校庭で遭遇していた可能性は、極めて高いのだ。
伊藤整の自伝的小説にはまた、次のような一節がある。
「耶蘇になってアメリカさ渡っているってこった。
これは大した学者で、大学の先生になってる風だね」
当時の塩谷村ではかなり稀で目立だったであろう、キリスト教徒一家に育った坂西志保のことを書いていることは明らかだ。
伊藤整が旧制小樽中学(現・潮陵高等学校)から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に在籍していたころには、アメリカへ渡った9歳年上の志保のことが、小樽ではかなり評判になっていたことをうかがわせる一文だ。
さらに、生き方や目指す方向は違っていても、難関、未知の文学界へ挑戦する整にとって、海の向こうの新天地で活躍する同郷の志保は、やはり心惹かれる大きな存在であったに違いない。
志保が学び、整が幼少時代の記憶を刻んだ、塩谷村立塩谷尋常小学校伍助沢分教場跡が近くにあると地元の人から聞き、尋ねたのは一昨年の8月終わりだった。
標柱が建っているのですぐに分かると言われ、道道小樽環状線沿いを歩いたがなかなか見つからなかった。
4軒目の玄関をノックしてようやく、
「目の前、道路の向かいだよ」
しかし、高速道路の橋げた周辺を探しても標識は見つからない。
諦めてそろそろ帰ろうかと思い環状線沿いに戻り、草むらを見ると深々と埋もれて『分教場』の文字が見えた。
老朽化して倒れてしまったのだろうか、『伊藤整・坂西志保ゆかり』と書かれた部分はかなりししゃげていて、ようやく読むことができた。
歪みを少しでも直そうと試みたが、見た目よりもずっと重く、固いのでとても手に負えない。
誰かの目につくようにガードレールに斜めに立てかけて後にした。
つい先日、小樽市のホームページを覗いたら、地元の伊藤整研究家、竹田保弘さんの手で建て直されたとのことだった。
標は道道環状線を塩谷駅から小樽市街方面に3kmあまり歩い道端に建っている。
坂口志保とロックフェラー財団
太平洋戦争が終わり日本が敗戦からの復興途上にあった1950年代、ロックフェラー財団は日本人作家を対象にクリエィティブ・フェローシップを実施し、海外の諸事情、特に米国で学ぶ機会を提供してくれた。
日本人創作家派遣プログラムと銘打たれた制度はロックフェラー財団の文化部長で、基金の授与を担当していたチャールズ・B・ファー博士が来日して創設された。
京都大学で学び日本語が堪能だった博士が派遣者の推薦人役として、白羽の矢を立てたのは坂西志保だった。
ロックフェラー財団から正式に依頼された坂西志保が候補者を選び、最後にファーズ博士が面接して派遣者を決めていた。
驚くべきは、候補者の選定並びに推薦は坂西一人に委嘱されていることだった。
如何に彼女が信頼されていたか、これ以上の証はないだろう。
日本人創作家派遣プログラムは実に自由なもので、期間は一年間ないし数か月間アメリカ合衆国に滞在するのが望ましいとされたが、特に期間は強制されるものではなかった。
ヨーロッパや南米に行きたければ行っても良し、しかし報告その他は一切要求されず、費用は当然ながらすべて財団が負担する。
第一回は福田恆存と大岡昇平が選ばれているが、後の1959年に推薦した有吉佐和子に対して、志保は次のような心構えを伝授した。
「NO BODYになることが大切よ」
英語が堪能でない筆者には難しい言葉であるが、
「日本を離れて広い太平洋を渡ったら、あなたなんか何者でもないのよ」
そう聞こえてならない。
さて、有吉佐和子さんにはどう聞こえたのだろうか。
1年間に及んだアメリカでの生活は有吉にとって驚きの連続であり、かつ新鮮なものであったようだ。
特に多種多様な人種が存在するアメリカの現実は、その後の作家人生に大きな影響を与えた。
当時の日本では想像すらできなかった人種間の葛藤や交流について、彼女は小説「非色」に描いている。
幼くして母を失いながらも、強い向学心を抱く志保は上京し自活しながら勉学に励むのだが、今ほど簡単にアルバイトが見つかるわけでもなかった当時の苦労は察して余りある。
20代半ばには狭い日本に飽き足らず単身渡米するのだから、その行動力と意志の強さにはただただ敬服するしかない。
大正時代の留学生なんて大抵は名家や金持ちのボンボンか、あるいは国費で派遣された者ばかりと相場は決まっていた。
決して裕福とは言えない開拓民の女子が私費で留学のため単独渡米するなど、一般的にはとてもとても考えられない時代であったから、坂西志保に内在した志の高さ、意志の強さが分かろうと言うものだ。
最初の章で述べたように坂西志保が東京生まれの経歴で通したのは、塩谷村の開拓地に住む家族に特高の危害が及ばぬようにとの配慮からだった思われる。
ならばなぜ、戦争が終結し世情が落ち着きを取り戻したのに小樽・塩谷出身と訂正しなかったのか、その疑問は残る。
自力で学び、そして日米両国から不条理極まりない仕打ちを受けながらも自ら道を切り拓き、たゆまず歩み続けた志保は国籍、人種などの分け隔てを克服し、導き出された哲学がNOBODYだったのではないだろうか。
志保が唱えたNobody哲学は国境、国籍、人種、民族を超えた俯瞰にこそ神髄があったのではないだろうか。
したがって出生の地など取るに足らないことで、小樽であろうが東京であろうが、彼女にとっては意識の外であったのだろう。
戦後の落ち着きを取り戻した社会にあっても、あえて出身地を訂正するべき理由など、思いもよらなかったに違いない。
果たして、自身が育った開拓地の山川に彼女がどれほどの望郷を抱いたか、今となっては知る由もないのだが。
国境、国籍、民族などの壁が今とは比較にならないほど高かった時代に、その高きに敢然と挑戦し軽々と超えた坂西氏志保が追求したNobody。
翻って、外国旅行、海外留学などの垣根があらゆる意味において低くなった昨今は、若者を中心にIdentityを模索し口にする人が増えている。
これが時の流れ、時代の趨勢と言うものだろうか。
しかし、Nobodyを極めたであろう彼女も自身の父が若かりし頃、警察官だったことは生涯忘れられなかったようだ。
そのことを大いなる誇りと思っていたのではないだろうか。
生前は自ら殉職警察官遺児育英基金の理事長を務め、基金に対して遺言により1000万円が遺産の中から寄付されている。
一切の過去、地縁、血縁を捨てて横浜から新天地を求め北海道の開拓村へ、はるばる津軽海峡を越えた父・傳明。
その開拓村からさらなる新天地を求め一切の束縛、こだわり、未練を絶って、ついには太平洋を渡った志保。
やはり親子である、Nobodyの血は脈々と受け継がれている。
遺言は他にもあって、愛読した5000冊余りの蔵書が寄贈されたのは大磯図書館で坂西文庫と命名され、また国際文化会館には5000万円と自宅が寄贈されている。
数々の因習、常識、国境などの障壁を飛び越えて生涯を全うした坂西には、今まさに住んでいるところが故郷だったに違いない。
猫好きだった志保は愛猫タローに看取られ、1976(昭和51)年1月14日、長年住み慣れた神奈川県大磯市の自宅で、79歳の生涯を閉じたのだった。