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三遊亭円楽が不倫会見で示した落語家としての真骨頂。ユートピアを追った日々とは?

波乱の人生

六代目・三遊亭円楽さんが2020年(令和4年)9月30日にお亡くなりになりました。

1950年2月8日生まれの72歳でしたから、まだまだ若い。

惜しい方を失いましたね。

 

『腹黒」が売りだった6代目三遊亭円楽さんですが、この方、実は調べれば調べるほど腹黒とは逆に人情味たっぷりの落語家さんでした。

 

彼が落語界に残した功績は多大です。

円楽師匠が落語家になったユニークな経緯や、腹黒になった理由、落語界への貢献などを見ていきます。

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三遊亭円楽はユートピアに疲れて落語家に転身した?

東京都・墨田区の出身で本当に下町の人情親父を絵に描いたような人だったのです。

本名を會泰通(あい やすみち)さんと言います。

かなり珍しい名前です。

 

珍しくて変わっているのは、名前だけではありません。

三遊亭円楽さんが落語家になったきっかけもこれまた、とてもユニークでした。

 

彼は青山学院大学在学中に先代である、5代目三遊亭円楽さんに弟子入りするのですが、落語家を目指した理由にビックリ仰天です。

 

6代目三遊亭円楽さんは、学生運動にのめり込んでいた時期がありました。

警察官だった父親に反発して学生運動の闘士になったと言われています。

左翼系の団体に所属し、来る日も来る日も『ユートピア』を求めて『体制打倒』を叫んでいたのです。

 

だが、ある日ふと虚しさを覚えるのです。

「ユートピアなんてどこにあるんだ?」

そんな疑問がわき、一挙に疲れを感じてしまったのです。

 

そして、彼は遠ざかっていた好きな落語を改めて聞き直します。

すると、ユートピアを追いかけ疲れ果てていた彼の顔に一瞬にして生気が戻ったのです。

 

「これだ。ユートピアは落語の中にあった」

6代目円楽さんの表情には、うれしさのあまり輝きが満ち満ちてきました。

 

こうして彼は落語家になる決意を固めたのです。

タイミングよく5代目三遊亭円楽師匠から声がかかり、躊躇することなく弟子入りを決めたのです。

 

学生運動の闘士から落語家になるなんて、あまり聞いたことがありません。

「落語の中にユートピアがある」なんて、とてもロマンチックであり哲学的です。

 

落語の中にユートピアを見つけることが出来て、本当に良かったと思います。

円楽さんと同世代の左翼学生には、本当にひどいのがいました。

 

連合赤軍のような過激派は仲間内で殺戮を繰り返す残忍さだったし、学内で暴力を振るう左翼はごく当たり前にいましたね。

 

表沙汰になったのはす少ないけれど、女子学生への性犯罪も卑劣を極めました。

学生運動の同士やシンパの女子大生を集団で襲うのですから、まさに地獄のの沙汰。

彼らにとっては、暴力がユートピアだったのかと聞きたいくらいです。

 

そんな集団から抜け出して、大正解でした。

円楽さんにとっては、落語サマサマです。

 

そんな円楽さんが笑点と落語界に残した功績は、とても大きいものがあります。

ただの腹黒親父ではなかったことを確認しておきましょう。

笑点と落語界へ残した三遊亭円楽の功績は多大だ!

6代目三遊亭円楽さんと言えば『笑点』です

彼が笑点に残した功績は計り知れません。

 

笑点は、ご存じのように日テレの看板番組であり、演芸番組及びバラエティ番組としてはテレビ史上、最長の放送期間を誇ります。

 

1966年に始まった『笑点』は2022年で56年目を迎えました。

6代目三遊亭円楽さんは1977年から出演していますので、なんと45年間も笑点で活躍してきたのです。

 

56年のうち45年間も出演し続けたのですから、まさしく『笑点の顔』でした。

6代目三遊亭円楽さんは、前座から二つ目に昇進したばかりの、27歳の若さで笑点のレギュラーに抜擢されます。

 

当時は三遊亭楽太郎さんと名乗っていました。

しかし、その翌年に落語界を揺るがす大事件が勃発します。

真打昇進をめぐり、落語協会の執行部と大物落語家が激しく対立したのです。

 

それにより、楽太郎さんが所属する三遊亭円生一門が落語協会から、脱退する事態に直面しました。

同期で仲の良かった春風亭小朝さん、立川ぜん馬さんら落語協会の仲間とは離れ離れになり寄席への出演も出来なくなってしまったのです。

 

その後、落語協会はさらに分裂を繰り返します。

現在、東に落語協会、落語芸術協会、五代目円楽一門会、立川流の4つが乱立しています。

そして西には上方落語協会と計5つに分れているのです。

 

月日は流れ楽太郎さんは6代目三遊亭円楽を襲名します。

彼の精進と落語への情熱が周囲を動かしたのです。

2017年には落語芸術協会の客員となり、念願の『寄席』へ出演できるようになりました。

 

今では三遊亭円楽一門に加え、立川流の落語家まで寄席に出演できるようになるなど、雪解けはかなり進んでいます。

 

若き日に落語界分裂の悲しい経験をした三遊亭円楽さんは

「東も西も、落語界が一つになったらいい」

と心から願っていました。

 

彼は、その強い思いを実行に移します。

自らプロデュースし、2007年から毎年秋に開く『博多・天神落語まつり』がそれです。

 

乱立する5つの団体から、重鎮、ベテラン、実力派、爆笑派、新鮮な若手などに自ら声をかけて、年に一度の『落語界オールスター戦』を実現さたから、スゴイ。

 

これは、なかなかできることではありません。

自分を殺して、清濁合わせ飲む度量がなければ実現できないことです。

落語家やファンを思う気持ちが強かったからできたのでしょう。

 

そして、若手にもできる限りチャンスを与えたいとの願いも、彼の原動力となったのです。

このように三遊亭円楽さんが落語界に残した最も大きな功績は落語界統一に道筋を付けたことではないでしょうか。

 

けれども、彼は夢の半ばで逝ってしまいました。誰か三遊亭円楽さんの遺志を継ぐ落語家が出てくることを祈らずにはいられません。

彼の落語にそそぐ情熱と人生の歩みを見たら、決して腹黒ではなかったことがよくわかります。

 

それどころか、落語も世間も女も、心底愛したナイスガイでした。

一時は、笑点で座布団配りをする山田隆夫さんとの不仲説を週刊誌に書かれた事があります。

 

だが、その山田隆夫さんは三遊亭円楽さんが病気で倒れた時や亡くなった時にはテレビカメラの前で何度も涙をぬぐっていました。

この事実一つとってみても、三遊亭円楽さんんの人柄がしのばれようというものです。

三遊亭円楽が腹黒になった理由と不倫会見で見せた真骨頂!

では、彼はどうして『腹黒』で売ってきたのでしょうか?

それは自己プロデュースのためだったのです。

陰には師匠である5代目円楽さんと桂歌丸さの助言もありました。

 

笑点に出始めたころ、彼は自分はどんなキャラで行くべきか悩んだそうです。

それを知った師匠が言います。

「善人キャラは誰にでもできるし、飽きられます。だが、腹黒は続けるほど味が出てくるものです」

 

もう一人の師匠と彼が慕う、桂歌丸さんも「それがいい」と賛成し、路線が決まります。

そして、それを半世紀にもわたって演じ続けた彼はまさしく、プロ中のプロと言えるでしょう。

 

さて、その『腹黒』キャラの三遊亭円楽さんも不倫騒動で窮地に追い込まれたことがあります。

2016年6月『フライデー』に40代女性とラブホテルに入る姿を撮られたのです。

 

報道を受け彼はすぐに記者会見を開きます。背広にネクタイ姿で記者の前に現れ女性とは『浮気』だったと認め謝罪します。

女性とは報道の2年半前にゴルフを通じて知り合っのだと言っていました。

 

その後、落語会にも来るようになり、1年前から付き合い始め、週に1,2度回デートする関係だったようです。

 

「頭もいいし、かわいい。男ですから口説きました」

「落語の世界に入った時は、芸人は女性にもてなくちゃいけないという風潮だったが、時代錯誤だったな、と深く反省しています」

そのように殊勝に述べていました。

 

そして、奥さんにもきちんと話して詫びたことを明かしています。

彼が真骨頂を見せたのはその後でした。

落語家らしく謎かけで会見を締めます。

 

「今回の騒動とかけまして、東京湾を出て行く船と解きます。その心は航海の真っ最中」

続けて「天保銭(江戸時代の小銭)と解く。今は通用しません」の2連発でした。

 

後悔と後悔をかけ、江戸時代は価値があった小銭も今では使えないから、自分の考えは古くて通用しないと解いたのです。

これには記者たちも思わず笑ってしまうのでした。

 

不倫相手の女性を庇い、できるだけ傷つけないよう奥さんへの配慮も感じられる会見だったのです。

彼は頭の良い方でしたね。

 

不倫の会見をほめるのも変な話ですが、お詫び会見でさらに炎上してしまう芸能人が多い中で、秀逸な対応だったと言えるでしょう。

 

普段、芸能人の不倫に対してはことさらに手厳しい報道陣から笑いが起こるのですから、大したものです。

今では、芸能記者から「神対応の記者会見」と絶賛されています。

 

一度は高座へ復活を果たした三遊亭円楽さんですが訃報が突然、飛び込んできました。

一報を聞き、多くの関係者やファンが言葉を失ってしまいます。

 

あまりにも突然で、各界に惜しまれる死の真相は、何だったのか?

三遊亭円楽さんの晩年は病との戦いでした。

2018年に初期の肺がんを患います。

 

その翌年には、脳腫瘍で入院しました。

リハビリを経て、ようやく念願の笑点へ戻て来たのですが、今年1月には脳梗塞でまたまた入院を余儀なくされてしまうのです。

 

その後またリハビリを重ね、この夏に高座へ復帰したばかりでした。

 

「こんな体になって、みっともないけど、死ぬまでやれと言われているから、おいら死ぬまでやるんだ」

そう言いながら、顔をゆがめて高座を務めたのです。

 

見ていて正直、痛々しかったですね。

でも、あの執念を見て、彼ならきっと病魔を克服して近いうちに戻ってくるだろう、とかすかな期待を抱かせてくれたのも事実です。

 

だが、そんな望みも虚しく9月26日に息苦しさを感じ検査を受けたところ肺炎であることが判明し、急遽入院します。

体調は戻らず帰らぬ人となりました。死因は肺がんでした。

 

三遊亭円楽さんは旅立ちました。

しかし、彼が落語界に残した功績と伝説は生き続けます。

合掌

 

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