明石家さんまには実の母親の記憶は、ほぼありません。
だが3歳の時、犬にかまれた記憶は今も鮮明です。
病院で細い腕を二針縫うほどの怪我でした。
その日は、なんと亡き実母の葬式の日だったのです。
母とつながる思い出はこれだけしかありません。
だから彼は言います。
「お母さんのことを忘れるなよと、
犬はわざわざ葬式の日に噛みよったんや」
いかにもポジティブな明石家さんまらしい発言です。
だが、幼くして実の母を亡くした明石家さんまさんは決してポジティブな子ども時代を過ごしたわけではありません。
明石家さんまの面白さは子ども時代の家庭環境による?
明石家さんまさんは1955年7月1日和歌山県で生まれました。
令和4年の12月現在、67歳です。
本名は杉本高文(たかふみ)といいます。
生まれて間もなく、一家は奈良県に移住し
父は水産加工業を始めました。
彼には兄が1人いて母亡き後は、しばらく男3人の生活が続いたのです。
その後、さんまが小学4年生の時にお父さんが再婚します。
彼に待望の新しいお母さんができ、連れ子がいたので年の離れた弟もできました。
さんまは大喜びし、実の弟のようにかわいがったのです。
だが、継母は自分の連れ子だけをかわいがり、父は兄だけに目をかけます。
さんまは、そんな継母に気に入ってもらおうと小学生ながら、必死に面白いことを話します。
それでも新しいお母さんの態度は全く変わりません。
幼い義理の弟がなついてくれることだけが、さんまのせめてもの救いでした。
しかし、それもつかの間、彼は大きなショックに見舞われるのでした。
ハンマーで頭を思いっきり殴られるような衝撃が彼を襲います。
隣の部屋で酒に酔った継母がわめくのを聞いてしまったのです。
「うちの子はこの子だけや……」。
自分の連れ子以外は子どもではないと言っているのは、子ども心にも分りました。
兄と二人、二段ベッドで泣き崩れたのです。
これが原因で、さんまは酒を飲む女の人が苦手になってしまいます。
しかし人間、何が幸いするかわかりません。
そんな家庭環境で育った彼は周囲の者から好かれよう、少しでも関心をもってもらおうと人を笑わせることに一生懸命になるのでした。
親戚の人に会えば笑わせることばかり考えていました。学校でも同じです。
友達に笑ってもらおうとサービス精神はつねにモード全開でした。
さんまが自信をつけたギャグとは?

さんまが小学校4年生の3学期になったころです。
当時、大相撲には無敵の横綱・大鵬がいました。
人気も抜群で子どもが好きなものとして『巨人、大鵬、卵焼き』の言葉が生まれたほどです。
45連勝中の大鵬をネタに、彼はクラスメートを前に渾身のギャグを放ちます。
「大鵬とかけてお前のパンツと解く」
「その心は、いつヤブレルか気になる」
これが大うけします。
学校中に知れ渡り、彼は一躍人気者となるのです。
うれしかったのは当然ですが、このギャグが大うけしたことによって彼は大いに自信をつけたのでした。
さんまの笑いの原点は小学生時代にあったのです。
だが、自信をつけただけにとどまらず、どんどん調子に乗っていくのは、如何にもさんまらしいところです。
小学校の高学年となった彼の行動はエスカレートします。
勉強とは関係のないことをしゃべりまくり授業を中断させてしまうのは、日常茶飯事でした。
挙句は、授業中にもかかわらず他のクラスまで行ってしゃべりまくり、学校で何度も問題になります。
しかし、問題児にはなったけれど、男女を問わず学校中の人気者にもなっていきました。
中学校に進学しても問題児の行為は改まることはありません。
いや、むしろ小学生の頃より過激になっていきます。
運動会の徒競走ではなんと、反対周りに走ってしまうのです。
これには先生も父兄も口あんぐりでした。
数人の先生が逆走するさんま少年を捕まえようと必死で追いかけます。
大勢の父兄を目の前にして、グラウンドでは大捕り物が勃発したのです。
もしかしたら、余興が始まったのかなと思い、十分楽しんだ観客がいたかもしれませんね。
さて、人を笑わせること、騒がせることにしっかり目覚めた明石家まさんは、高校卒業を間近にして、落語家の笑福亭松之助さんに弟子入りします。
この人との出会いが明石家さんまの将来を決定づけたと言えるでしょう。
弟子入りに関しても面白いエピソードが残っています。
笑福亭松之助はさんまに自分へ弟子入りしようと思った理由をたずねます。
「あんたはセンスがあるさかい」
タメ口でさんまは答えました。
師匠は「おおきに」と返答し、座敷へ招き入れます。
普通ではとても考えられませんね。
これから弟子入りしようとする若造が師匠に向かって「あんた」呼ばわりですから。
笑福亭松之助は何事もひょうひょうと柳に風と受け流す、心の広い人だったのでしょう。
そして、さんま少年の笑いの才能を誰よりもしっかりと見抜いていたのです。
それは、後のさんまの我儘極まりない行動に対して見せた師匠の態度にもよく表れています。
弟子入りを果たしたさんまは半年も経たないうちに『笑福亭さんま』の芸名で初舞台に立ちました。
『さんま』の芸名は実家が、水産加工業をやっていたことにちなんでいます。
後に吉本で同期になった紳助は、この芸名の由来を聞き「これは絶対売れへん」と大爆笑しました。
「魚屋のおっさんが驚いた『ギョ!』」みたいな軽いノリで付けられた芸名ですから、紳助が売れないと言って爆笑するのも分かりますね。
ちなみにこの『ギョ!』は昭和40年代の終わりに流行ったギャグです。
明石家さんまの二人の恩人とは?
さて、明石家さんまはこんなよい師匠に恵まれたのに落ち着きません。
女性と駆け落ち同然で、一旗揚げようと東京に逃げ出します。
パチンコで生計を立てるようなろくでもない暮らしをしてチャンスを待ちますが行き詰まって関西に戻ります。
これを機に同棲していた女性とも縁が切れました。
関西に戻ったさんまは借りていた本を返却すると理由をこじつけて笑福亭松之助師匠宅を訪れます。
師匠は何も言わず玄関にたたずむさんまを「早よう入れ」と座敷へあげたのでした。
家族同然の弟子が一度は勝手に家出をしてしまったのです。
大目玉どころか、破門を言い渡されても文句を言えません。
笑福亭松之助師匠は、本当にやさしくて素晴らしい方だったのです。
そして、先ほども述べましたが、さんまさんの才能をきっちり見抜いていたことも確かでしょう。
こうして、弟子として復帰を許されますが、いくら何でも前と同じ名前では、世間体も悪かろうと師匠は新たな芸名を用意しました。
それが『明石家さんま』だったのです。
『笑福亭』から『明石家』に変わっただけで、「さんま」はそのまんまでした。
復帰してしばらくするとさんまは上方落語界随一の人気者、桂三枝さんの目に留まります。
三枝さんは寄席や劇場は勿論のこと、テレビ局にまで明石家さんまを連れていき紹介してくれました。
自分の冠番組にも出演させます。
こうして、関西で売れ出したさんまは東京のキー局でも出演のチャンスをつかむのです。
そしてついに『オレたちひょうきん族』で大ブレークを果たします。
ここから先の大活躍は皆さんがご存じのとおりです。
明石家さんまの半生は二人の人物との出会い抜きで語ることはできません。
笑福亭松之助と現在は桂文枝を襲名している若き桂三枝です。
この出会いは、たたき上げの芸能人が売れていく過程でよく見られます。
先輩、またはプロデューサーなどにその才能を見込まれ本人がその期待に応えるというパターンです。
ただ見込まれただけでは売れません。
本人の努力と研さんがなければうまくいかないのが芸の世界です。
中には、才能や実力は2番手、3番手だが人柄や礼儀正しさを見込まれて引き上げられる芸能人も多くいます。
さんまの「生きてるだけで丸儲け」主義の理由に運命を感じる!
さて、明石家さんまには『これは運命』としか言いようのない経験があるのです。
1985年(昭和60年)8月12日のことでした。
彼は『MBSヤングタウン』出演のため、羽田から伊丹行きの日本航空123便を予約します。
だが、『ひょうきん族』の収録が予定より機早く終わり、一便早い全日空機に搭乗しました。
本来さんまが乗るはずだった日本航空123便こそ御巣鷹山に墜落した飛行機です。
この経験からさんまの座右の銘は「生きてるだけで丸儲け」になりました。
そして大竹しのぶとの間に生まれた愛娘に『いまる』と名づけたのです。
明石家さんまは、それにしてもよくしゃべります。
だから失言も多くなります。
共演した美人女優に「オバン」と言って彼女のファンから総スカンを食らうことなど当たり前に起きるのです。
ですから、共演NGも多くなります。
一方でファンサービスがまた半端ではありません。
握手やサインに気軽に応じることでも有名です。
また後輩芸人や他のタレントの面倒見が良いことでもよく知られています。
明石家さんまに救われたことを嬉しそうに、時には自慢気に話す後輩芸能人はたくさんいます。
にぎやかで、いつも笑顔を絶やさない、さんまですがその裏には、やはり壮絶な過去がありました。
「生きてるだけで丸儲け」
こんな心境になれたら、結構、気楽な人生を送れるかもしれません。
人によっては薄っぺらくさえ見えてしまうさんまですが、その境地は案外深いのかも知れませんね。