残念ながら多くの日本人は、司馬遼太郎の歴史観に騙されています。
『竜馬がゆく』に書かれた坂本龍馬像は明らかな創作です。
討幕運動に命を懸けた明治維新の立役者として描かれていますが、彼にそんな力はありません。
彼は土佐藩の脱藩者ですよ。

徳川時代の脱藩者と言えば、藩の追手から命を狙われる存在です。
それが、NHKの大河ドラマなる娯楽番組では、当時土佐藩で帳簿を担当していた岩崎弥太郎が藩主の命を受けて龍馬に大金を届ける場面が出てくるから、これは実に不思議。
しかも、その岩崎弥太郎は京都に到着したのだが、なんと龍馬と会う前に祇園へ繰り出します。
芸者を揚げて大騒ぎし、殿様からはずかった金を使い果たしてしまうというお粗末ぶり。
そして、切腹を試みるが果たせず、しょんぼりと国へ帰ります。
いやー、このお殿様は実に太っ腹です。
将来ある優秀な弥太郎を「間違いは誰にでもある。これを教訓に二度と同じ過ちを起こすな」といさめて、再度龍馬へのキンスを持たせるのです。
命を追われるべき脱藩者に藩主が金を届けるなんて、幕府に知れたら殿様は切腹でお家断絶は免れないところ。
NHKに受診料を払うのがあほらしくなるウソッパチの描写です。
まあ、テレビドラマなんてこのレベルなんでしょうけど。
でも龍馬研究の成果でしょうか、近年の教科書では維新に活躍した大勢の一人程度に扱われています。
決して大げさな英雄扱いはしなくなりました。
ハッキリ言って、もともと幕末にウロチョロしていた程度の評価だったのが、司馬遼太郎が不世出の英雄に祭り上げ、龍馬ファンがその尻馬に乗って大騒ぎしただけではありますが。
それでも、薩長の間で何らかの周旋をしたという史実はあるようです。
薩摩藩から頼まれて「幕府が2回目の長州征伐の命令を出しても薩摩は動かない」という文書を長州藩に届けていることは事実と考えられます。
しかし、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に出てくる、彼が一喝したから桂小五郎と西郷隆盛がいきなり手を結んだなどは荒唐無稽すぎます。
薩長連合の成立には龍馬以外にも複数の人々が介在していたことは、古くから知られた事実です。
一番熱心だった仲介者は龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎だったと言われています。
だが、同盟締結の最大の立役者は、成否の決定権を島津久光より委譲されていた薩摩藩家老の小松帯刀であったことが歴史学者の間では明確な事実とされているのです。
『竜馬がゆく』では龍馬が発案、仲介して両者の軍事同盟のきっかけをつくったとされていますが、実際は違います。
長州藩出身の木戸孝允による回想録には「薩摩の名義で武器を買わせてくれと龍馬に言った」とあるけれど、龍馬は「わかった」と言ったきり、何の返事もないので木戸がいらいらして、見切り発車の形で伊藤博文と井上馨を長崎に送り込んだと書かれているのです。
伊藤博文と井上馨から木戸孝允へ宛てた報告書には薩摩と合意に至ったと書いてあるが、龍馬の名は一切出てこないそうです。

大政奉還と国家運営プランでとなったとされる龍馬の「船中八策」「新政府綱令」も、幕臣・大久保忠寛が最初に著しました。
龍馬は松平春嶽、佐久間象山、勝海舟などから教わったものであって、彼の創作ではありません。
龍馬と言えば、妻のお龍さんとの日本初の新婚旅行で霧島へ行ったことが有名です。
これも残念ながら、龍馬より10年も前に小松帯刀が新婚旅行に出ていて、龍馬は単に湯治に出かけただけだということまで判明しています。
龍馬についての真実は「亀山社中(海援隊)」の商業組織を作って運営したことです。
しかし、成果はありませんでした。
ただ実家が裕福だったとはいえ、下級武士の脱藩素浪人でありながら、幕末の著名人と面会して渡り歩いた行動力は評価できると言えるでしょう。
しかし、それでも脱藩者があれほど大っぴらに行動できたのも不思議な話です。
もう幕府の統治力はかなり弱まっていて、武家諸法度など有名無実だったということでしょうか。
当時の欧米人が書いた日記や手紙には、坂本竜馬と言う人物名は殆ど登場しません。
それに比べ、伊藤博文の活躍を書いた文章はかなり多く残っています。
龍馬の存在感や表現に関しては、いくら何でもオーバーすぎるのです。
彼に関しては、在米の日本人学者が「龍馬はグラバー商会の手下にすぎなかった」という趣旨の発言をしています。
つまり、龍馬は異人のパシリだっというのです。
それなら、いろんなことの辻褄が合います。
ところで薩長連合の立役者である、薩摩藩の小松帯刀は凄い男だった人だったようですね。
34歳で早世にしたことが惜しまれます。
司馬遼太郎氏自身も言ってました。
「俺は歴史小説家であって、歴史学者じゃない!」と。