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坂本冬美の歌手休業の理由が悲しすぎる!隠し子騒動は全くの嘘でたらめだった?

波乱の人生

坂本冬美は、色白の美人演歌歌手です。

この色白が名前の由来となります。

 

坂本冬美は1967年(昭和42年)3月30日和歌山県の上富田(かみとんだ)町で生まれました。

温暖な和歌山県では、3月と言えば季節は春です。

それなのに冬の名がついたのには、理由があります。

 

生まれた時から肌が雪のように真っ白だったので冬美と命名されたのです。

そして本名がそのまま芸名になりました。

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坂本冬美が芸能界引退を決意した理由は?

1987年のデビュー曲『あばれ太鼓』はレコード80万枚を売り上げる大ヒットを記録します。

この年は『第29回日本レコード大賞新人賞』をはじめ数々の新人賞を受賞し、坂本冬美は演歌界期待の星として順風満帆のスタートを切ったのです。

 

その後も『夜桜お七』『祝い酒』『まだ君に恋してる』などのヒット曲を次々にリリースし、人気演歌歌手の地位を不動のものにします。

 

しかし、歌手活動15周年を迎えた2002年3月のことでした。

坂本冬美は突然、歌手業を全面休業すると宣言します。

ファンは勿論のこと、歌謡界にも大きな衝撃が走ります。

 

それまで住んでいた自宅を恩師でもある作曲家、猪俣公章の奥さんへ売却するなど、早くから休業の準備をしていたようです。

 

彼女の歌手休業について、実のお父さんである坂本正夫さんの死を抜きにしては語れません。

坂本冬美の父、坂本正夫さんは、出稼ぎや漁師、土木作業員など仕事を転々としていました。

 

留守がちな父の分まで子どもを厳しくしつけたのが母の優子さんでした。

特に女の子だった冬美は口うるさいほど厳しくしつけられたのです。

だから彼女にとって父は、甘える事の出来る唯一の存在であり、大好きだったのです。

 

しかし、大好きな父親が突然この世を去ります。

1997年のことでした。

和歌山県内の海中から一台の乗用車が引き上げられます。

 

車内から男性の遺体が見つかりますが、それは、あろうことか坂本冬美の父・正夫さんの遺体だったのです。

交通事故死なのか自殺だったのかについては、今もって解明されていません。

 

このショックは、娘の坂本冬美にとってあまりにも大きいものでした。

 

「父の死を受け入れられず、人生の応援歌を歌うのが精神的に辛くなった」

彼女はそれ以降、歌への情熱が薄れていくのです。

 

悪いことは重なります。

虫垂炎で急遽入院し、持病の膵臓炎が悪化します。

体調の優れない日々が続き、精神的にも落ち込んでいきます。

 

だが、何年も前から決まっている過密スケジュールを放り出すわけにはいきません。

プロの歌手である彼女は歯を食いしばって、耐えます。

支えていたのは、プロとしてのプライドだけと言っても過言でなない状況だったのです。

 

そして、仕事を徐々にセーブし、すべてのスケジュールを消化し終えた2002年3月から休業に入ったのです。

 

自殺は残された家族を苦しめるのだと言います。

「どうして止められなかったのだろう」

「自分のせいで死んだのではないか」

「それほどの悩みがあったのに、なぜ話してくれなかったのだろう」

などなど、自分を責める遺族がとても多いのです。

 

甘えることができて大好きだった父が何も言わずに突然姿を消すなど、娘の坂本冬美には、本当に耐えがたいことだったのでしょう。

 

事故死か自死かわからないからこそ、いろいろ考えて

なおさら自責の念に駆られるのかもしれません。

 

坂本冬美自らが語っている言葉に、それがよく表れているように思われるのです。

先ほども述べましたが、彼女はこのように言っています。

「父の死を受け入れられず、人生の応援歌を歌うのが精神的に辛くなった」

 

彼女の心には

「自分の父すらを助けられないものが、人を応援する歌を歌うなど、おこがましい」

そんな思いが重くのしかかっていたのではないでしょうか。

 

実際に休業中、彼女は何度も思ったそうです。

「このまま歌手を辞めてしまおう」と。

 

それほどまでに彼女にとって、父の死は重かったのです。

休業に入った彼女は和歌山の実家に戻り膵炎の治療に専念します。

 

そして、病が快方に向かうと実家を起点に全国各地へ旅し、温泉につかって心を癒したのです。

旅先では全く気づかれなかったと復帰直後に『徹子の部屋』で語っています。

 

きっと彼女は、一流歌手のオーラを消すことが上手なのでしょうね。

気づかれることなく一般の人々に紛れて何気ない日常を送る。

 

これは有名人である彼女にとって、この上ない心休まる休養となったことでしょう。

坂本冬美はこうして、身も心も次第に回復へと向かいます。

坂本冬美をどん底から救った大物女性歌手とは?

そんな、ある日のことです。

二葉百合子の65周年リサイタルを実家のテレビで観ていました。

 

二葉百合子が歌う「岸壁の母」に聴き入っていた

坂本冬美の全身を電流のような衝撃が襲います。

 

いくつになっても変わらぬ声量と迫力、そして歌に込められた二葉百合子の熱意と真心に感銘を受けずにはいられなかったのです。

 

そして、彼女は思います。

「私がすがれるのは二葉先生だけ。先生のような強い精神力を持ち、喉を鍛えたらまた歌えるようになるかも」

 

すぐさま、坂本冬美は二葉百合子に宛てて手紙を書きます。

二葉百合子に会う許可をいただきました。

 

いろんなことが重なり、歌への情熱が薄れたこと、自信を失い、人前で歌うことに恐怖心がある事などを切々と訴えたのです。

 

二葉百合子が答えます。

「あなたも”歌の壁”にぶつかったのね。その歌の壁に気づいたことが、実はあなたが成長している証拠なのよ」

 

「とても素晴らしいことなの。私だってこれまで何回も歌の壁にぶつかってきたのよ。その度に乗り越えてきたからこそ今があるの。壁に気付かない人もいるんだから、気付けたあなたは立派よ」

 

大先輩のこの、やさしくも温かい言葉に坂本冬美は涙をこらえることができませんでした。

ただ単に感激して終わらないところが、坂本冬美の素晴らしいところです。

2002年11月から二葉百合子に弟子入りをし歌手復活を目指して、稽古を始めたのです。

 

そして、休業から約1年後の2003年4月1日『NHK歌謡コンサート』へ生出演します。

その場で、芸能活動の再開を宣言しました。

この年の暮れには紅白歌合戦にも返り咲きます。

 

デビュー曲の『あばれ太鼓』を熱唱するのですが、感極まって声が震えます。

だが、必死に立て直し最後まで歌い切ったのです。

坂本冬美のプロ根性と歌への情熱が完全復活した瞬間でした。

坂本冬美の隠し子騒動をでっちあげた連中は人の心を持っていない?

だが、世間とは姦しいもの。

坂本冬美の歌手休業期間中には重病説や死亡説まで流れました。

 

さらには隠し子を産んだとの噂が飛び交ったのですから驚きです。

しかも、それがプロ野球の星野仙一の子どもであると、具体的な相手の名前まで飛び出したのです。

 

どこから出たのか、まったく根拠の無い噂話にマスコミが飛びついて、話は拡散されます。

一応気になったので、隠し子について調べてみました。

 

まあ、これにつきましては真っ赤なウソです。

生まれたと言われる子どもがどこにもいませんから、架空の話になりますね。

 

「生まれた子どもはどこにいるの?」と問われ、

「坂本冬美の姉のところへ養子に出した」と答えた人がいるそうです。

 

星野仙一父親説を広めた人たちはこのように言っています。

「坂本冬美がどうしても星野仙一の子どもが欲しいと言って、星野が止めるのを振り切って、勝手に生んだらしい」

 

もしもでしよ、これはもしもの話ですよ、念のためにお断りしておきますが。

それほどまでに生みたかったいうことは、生まれた子どもを自分で育てたいと言うことです。

それを生まれたとたん、養子に出すなんてことは、絶対にあり得ません。

 

このように根も葉もない嘘をつくる輩は人の心理なり、人間としての尊厳を全く無視していることがわかります。

人の心を分からない人間は、とても寂しい人生を送るのでしょうか?

 

もう一つ、根も葉もない嘘であると断言できる理由があります。

この話を記者から聞いた星野仙一は

「俺は坂本冬美には、一度もあったことがない。いい加減なことを言うな」

と烈火のごとく怒ったそうです。

 

星野仙一は当時独身でしたから、彼女がいたとしても、それを隠す理由は全くありませんでした。

まあ、どちらにしても生れたという子どもがどこにもいないのですから、まったく信憑性のない話ですね。

 

坂本冬美は、二葉百合子に心を鍛えられ一層、強いプロの歌手としてよみがえりました。

今後の坂本冬美への期待が膨らみます。

 

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