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大黒摩季の歌手人生は病魔との戦いだったが、最後の望みが絶たれても彼女は負けない!

波乱の人生

1995年2月20日にリリースされた10枚目のシングル『ら・ら・ら』で140万枚を売り上げた大黒摩季。

リズミカルで張りのある歌声は聴くものを魅了します。

 

ライブではステージいっぱいに動き回り、とても活発なアーティストです。

だが、そんな外見からはとても想像できほど長い間、彼女は病魔と闘い続けていました。

 

あなたは想像できますか?

あの、エネルギッシュな大黒摩季が15年間も病気に苦しんでいたことを。

彼女の歌手人生は凄絶とさえ言えるほどでした。

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誰も知らない、大黒摩季の長年の苦しみとは?

1997年の8月のことです。

レインボースクエア有明で行われる初めてのライブが目前に迫っていました。

デビュー以来、テレビ出演やライブ活動を一切行っていなかった彼女。

 

そんな彼女にとって、満を持して開催する初ライブです。

だから、万全な体調で臨みたいと考えました。

 

大黒摩季は、身体に関して悩みがあったのです。

学生の頃から生理痛が激しく、精神的に不安定になったり、激しい腰の痛みに襲われることもあります。

 

いろいろと悩んだ挙句、生まれて初めて、婦人科を受診することにしたのです。

検査の結果に愕然とします。

子宮内膜症のほか子宮筋腫、子宮腺筋症を併発していることが判明したのです。

 

医師からは

「このまま放置すると子宮の全摘手術しか治療方法がなくなる」

と告げられました。

 

「それは妊娠できなくなることを意味します」

とも言われます。

いわば最終通告みたいなものです。

 

だが、当時27歳だった彼女はまだ未婚で、将来を一緒に歩みたいと考えるような人との出会いさえありませんでした。

子どもが大好きな彼女は悩みます。

 

考えるほどに

「なんとしても子宮を守らなければ」

との思いが強くなるのでした。

 

すぐにホルモン治療を始めたのですが、しかし一筋縄ではいきません。

この治療はとても危険な一面も、持っていたのです。

ホルモン治療は女性ホルモンを減らしてしまいます。

 

その結果どうなるか?

高音で歌えなくなってしまうのです。

 

大黒摩季独特の、張りのある高音が出せなくなってしまうというのだから、これはもう本当に死活問題でした。

高音で歌えなくなるなんて彼女にとっては、死を宣告されたも同然です。

 

さて、どうしましょう。

あなたが、大黒摩季ならどうしますか?

 

このような深い悩みに直面すると、結論を出すのをいったんやめて、小さな旅に出るのが彼女の習慣でした。

 

海を見に茅ヶ崎へいきます。

真っ赤に燃える真夏の夕陽を眺めているうちに、フッと答えが降りてきたのだと言います。

 

「今はホルモン治療を中断しよう」

「そして時期が来たら、また再開すればよい」

 

その時には日本の医学が進歩しているかもしれない。

「医学の進歩に懸けてみよう」

そのように決断したのです。

 

その決断に至った理由は他でもありません。

ライブのチケットは完売し、デビュー当時からお世話になっている人々が懸命に準備を整えてくれていました。

 

所属事務所は社運をかけている、と言ってもオーバーではないほど力を注いでくれています。

彼女の性格上、そんなファンや多くの関係者を置き去りにして、自分のことだけを考えるなどとても、できる相談ではありません。

 

己を捨て、他を優先した人間の行動は、時に奇跡を呼ぶことがあります。

彼女の場合も、それに似たことが起きたのです。

 

実はリハーサルでは身体の不調とともに精神的にも万全とは言えませんでした。

したがって、自分が望むような声で歌うことができなかったのです。

 

しかし、本番が始まると驚くべきことが起きます。

どうしても調子に乗り切れなかったリハーサルとは一変して、声がなめらかであることを彼女は実感するのでした。

 

歌いながら

「これが自分の声だ。大黒摩季の歌だ」

彼女は心の中で叫び続けたのです。

 

こうして、人生初のライブは大成功を収めました。

しかし、ライブが成功したからと言って病気が治癒したわけではありません。

 

その後は漢方薬や鎮痛剤などで、だましだまし全国ツアーのステージに立ちます。

そうこうしているうちに、念願の新しい治療薬が出て一時的に快復に向かいました。

 

だが、ツアーが始まって投薬を中断するとまた症状は悪化します。

ステージで踏ん張り切れずに、音楽関係者から酷評されることもあったのです。

 

「この苦しみを誰も分かってくれない」

そんな思いに駆られることもありました。

 

でも、お客さんには言い訳はできません。

いつも痛みと戦いながら、それでも全力で歌ってきました。

大黒摩季、最後の望みが消えて嗚咽した出来事とは?

大黒摩季は34歳で結婚します。

そして、不妊治療に取り組むのですが、これが、さらに彼女の身体をむしばんでいきます。

 

我慢に我慢を重ねて、音楽活動を続けますがついに恐れていたことが現実になりました。42歳の時です。

子宮が耐え難いほど悪化してしまいます。

 

「悪い部分をすぐに切除しましょう」

今度こそ医師からの最終通告です。

 

悔しかった。無念だった。

だが、命には代えられない。

手術を受け、治療に専念するには音楽活動を休止しなければなりません。

 

しかし、それでも彼女にはあきらめきれないことがありました。

どうしても子どもを生みたかったのです。

 

夫は優しい。

子どもを産めないかもしれない自分を受け入れてくれました。

 

だが、夫がやさしくて理解ある人だったから、なおのこと彼女は、その夫に赤ちゃんを抱っこさせてやりたかったのです。

 

患部は切除するが子宮を温存するという条件のもと、手術を受けたのは、2011年5月のことでした。

手術後も、不妊治療は続きます。

そして、何度か妊娠したのですが、ことごとく流産してしまいました。

 

彼女は自分を責めます。

「自分のせいでこの子たちは生きられない」

 

もうこれ以上、流産を繰り返すわけにはいきません

卵子を冷凍保存し、45歳で子宮をすべて摘出しました。

 

あれほど望んだ子どもをもう産むことができなくなってしまったのです。

彼女は失意の中にいました。

 

だが、もう一度歌いたいという気持ちが徐々に高まってきます。

6年間のブランクを経て単独ライブで復活したのは、2016年8月のことでした。

 

復活から1年後、彼女は一縷の望みを抱いて、冷凍保存した卵子が待つアメリカへ向かいます。

代理母による出産を求めたのです。

だが、どんなに願っても叶わないこともあるのが人生です。

 

2017年の秋でした。

受精卵は12個あったのですが、無情にも最後の1個がなくなってしまったのです。

 

彼女は嗚咽します。

これまでの人生で味わったことのない挫折感と絶望感に打ちひしがれました。

 

ロサンゼルスの乾いた風に吹かれながら自らに「終了」を言い聞かせなければならなかったのです。

この一連の出来事で彼女が得た哲学は、

「どの道を選ぶかは自分で決める」

 

そして、

「一つを終わらせなければ、次は始まらない」

です。

 

いろんなことが頭をよぎっていくけれど、病を放置したのは自分の責任だ。

そのようにけじめをつけることで、彼女は前へ歩み出すことにしたのです。

 

「単純」という才能と「素直」という武器を備えている。彼女は、そのように自分を表現します。

病気にならなければ出会えなかった人や、これまで気づかなかった人の心の痛みが理解できるようになったと言います。

 

歌い続けられるのは、決して当たり前ではないし、自分を待っていてくれる人がいるのも奇跡だと思えるようになりました。

 

そして

「人生ってホント捨てたものじゃない」

が、彼女の結論です。

 

実に前向きですね。

『単純』で『素直』だから短時間で立ち直れたと彼女は言いたいのでしょう。

 

休養中だった2014年に彼女は、北海道長沼町立長沼中学校の新校歌の制作を依頼され喜んで引き受けました。

 

「道産子として恩返しをしたい」

自らの作詞・作曲で『希望の丘』と題する新校歌を贈ったのです。

これも、病気で苦労した彼女の思いやりの現れでしょう。

 

また、49歳のときに夫とは別々の道を歩むことを決めています。

どうしても彼の子どもを産むことが出来なかった罪悪感から、別れは彼女が切り出しました。

 

離婚するとすぐに、彼は新しいパートナを見つけ、子どもにも恵まれます。

この報告を受け、大黒摩季さんは親友が幸せを見つけてくれたような嬉しさを感じたのでした。

 

離婚後、彼女は年老いたお母さんを引き取ります。

お母さんは車いす生活の上、認知症も患う身です。

 

今は、そのお母さんに笑ってもらうことが彼女の生きがいだと言います。

病気との度重なる戦いと不妊治療で味わった苦しみと挫折、そして喪失感。

 

その中で培われたやさしさと思いやりは、人間としてミュージシャンとして彼女を確実に成長させてくれました。

 

一回りも二回りも大きくなった、大黒摩季さんの歌は52歳を過ぎたこれから、さらに磨きがかかります

彼女の今後に、期待が膨らみます。

 

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