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奥田瑛二の次女は安藤サクラで芸能一家!天知茂の付き人だった過去とは?

波乱の人生

役者として円熟味を増してきた奥田瑛二さんは、正真正銘の芸能一家です。

奥さんは女優でエッセイストの安藤和さんであり、長女が映画監督の安藤桃子さんで、次女は女優の安藤サクラさん、そして夫は俳優の柄本裕さん。

 

柄本裕さんは『劇団東京乾電池』を主宰する柄本明さんがお父さんで、弟の柄本時生さんも俳優です。

思わず「スゴイ!」とうなってしまいます。

 

奥田家、柄本家どちらも甲乙つけがたほどの個性派ばかり。

この両家だけで映画が撮れてしまいます。

 

あまり知られていませんが奥田瑛二さんは若いころ、天知茂さんの付き人をしていたことがありました。

54歳の若さで逝ってしまった天知茂さんをいまでも師匠として慕っています。

そんな、奥田瑛二さんの半生を振り返ってみました。

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奥田瑛二が天知茂の付き人になった動機と、再会が悲しい別れになった理由とは?

奥田瑛二さんが映画俳優を志したのは小学校5年生の時だったといいます。

大友柳太朗さん出演の映画『丹下左膳』を見て衝撃を受け、俳優になりたいと思ったのだそうです。

 

役者になるには体格が良くなければいけないと彼は考えます。

そこで、中学は野球部、高校ではラグビー部とスポーツで体を鍛え、俳優を志す姿勢は一貫していました。

 

奥田瑛二さんは1950年3月18日、愛知県春日井市で生まれています。

本名は安藤豊明(とよあき)さん。

 

身長はスポーツで鍛えただけあって175㎝と、この年代ではかなり大きい方です。

映画俳優になるためには、まず東京へ行くことが肝心だ。

彼はそう考えます。

 

高校卒業後は東京の大学へ進学したかったのですが彼の希望の前に立ちはだかったのは父親でした。

当時、春日井市の市議会議員だった父は異常なほど郷土愛が強く、案の定名古屋の大学へ行けと言います。

 

どうしても上京したい奥田瑛二さんは一計を案じました。

「お父さん、これからは中央の時代になる。

だから東京に出て勉学に励み、名古屋に帰ってきて25歳で市会議員、30歳で県会議員、40歳で国会議員になるから、東京に行かしてくれ」

 

そんな大嘘で見事に父を欺いたのです。

それならと、父は愛知県出身の衆議院議員を紹介します。

 

こうして彼は、勉強と政治の両方を学ぶ、部屋住みの書生となったのです。

明治学院大学に入学した彼は、まじめに部屋住みの書生奉公に励み、大学では演劇部に所属していました。

 

だが、胸の奥に抱き続ける俳優への夢は強く、大学の演劇部で満たされるようなものではありません。

悶々とした生活を送っていましたが、70年安保を巡り日本中に吹き荒れた学生運動で大学は閉鎖してしまいます。

 

それを機に大学もやめ、父親の紹介で始めた書生からも逃げ出してしまうのです。

劇団に入ろうとしましたが、最悪のタイミングでした。

 

文学座も青年座も俳優座も、すべての劇団が試験の終わった後か、あるいは研修生の募集をその年に限って見送っていたのです。

 

途方に暮れた彼が頼ったのは俳優の天知茂さんでした。

天知茂さんは、ニヒルで渋い個性派俳優としてハードボイルドの代表的スターです。

 

江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が脚本化した『黒蜥蜴』で私立探偵・明智小五郎役を演じて実力を認められてからは、順調にスターの階段を昇った天知茂さん。

 

テレビドラマ『非情のライセンス』では主演を務め、主題歌も歌います。

当時の世相を反映した歌詞の『昭和ブルース』が大ヒットして天知茂さんは大スターの地位を不動のものにしたのです。

 

奥田瑛二さんが天知茂さんの付き人になったのは、ちょうどその頃のことでした。

二人は東邦高校の先輩、後輩の関係に当たります。

 

奥田瑛二さんは、高校生の担任からこのように聞いていたのです。

「この学校には有名な卒業生が二人いる。一人は政治家の江崎真澄で、もう一人は俳優の天知茂だ」

 

それから奥田瑛二さんは、天知茂さんのことを決して忘れることはありませんでした。

彼は手を尽くしてなんとか天知茂さんの自宅住所を探し出します。

 

そして、勇んで押しかけたのです。

玄関のチャイムを鳴らすと奥さんが出て来て、にこやかに対応してくれました。

 

彼は緊張しながら名前と母校の後輩であることを伝え「天知さんの弟子にしてください」とお願いします。

「そうですか。まあ、主人には報告だけはしておきますけど」

と軽やかにいなされて「ハイお終いですよ」とばかりに玄関のドアは閉じられてしまいます。

 

だが、彼はあきらめません。

次の日も天知家を訪問します。

奥さんはにこやかに「主人には伝えてあります」とだけ言って、やはりドアは静かに閉じられました。

 

3日目、4日目、5日目と同じ行動は繰り返されますが、毎度おなじ返事で断られます。

ところが通い始めてちょうど、10日目のことでした、事態が動いたのです。

 

奥さんがいつものように、にこやかに出てきて言います。

「あなたも本当にがんばるわね。パパにもあなたのことは話したから、事務所が六本木なので、そちらに行ってみたらどうかしら?」

 

奥田瑛二さんの全身に喜びが沸き上がります。

即座に六本木に向かいました。

 

事務所では1時間待たされて、天知さんが姿を現します。

「おお、君か。かみさんから聞いているよ」

「これからテレビ朝日でリハーサルがあるけど君も来るかい?」

 

「ハイ!喜んで」と元気よく返事をし、一緒の車に乗ってテレビ朝日に同行します。

こうして、2年間の付き人生活が始まったのです。

 

暖簾に腕押し状態の奥さん相手によく10日間も通い続けましたね。

スゴイ根性です。

この粘りと熱心さに天知茂さんの奥さんも心を動かされたに違いありません。

 

やはり、彼の俳優にかける意気込みは大変なものがあり、執念となっていたのでしょう。

だが、昭和20年代から昭和の終わりにかけては、よくこのような男はいました。

 

営業マンがどうしても取引をしたいと思った会社の社長宅に1週間毎日通って、とうとう面談にこぎ着けたなどという話は結構あった時代です。

 

私の知人にもいました。

どうしてもサラブレットの育成牧場で働きたいが、知っている牧場がない。

 

そこで調べてみたら、当時の藤田組(現フジタ)の副社長で参議院議員の藤田正明さんという方が、北海道の日高に牧場を開設したばかりであることを突き止めます。

 

彼は東京都渋谷区代々木上原にあった藤田さんの屋敷に行って、牧場で雇って欲しいと頼みます。

藤田さんは、どこの馬の骨ともわからない青っちょろい青年を大事な牧場で雇えるかとばかりに、断ります。

 

しかし、彼はあきらめません。

雨にも負けず、風にもめげず、日も来る日も来る日も豪邸の前で藤田さんの帰りを待ち続けます。

とうとう、根負けして藤田さんは牧場で働くことを認めたのでした。

 

さて、奥田瑛二さの話ですね。

しかし、一流俳優の付き人になったからと言って、そう簡単に俳優の道が拓けるほど甘い世界ではありません。

 

決まった給料があるわけでもありません。

決まった休みさえない時代でした。

 

すべてが暗黙の了解で動く世界だと言えるでしょう。

付き人には師匠の行動に合わせた阿吽(あうん)の呼吸が求められます。

 

奥田瑛二さんは天知茂さんの行動を観察し、阿吽の呼吸をつかみます。

例えば、天知さんが右手を上げて中指と人差し指が開けば、タバコを求めています。

 

彼はタバコを指の間に挟んでやるのです。

そして、口にくわえて横に顔を向けたら、すかさずライターで火をプシュっとつける。

 

コップを持つように指を丸めたら、水です。

指をひらひらさせたら、手鏡を取ってくれとの合図になります

 

天知茂さんは誰に対しても口数が少なく、必要なこと以外はしゃべらない人でした。

ただ、芝居のこととなれば別で、聞くとすぐに教えてくれたのだといいます。

 

一度、恐る恐る聞いたことがありました。

「芝居というのは、どうやって覚えたらいいんでしょうか?」

 

師匠は答えます。

「うん、俺を見てればいい」。

 

それから奥田瑛二さんは、舞台のとき天知さんを花道から送り出すと、天知さんの一挙手一投足をまばたきもせずにじっと見続けました。

 

テレビの収録でもスタジオの隅から観察し続けたのです。

こうして、半年もたたずに天知さんのセリフも立ち回りも全部覚えて、アテレコのように一緒にセリフを喋るまでなってしまいます。

 

楽屋から勝手に持ち出した刀で立ち回りを真似したこともありました。

「天知茂さんを演じさせたら、僕よりうまい俳優はいません」

 

奥田瑛二さんは、今でもそう言って笑います。

しかし、彼の悩みは尽きませんでした。

「このまま、付き人をしていて本当に俳優になれるだろうか?」

 

焦りは日ごとに募り、彼は尊敬する師匠の元から逃げ出してしまったのです。

早く役者として一本立ちしたいとはやる気持ちを抑え切れなかったのでした。

 

ここから辛酸をなめつくしような彼の苦労が始まります。

逃げ出した後は、生活のために知人を頼ってバーで働きました。

 

間もなく、この店で知り合った人にモデルの仕事を紹介されて店をやめることに。

だが、俳優を志す彼はモデルでは満足できずにまた、やめてしまうのです。

 

それからは品川岸壁での荷揚げ、スナックのウェイターなどを転々としながら、何とか生活していました。

家賃が払えずにアパートの鍵を変えられてしまい部屋の入れなくなって、一時は公園でホームレスのような生活をしていたこともあったといいます。

 

そんな悲惨な生活をしていた奥田瑛二さんに転機が訪れました。

日活から声がかかり『もっとしなやかに、もっとしたたかに』に出演します。

1979年、彼は29歳になっていました。

 

この映画で演技力が認められ、今度はテレビから仕事が舞い込みます。

『もう頬づえはつかない』で桃井かおりさんの相手役に抜擢されたのです。

その後は映画『宮本武蔵』で又八役を演じて、実力は折り紙付きの評価を得ます。

 

そこからは、もう仕事は途切れません。

TVドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(1985年)、『男女7人夏物語』(1986年)、『金曜日には花を買って』(1986年 – 1987年)などへ出演し人気は急上昇します。

 

女性の「不倫してみたい俳優」ナンバー1に選ばれるほど人気スターとなったのです。

人生は一度歯車が好転すると、すべてが順調に回り出すから不思議なもの。

 

付き人を逃げ出した後、一度だけ天知茂さんと会ったことがあるといいます。

先輩付き人に案内されて、彼が働いていたスナックへ訪ねてきました

 

「俺は酒が飲めないから。ここは何が食べられるんだ?」

そう聞いて、天知さんは生姜焼きとごはん、みそ汁を注文しました。

無言で食べ終えると「それじゃあ」と言って帰っていったのです。

 

「黙って逃げたことはもう気にするな。それよりも自分のやりたいことに全力で挑め」

そう言いたかったのではないでしょうか。

天知茂さんは精一杯の気遣いをしてくれたのだと思います。

 

その天知茂さんと奥田瑛二さんは、15年ぶりに再会します。

場所は日赤病院でした。

天知さんはくも膜下出血で倒れ、入院していたのです。

 

知り合いのマネージャーさんに、

「奥田くん、天知さんは日赤の集中治療室に入っている。私も一緒に行ってあげるから、今から行こう」

と促されて駆けつけたのでした。

 

その時にはもう、天知さんは意識がありませんでした。

「先生、安藤です」と心の中で呼びかけながら、無言のお別れとなってしまったのです。

いつかは天知茂さんと共演したいと夢見ていた奥田瑛二さんには、悲しすぎる別れでした。

 

奥田瑛二さんは付け人時代を振り返り、このように言っています。

「自分で言うのもなんですが、天知茂さんの一挙手一投足を余すことなく真似ができ、阿吽の呼吸で師匠と接することができた天才的付き人だったと思います」

 

半分は冗談で言っているのでしょうが、実はこの自信というか、自己肯定感がとても大事なのだと思います。

 

昔は自信過剰だとか、自己顕示欲が強いとか言われ日本では嫌われることが多かったのですが、今は見直されています。

 

自己否定するよりも自己を肯定できる人の方が仕事もできるし、何ようも逆境に強いと言われているのです。

このような自己肯定感が奥田瑛二さんの不遇時代を支えたのではないでしょうか。

 

冒頭でも書きましたが、奥田家は芸能一家でもあります。

奥さんの安藤和さんは女優でエッセイスト、長女の安藤桃子さんは映画監督、そして次女の安藤サクラさんは女優で、その夫である柄本佑さんも俳優です。

 

奥田瑛二さんは今もテレビより映画にこだわっています。

そのうち一家で映画を撮るようなこともあるかもしれません。

54歳の若さで亡くなった師匠・天知茂さんの分まで、まだまだ頑張って欲しいものです。

 

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