奥田瑛二が映画俳優を志したのは小学校5年生の時だったといいます。
大友柳太朗さん出演の映画『丹下左膳』を見て衝撃を受け、俳優になりたいと思ったのだそうです。
役者になるには体格が良くなければいけないと彼は考えます。
そこで、中学は野球部、高校ではラグビー部とスポーツで体を鍛え、俳優を志す姿勢は一貫していました。
奥田瑛二は1950年3月18日、愛知県春日井市で生まれています。
本名は安藤豊明(とよあき)。
身長はスポーツで鍛えただけあって175㎝と、この年代ではかなり大きい方です。
映画俳優になるためには、まず東京へ行くことが肝心だ。
彼はそう考えます。
高校卒業後は東京の大学へ進学したかったのですが、前に立ちはだかったのは父親でした。
当時、春日井市の市議会議員だった父は異常なほど郷土愛が強く、案の定名古屋の大学へ行けと言います。
どうしても上京したい奥田瑛二さんは一計を案じました。
「お父さん、これからは中央の時代になる。
だから東京に出て勉学に励み、名古屋に帰ってきて25歳で市会議員、30歳で県会議員、40歳で国会議員になるから、東京に行かしてくれ」
そんな大嘘で見事に父を欺いたのです。
それならと、父は愛知県出身の衆議院議員を紹介します。
こうして彼は部屋住みの書生となったのです。
明治学院大学に入学した彼は、まじめに部屋住みの書生奉公に励み、大学では演劇部に所属していました。
だが、胸の奥に抱き続ける俳優への夢は強く、大学の演劇部で満たされるようなものではありません。
悶々とした生活を送っていましたが、70年安保を巡る学生運動で大学は閉鎖してしまいます。
それを機に大学もやめ、父親の紹介で始めた書生からも逃げ出してしまうのです。
劇団に入ろうとしましたが、最悪のタイミングでした。
文学座も青年座も俳優座も、すべて試験が終わった後か、あるいは研修生の募集を見送っていたのです。
途方に暮れた彼が頼ったのは俳優の天知茂さんでした。
天知茂さんは、ニヒルで渋い個性派俳優としてハードボイルドの代表的スターです。
テレビドラマ『非情のライセンス』では主演を務め、主題歌も歌います。
当時の世相を反映した歌詞の『昭和ブルース』が大ヒットして天知茂さんは大スターの地位を不動のものにしたのです。
奥田瑛二が天知茂さんの付き人になったのは、ちょうどその頃でした。
二人は東邦高校の先輩、後輩の関係に当たります。
高校生の担任の先生からこのように聞いていたのです。
「この学校には有名な卒業生が二人いる。
一人は政治家の江崎真澄で、もう一人は俳優の天知茂だ」
それから奥田瑛二は、天知茂さんのことを決して忘れることはありませんでした。
彼は手を尽くしてなんとか天知茂さんの自宅住所を探し出します。
そして、勇んで押しかけたのです。
玄関のチャイムを鳴らすと奥さんが出て来て、にこやかに対応してくれました。
彼は緊張しながら名前と母校の後輩であることを伝え
「天知さんの弟子にしてください」
とお願いします。
「そうですか。まあ、主人には報告だけはしておきますけど」
と軽やかにいなされて、ハイお終い、とばかりに玄関のドアは閉じられてしまいます。
だが、奥田瑛二はあきらめません。
次の日も天知家を訪問します。
奥さんはにこやかに
「主人には伝えてあります」
とだけ言って、やはりドアは静かに閉じられました。
3日目、4日目、5日目と同じ行動は繰り返されますが毎度おなじ返事で断られます。
事態が動いたのは通い始めてちょうど、10日目のことでした。
奥さんがにこやかに出てきて言います。
「あなたも本当にがんばるわね。
パパにもあなたのことは話したから、事務所が六本木なので、そちらに行ってみたら?」
即座に六本木に向かいました。
「おお、君か。かみさんから聞いているよ」
「これからテレビ朝日でリハーサルがあるけど君も来るかい?」
「ハイ!」と元気よく返事をし、この日から2年間の付き人生活が始まったのです。
暖簾に腕押し状態の奥さん相手によく10日間も通い続けましたね。
スゴイ根性です。
やはり、彼の俳優にかける意気込みは大変なものがあり、執念となっていたのでしょう。
しかし、有名俳優の付き人になったからと言って、そう簡単に俳優の道が拓けるほど、甘い世界ではありません。
決まった給料があるわけでもありません。
俳優さんが売れていればいるほど、付き人は拘束時間が長くなり、決まった休みさえないのです。
すべてが暗黙の了解で動く世界だと言えるでしょう。
付き人には師匠の行動に合わせた阿吽(あうん)の呼吸が求められます。
奥田瑛二は天知茂さんの行動を観察し、阿吽の呼吸を会得しました。
例えば、天知さんが右手を上げて中指と人差し指が開けば、タバコを求めています。
彼はタバコを指の間に挟んでやるのです。
そして、口にくわえて横に顔を向けたら、すかさずライターで火をプシュっとつける。
コップを持つように指を丸めたら、水です。
指をひらひらさせたら、手鏡を取ってくれとの合図になります
天知茂さんは誰に対しても口数が少なく、必要なこと以外はしゃべらない人です。
ただ、芝居のこととなれば別で、聞くとすぐに教えてくれたのだといいます。
一度、恐る恐る聞いたことがありました。
「芝居というのはどうやって覚えたらいいんでしょうか?」
師匠は答えます。
「うん、俺を見てればいい」。
それから奥田瑛二は、舞台のとき天知さんを花道から送り出すと、天知さんの一挙手一投足をまばたきもせずにじっと見続けました。
天知さんのセリフも立ち回りも全部覚えて、アテレコのように一緒にセリフを喋るまでなったのです。
楽屋から勝手に持ち出した刀で立ち回りを真似したこともありました。
「天知茂さんを演じさせたら、僕よりうまい俳優はいません」
奥田瑛二は、今でもそう言って笑います。
しかし、彼の悩みは尽きません。
「このまま、付き人をしていて本当に俳優になれるだろうか?」
焦りは日ごとに募り、彼は尊敬する師匠の元から逃げ出してしまったのです。
早く役者として一本立ちしたいとはやる気持ちを抑え切れなかったのでした。
ここから辛酸をなめつくしような、彼の苦労が始まります。
逃げ出した後は、生活のために知人を頼ってバーで働きました。
やがて、ここで知り合った人にモデルの仕事を紹介されて店もやめてしまいます。
だが、俳優を志す彼はモデルでは満足できずにまた、やめてしまうのです。
それからは品川岸壁での荷揚げ、スナックのウェイターなどを転々としながら、何とか生活していました。
家賃が払えずにアパートの鍵を変えられてしまい部屋の入れなくなって、一時は公園でホームレスのような生活をしていたこともあったといいます。
そんな悲惨な生活をしていた奥田瑛二に転機が訪れました。
日活から声がかかり『もっとしなやかに、もっとしたたかに』に出演します。
1979年、29歳のことでした。
この映画で演技力が認められ、今度はテレビから仕事が舞い込みます。
『もう頬づえはつかない』で桃井かおりの相手役に抜擢されたのです。
その後は映画『宮本武蔵』で又八役を演じて、実力は折り紙付きの評価を得ます。
そこからは、もう仕事は途切れません。
TVドラマ『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(1985年)、『男女7人夏物語』(1986年)、『金曜日には花を買って』(1986年 – 1987年)などへ出演し人気は急上昇します。
女性の「不倫してみたい俳優」ナンバー1に選ばれるほど人気スターとなったのです。
付き人を逃げ出した後、一度だけ天知茂さんと会ったことがあるといいます。
先輩付き人に案内されて彼が働いていたスナックへ訪れたのです。
「俺は酒が飲めないから。ここは何が食べられるんだ?」
そう聞いて、天知さんは生姜焼きとごはん、みそ汁を注文しました。
無言で食べ終えると「それじゃあ」と言って帰っていったのです。
「黙って逃げたことはもう気にするな。
それよりも自分のやりたいことに全力で挑め」
そう言いたかったのではないでしょうか。
天知茂さんは精一杯の気遣いをしてくれたのだと思います。
その天知茂さんと奥田瑛二は15年ぶりに再会します。
場所は日赤病院でした。
知り合いのマネージャーに、
「奥田くん、天知さんは日赤の集中治療室に入っている。私も一緒に行ってあげるから、行こう」
と促されて駆けつけたのでした。
その時にはもう、天知さんは意識がありませんでした。
「先生、安藤です」と心の中で呼びかけながら、無言のお別れとなってしまったのです。
奥田瑛二は付け人時代を振り返りこのように言っています。
「自分で言うのもなんですが、天知茂さんの一挙手一投足を余すことなく真似ができ、
阿吽の呼吸で師匠と接することができた天才的付き人だったと思います」
半分は冗談で言っているのでしょうが、実はこの自信というか、自己肯定感がとても大事なのだと思います。
昔は自信過剰だとか、自己顕示欲が強いとか言われ日本では嫌われることが多かったのですが、今は見直されています。
自己否定するよりも自己を肯定できる人の方が仕事もできるし、何ようも逆境に強いと言われているのです。
このような自己肯定感が奥田瑛二の不遇時代を支えたのではないでしょうか。
奥田家は芸能一家でもあります。
奥さんの安藤和は女優でエッセイスト、長女の安藤桃子は映画監督、そして次女の安藤サクラは女優で、その夫である柄本佑も俳優です。
奥田瑛二は今もテレビより映画にこだわっています。
そのうち一家で映画を撮るようなこともあるかもしれません。
54歳の若さで亡くなった師匠・天知茂さんの分まで、まだまだ頑張って欲しいものです。