のびやかに透き通り、聞く人々の心の奥まで染み入る素晴らしい声。
小田和正の歌は本当に素敵です。
1947年9月20日の横浜生まれですから、今年75歳です。
それにしてはお元気で、美声もいまだ健在。
驚きですね。
小田和正は今年、音楽配信から「風を待つ」というシングルをリリースしました。
音楽配信とは、インターネットを通じて楽曲を配信することです。
いわゆるサブスクと言われる定額制音楽配信で、ご存じのように昨今はCDの発売ではなく、アーチストの間ではこの配信によるリリースが主流になっています。
この新曲を聴いても声には全く衰えが感じられず、むしろ深みが増したようにさえ思われるから、スゴイの一言です。
小田和正が子どもをつくらない理由と年収、財産にビックリ!
小田和正は35歳の時に一般女性の新井恵子さんと入籍しています。
結婚してすでに40年が過ぎた事になります。
だが、二人の間には子どもがいません。
調べてみたら、小田和正の意向で子どもはつくらない主義のようです。
では、なぜ彼は子どもをつくらないのか?
あなたも、当然そのような疑問を持ったと思います。
子どもをつくらない理由を調べてみたらそこには、なんと驚きの理由がありました。
実は彼は街中ではしゃぎまわる子どもが嫌いなのだそうです。
自分に子どもが生まれたら、そのようなことをしない子どもに育てる自信がない。
だから、子どもをつくらないのだと言っています。
では、彼は子どもが大嫌いなのかというとそうでもありません。
イベントやライブの現場で、子どもさんにとてもやさしく接している場面を何度も目撃されています。
頭をなでたり、ニコニコ顔でサインに応じたり、笑顔で話しかけるなど、決して子供嫌いには見えません。
彼自身が「生まれてくる子供たちのために」というメッセージ性の強い曲も歌っています。
ですから、子ども自体が嫌いなのではなく、あくまでも自分の中の問題ということなのでしょう。
これは人それぞれの考えですから、深く追及するような事でもありません。
さて、小田和正クラスのミュージシャンであれば稼ぎは相当なものと思われます。
彼がどれほど稼ぎ、どれほどの財産を持っていて相続する子供がいなければ、その財産の行方はどうなるのか?
大いに気になるところです。
まずは、小田和正の年収から調べてみましょう。
最近は高額納税者の公表制度が廃止されましたので、以前のように簡単に調べることができなくなりました。
ですから、彼の収入についても、あくまでも推測になりますのでご了解ください。
小田和正は歌、作詞、作曲、編曲をすべて一人でこなします。
ですから、CDなどは売り上げの12%が小田和正の懐に入ることになります。
彼の楽曲はカラオケでも人気があります。
他にはテレビCMへの楽曲提供、ライブなど収入源は多岐にわたります。
似たようなケースの谷村新司は毎年約2億円の収入があると言っていますので小田和正がそれ以下ということは考えられません。
年収3億円はくだらないと思います。
2002年とやや古いですが、この年に小田和正が納税した額は1億778万円でした。
このことからも、彼の年収が3億円以上であることが推察できます。
もし3億円あったら500ミリリットルの缶酎ハイ何本飲めるか?
1本190円と仮定して、約457万9千本買えます。
誰がそんなに飲むかって本数になってしまいます。
3億円ってやはりすごい額なんですねえ。
さて、小田和正の年収がわかったら、今度は彼の財産が気になるところです。
都内の一等地に豪邸があり、他には神奈川県逗子市の披露山庭園住宅にも豪邸を所有していることがわかっています。
逗子市の披露山庭園住宅がこれまたすごいところです。
資産家、財界人、芸能人などが多く住み一区画300坪の敷地には豪邸が立ち並び、バブルのころは
日本のビバリーヒルズと呼ばれていました。
現在は半分の150坪に分割された土地もあります。
その150坪に建てた5LDKの分譲価格が2億5千万円。
これから推測して、彼が所有する豪邸は5億円以上の資産価値があることは間違いありません。
5億円あったらロッテの板チョコを何枚買えるかですって?
いや、もう頭が痛くなるから計算はやめましょう。
ちょっと話は飛びますが、先ほど出てきた谷村新司さんをめぐるとても面白い話があります。
実は小田和正と松山千春は若いころからとても仲が良いそうです。
二人とも大のゴルフ好きで有名ですね。
松山千春は北海道に住んでいるなで小田和正を北海道のゴルフ場に招待した時のことです。
ホテルから二人でゴルフ場へ向かう車中、松山千春が言いました。
「別にどこが嫌いというわけではないが、谷村新司の顔をテレビで見ると殴ってやりたい衝動に駆られるんだよなあ」
これを聞いた小田和正「そうだよね」独り言のようにポツリともらしたのだそうです。
松山千春は鬼の首でも取ったようにまくしたてます。
「あの、寡黙で人の悪口なんか絶対言わない
小田和正が『そうだよね』って相ずつを打ったんだぜ」
ラジオ番組で松山千春はとてもうれしそうに話していました。
この話、谷村新司のことも面白かったけど、小田和正が寡黙で、しかも人の悪口は絶対に言わないという部分がとても印象に残っています。
話はいつものように横道にそれましたが小田和正の財産の行方が気になりますね。相続する子どもさんもいません。
特にどこかに寄付するという話も今のところありません。
実兄や奥さんの兄弟のお子さんたちが相続することも考えられますが、どうなる事やら。
小田和正が生涯歌い続けると宣言した理由とは?
何度も言いますが、小田和正の元気な活躍ぶりには目を見張るものがあります。
この原動力はどこから来るのでしょうか?
そして彼は、生涯歌い続けるといつ、どのような状況で決断したのでしょうか?
そこに迫りました。
小田和正は横浜市金沢区で生まれ育ちました。
実家は薬局を営み、お父さんは金沢文庫すずらん通り商店街では名士でした。
お父さんは長男に薬局を継がせ、次男の和正を医者にすることが夢でした。
しかし、和正は父に反発して医学部ではなく東北大学の建設科に進学します。
その後は早稲田大学の大学院でも建築を学びます。
ここまでならお父さんも「まあ、仕方ないか」で済んでいました。
ところがです、小田和正は大学院の卒論で「さよなら建築、僕は音楽の道へ進みます」と書いて建築を放り出してしまったのです。
これにはお父さんもがっくりで、二人の間には大きな溝ができ疎遠になってしまいます。
そんないきさつから小田和正は、アーチストとしての地位が確立してからも実家にはあまり寄りつかなかったのです。
しかし、その間に時代は激変します。
実家である薬局の経営が傾き始めたのです。
一時は家屋敷が差し押さえされるほど厳しい時期もありました。
だが、父と長男は和正には一切連絡をしませんでした。
「こんなことで和正の音楽活動に影響が出てはいけない」
そんな配慮からでした。
このことを後で知った小田和正は、家族の思いやりにしみじみと感じ入ったのです。
これを機に和正と父の距離は一挙に縮まったのです。
2008年94歳でお父さんは他界します。
病室に和正が駆けつけるのを待っていたかのように「おお、来たか」そうつぶやき「少し寝る」と言い残しお父さんは永眠したのです。
自分を理解し、最後まで応援し続けてくれた父親とつながりを保てたのは、結局は音楽だ。
だから、父を供養し恩返しするには、自分は歌い続けるしかない。
改めて、そう誓ったのです。
小田和正が歌い続ける理由は、もう一つあります。
1998年7月のことでした。
彼は交通事故を起こします。
ゴルフコンペの会場へ向かって東北縦貫道を車で走っていました。
雨で80キロ規制だったのを100キロで飛ばしていましたが、スリップして車は横転。
運転席から後部座席まで吹っ飛場される大事故でした。
彼は全治4週間の大けがを負ったのです。
入院中、病院には多くのファンから励ましの手紙や贈り物が届きました。
これで、ファンあってこそ自分があると、改めてファンの有難さが心にしみたのです。
その時の思いも歌い続ける動機になっています。
「ファンがいる限り歌い続ける」
今年の9月18日に予定していた福岡でのライブもファンのことを考え、いち早く中止を決めています。
大型の台風が福岡県に接近すると予想され、お客さんの安全を最優先したためです。
この辺りにも小田和正のファン第一の姿勢が見て取れます。
ファンを心から愛する小田和正。まだまだ目が離せません。