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美川憲一の救世主はコロッケだった!二人の母と歩んだ波乱万丈の歌手人生とは?

波乱の人生

波乱万丈と言えばこの方の人生も、その言葉にぴったりです。

もう生い立ちからして、波乱に満ち満ちた歌手、美川憲一。

 

すい星のようにデビューしたかと思えば、ヒット曲が途切れて大麻に手を出し逮捕されるなど、歌手人生も波乱万丈そのもの。

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美川憲一が二人の母と過ごした豪邸を売却した理由とは?

歌手の美川憲一が東京都世田谷区にある豪邸を売却したのは、2021年12月のことでした。

1993年に新築し、当時『総額7億円の豪邸』と言われ話題になったものです。

 

高級住宅地として知られる世田谷区深沢に建つ邸宅は、70坪(約231平方メートル)の敷地を持ち地上3階、地下1階で、8LLDKの広さを誇ります。

 

床にはイタリアから輸入した大理石、外壁のレンガはカナダから取り寄せたものを使用し内装も外見も実に豪華です。

 

売却した理由は、本人曰く

「固定資産税や維持費がかなり負担だった」からです。

 

この豪邸では美川憲一本人と生みの母、育ての母の3人で暮らしていました。

しかし、新築からわずか3年後には育ての親である米子さんが死去します。

 

そして、生みの親も2006年には他界しました。

その後、本人もこのダッダ広い豪邸から引っ越ししていますので、空き家だったのです。

 

空き家であっても多額の固定資産税はかかり、これほどの豪華さ広さであれば、本人の言うようにかなりの維持費が必要だったことは間違いありません。

 

ではなぜ、空き家になってすぐ売らなかったのでしょう。

生みの親、育ての親と3人で住んでいたことからも推測できるように美川憲一の生い立ちはかなり複雑かつ辛いものでした。

 

そうして、その辛く厳しい境遇をはねのけて美川憲一は、芸能界で成功を収め、世田谷区の一等地に豪邸を建てて、二人の母を呼び寄せたのです。

つまり、世田谷の家には美川憲一が歩んだ人生、そのものが詰まっていました。

 

だから、家を手放しと波瀾万丈の人生や2人の母との思い出がすべて消えてしまうような感情に襲われたのではないでしょうか。

 

しかし、彼は売却を決断します。

売れた金額は建てた当時の3分の1ほどになってしまったそうです。

 

今『終活』という言葉が流行っています。

2022年5月で満76歳になった美川憲一ですが、自分はそんなことを考えるタイプではないとキッパリ言います。

 

90歳になるまでステージで歌え続けるのが彼の目標です。

豪邸売却で得たお金は、そのための資金だと言っています。

 

いわば、目標達成に向けた自己投資だというのです。

素晴らしい心意気だと思います。

 

さて、美川憲一がなぜ二人の母と同居するに至ったのか?

そして、彼はなぜ歌手を志したのか?

それらを知るためには生い立ちを詳しく知る必要があります。

 

彼の稀に見る、過酷な生い立ちを振り返ってみましょう。

美川憲一は1946年5月に長野県で生まれました。

 

彼の母親は妻子ある男性と交際していましたが、その男性との間に生まれたのが美川憲一だったのです。

二人は長野県から東京へ向かう列車の中で出会います。

 

母は

「結婚を前提に付き合ってほしい」

と男性から声をかけられたそうです。

 

今でいうナンパをされたのでしょう。

美川曰く、実の母親は女優にスカウトされるような美貌の持ち主だったとのことです。

 

電車の中でナンパされるのですから、相当に目立つ美人だったのでしょう。

こうして二人の交際が始まり、ほどなくして彼女は美川憲一を妊娠します。

 

男性に妊娠を告げると態度は一変しました。

そして、飲めば元気になるといって訳の分からない『薬』を渡したのだといいます。

 

だが、母も怪しんで飲みませんでした。

妻子ある男が妊娠した不倫相手に得体のしれない『薬を渡す』。

『八つ墓村』にでも出てきそうな恐ろしい話です。

 

そして、母のお腹が目立ち始めると男は行方をくらまします。

ひどい奴です、全く。

 

そうこうしているうちに赤ちゃんが生まれます。

母は赤子を抱いて、以前聞いていた住所を頼りに男を訪ねたのです。

長野からようやくの思いで探し当てた千葉県の住所にたどり着きます。

 

玄関を開けると小さな女の子と、その母親が出てきて来たのです。

そこでようやく妻子がいる男に騙された事に気が付いたと言います。

 

ぐずって泣く男の子を抱え、自分も泣きながら長野県に帰るほかなかった母でした。

どれほどショックだったことでしょう。

どれほどつらかったことでしょう。

 

彼女は長野へ向かう列車に揺られながら何を考えていたのでしょうか。

思えば思うほど暗澹たる気持ちになって、胸が押しつぶされそうになってしまいます。

 

この親子をさらなる不幸が襲うのです。

美川憲一が2歳の時、母は結核を患い入院します。

2歳になったばかりの彼は、母の姉夫婦に預けられました。

 

まだ幼い美川憲一のせめてもの救いは、母のお姉さんがとてもやさしかったことです。

実の子と全く変わらぬ愛情を注いでくれました。

だから、彼は中学生になって告白されるまで実の母親だと信じて疑わなかったそうです。

 

中学1年生と言えばとても多感な年頃になります。

だが、変にグレることもなく、育ての母に素直に感謝することができたのも、やさしく愛情豊かに育てられたからでしょう。

 

生みの親の苦しんだ日々と育ての親のやさしさが次第に美川憲一の心に沁みていきます。

彼は決心しました。

二人の母は自分の力で養うと誓ったのです。

 

そして、芸能界を入りを目指して、高校を1年で中退し東宝芸能学校に入学しました。

作曲家古賀政男さんの指導を受け、1965年に歌手デビューします。

 

デビュー当時は青春歌謡路線で美少年キャラクターでした。

しかし、歌はさっぱりヒットしません。

 

1966年のことでした。

岐阜市の柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄さんが作詞・作曲した『柳ヶ瀬ブルース』を歌うようにすすめられます。

 

だが、青春路線で売っていた彼に『柳ヶ瀬ブルース』は全くピンときません。

レコーディングに抵抗しますが、「ヒット曲もないくせにふざけるな!」と事務所社長に激怒されたといいます。

 

しぶしぶ歌うのですが、なんと120万枚を売り上げる大ヒットとなったのです。

本当に人生、何が起きるか予測がつきませんね。

これで、一躍スターダムへと駆け上がりました。

 

これはいわゆる『ご当地ソング』の走りとなり、その後、多くの歌手がタイトルに地名が付く歌を歌うようになります。

 

『柳ケ瀬ブルース』に続き、『新潟ブルース』『釧路の夜』をヒットさせました。

そこから7年連続紅白出場を果たすなど、一流歌手への仲間入りを果たしまますが、『さそり座の女』以降はヒット曲に恵まれません。

美川憲一の救世主はモノマネのコロッケだった!

ヒット曲に恵まれない美川憲一は、自分でつまずきの原因を作ってしまいます。

1977年10月に大麻取締法違反で逮捕されましたが、起訴猶予となりました。

 

1980年にはデビュー15周年記念リサイタルを主要都市6カ所で開催します。

しかし、1984年には2度目の大麻取締法違反で逮捕されてしまうのです。

今回は初犯ではないので懲役1年6か月、執行猶予3年の刑が言い渡されました。

 

これによりテレビの出演回数が激減し、スナックでの営業や地方の温泉回りなどで食いつなぐことになります。

再ブレークしたのは、1980年代も終盤に入ったころでした。

 

世間に『ものまね』ブームが押し寄せます。

ものまねタレントの第一人者だったコロッケによる美川憲一のマネが大うけするのです。

この人気でテレビ出演も解禁になります。

 

1990年にはちあきなおみと共演した金鳥『タンスにゴン』のCMでしゃべった

「もっと端っこ歩きなさいよ」

大きな話題を呼びます。

 

そして1991年の『第42回NHK紅白歌合戦』に17年ぶりの再出場を果たしたのです。

この時は復活の立役者であるコロッケと『さそり座の女』をデュエットし紅白を大いに盛り上げました。

 

その後は『おねえキャラ』にますます磨きがかかり、ワイドショーやバラエティ番組に引っ張りだこになります。

 

番組中でしばしば発する『おだまり』が流行語にまでなったものです。

美川憲一は『しぶとく生きる』を座右の銘にしています。

 

この言葉はオフシャルブログのタイトルにもなっています。

彼は、幾多の苦難を乗り越え、これまで十分しぶとく生きてきました。

 

彼の生きざまは、不遇の子ども時代を過ごした人々の希望であり、目標にしている人もいるかもしれません。

 

だから、二度と大麻などに手を出さないでください。

美川憲一、90歳まで『しぶとく』歌い続けることを心から願っています。

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