スポンサーリンク

萬田久子の愛を貫いた壮絶な人生!ユニクロの柳井正も惚れたパートナーとは?

波乱の人生

いつまでたってもスレンダーな体形が衰えることのない萬田久子。

今も幅広い人気を集めテレビドラマを中心に活躍する女優です。

 

最近では『7人の秘書』で都知事役を『元彼の遺言状』では専務役を演じていました。

知的で重厚な役を演じられる貴重な女優として存在感を示しています。

スポンサーリンク
アドセンスディスプレイ

ユニクロの柳井氏を号泣させた萬田久子のパートナーとは?

萬田久子は1958年4月13日大阪府大正区生まれで今年64歳になりました。

身長167cmで体重は47㎏ですから、60歳を超えた女性とはとても思えません。

 

1981年に公開されたスリーサイズはバスト83㎝、ウエスト59㎝、ヒップ87㎝です。

これが40年以上たった今もほぼ変わっていないというのですから驚きます。

 

彼女は大阪府立港高等学校を卒業後、帝塚山短期大学へ進学しました。

その短大在学中の1978年(昭和53年)にミス・ユニバース日本代表に選出されます。

 

その国際的スレンダーなボディに知的な雰囲気をまとって上京し、芸能界へ飛び込みました。

大阪出身らしい芸名を考えていましたが、そんな暇もないほど早々にテレビ出演が決まります。

 

1980年(昭和55年)のことでした。

NHKの朝ドラ『なっちゃんの写真館』から声がかかり本名・萬田久子のまま女優としてデビューを飾ります。

 

ここまで見るととても華やかで順風満帆な人生です。

この、華やかな彼女の歩みをよく覚えていてください。

 

さて、場面は一転します。

2011年8月のことです。

青山葬儀所である告別式が執り行われました。

 

式には2400人もの人が集まり、能界からは津川雅彦、西田敏行、郷ひろみなど多数が参列しています。

スポーツ界からは野球の王貞治、星野仙一、ゴルフの青木功など実に多彩な顔触れが参列しました。

 

出棺の際には、伝説のトランぺッター日野皓正によるトランペット演奏が弔問客の涙を誘います。

そして多くの弔問客の脳裏に焼き付いたのは、『ユニクロ』を展開するファーストリテイリングCEO柳井正の弔辞でした。

 

遺影に向かって柳井さんは呼びかけます。

「佐々木さん」「僕は、あなたを愛していました」

 

そして柳井正は人目も憚らずオイオイ声をあげて泣いたのです。

普段から緻密で合理的な言動で知られその経営姿勢からはとても想像できない姿でした。

 

男が男に向かって「愛していました」と信じれれないような言葉を発し、号泣までしたのですから、周囲に強烈な印象を残したことは間違いないでしょう。

 

喪主席で気丈に振舞っていた萬田久子もこの弔辞を聞き、思わず目頭をハンカチで何度もぬぐっていました。

 

柳井さんから「佐々木さん」と呼びかけられた故人こそ、長年萬田久子のパートナーだった佐々木力(ちから)氏です。

 

大学在学中にミスユニバース日本代表になり、女優を志望すれば、すぐにお呼びがかかった

華やかで順風だった萬田久子の人生。

佐々木力氏との出会いによって激変した萬田久子の人生!

女優として順風満帆に滑り出した萬田久子でしたが、しかし、佐々木力氏との出会いによって激変します。

彼女の人生はその後、佐々木力氏抜きには語れないものになっていくのです。

 

1980年の朝ドラ『なっちゃんの写真館』で女優デビューした彼女ですが、

翌年の映画『夏の別れ』では大胆なヌードを披露して大きな話題を呼びました。

 

そして、女優として実力をつけて一流スターへの道を歩みはじめた28歳になったばかりの頃、佐々木力氏と出会います。

 

彼は当時、アパレルメーカーの社長をしていて、彼女よりも7歳年上で妻子がいました。

つまり、二人は不倫の関係だったのです。

一流女優として売り出し中の彼女は世間から『略奪愛』と大バッシングを浴びます。

 

その苦しみは相当なもので、円形脱毛症ができるほどでした。

1987年には佐々木氏との子どもを妊娠します。

 

彼女は芸能界引退も覚悟して出産のため渡米しました。

無事男児を出産して帰国します。

萬田久子はここで並の女性ではないことを世間に知らしめました。

 

「未婚の母の状態はとても快適です」

「自信があるから産んだんです』

帰国した記者会見でこのように、堂々と述べたのです。

 

だが、世間は甘くありません。

バッシングは続き、芸能界復帰は困難かと思われました。

 

しかし、批判に毅然と対応する姿に映画界が注目します。

1989年には早くも映画出演のオファーが入りました。

 

オファーに応え『悲しきヒットマン』で三浦友和の妻役を好演しています。

続いて1991年には『略奪愛』でなんと夫を略奪されてしまう女性を演じました。

見事な女優魂の発揮です。

 

『演技が好きだったわけではない』と萬田久子は当時を振り返りますが芸能界復帰に賭けた思いは並々ならぬものがあったのでしょう。

 

母親となってそれまでとは違った視点を持ち、考え方も変わった彼女は演技の幅を広げます。

映画での好演が認められ,やがてテレビドラマ出演の話が続々と舞い込むのです。

 

2時間もののサスペンスドラマには欠かせない存在となり、時代劇でも活躍をします。

こうして、いつしか彼女は主役も脇役もできる実力派女優に成長して行ったのです。

 

1994年にはようやく不倫相手、佐々木力氏の離婚が成立しました。

だが萬田久子は『本当の愛というのは形じゃない』と入籍せずに事実婚を継続したのです。

 

そして佐々木氏の前妻の子供3人と一緒に旅行するなど気配りや交流も欠かしませんでした。

このような彼女の愛を貫く強い意志と姿勢が思わぬ形で報われたこともあります。

 

2009年、佐々木力氏の経営する会社が買収された際には株主だった彼女の懐に約10億円が転がり込みました。

しかし、2011年、佐々木力氏は胃がんのため60歳で急逝します。

信じがたいパートナーの裏切りとは?

萬田久子を信じられない出来事が襲います。

30年以上も信じ切っていた病床のパートナーからあまりにも衝撃的な告白を聞くことになるとは全く想像もしていませんでした。

 

亡くなる3週間前に佐々木から愛人と隠し子の存在を打ち明けられたのです。

にわかには理解できないくらい頭は混乱し、心に受けたショックは言葉では表せないほどでした。

 

しかし、彼女は本当に強い女性です。気持ちを立て直します。

当時、金曜レギュラーを務めていた『笑っていいとも!』の8月12日放送分を急遽欠席し青山葬儀所で喪主を務めたのです。

 

その後、9月いっぱいを以って番組を降板していますがこの欠席が原因だった可能性が指摘されています。

30年生活を共にしたパートナーの彼には愛人がいて隠し子まで存在した。

 

ハッキリ言ってしまえば、佐々木力氏は亭主としても父親としても、決してほめられる人ではありません。

 

しかし、葬儀で弔辞を読んだ柳井社長が故人に向かって「あなたを愛していました」と呼びかけた時、彼女は胸が震えたと言います。

 

その強い言葉にこそ、佐々木力氏が多くの人に慕われた魅力が凝縮されているとの想いがこみ上げてきたようです。

まあ、ここまで萬田久子がほれ込むのですからやはり人間的には魅力ある方だったのでしょう。

実の息子との絶縁、そして和解

実は彼が亡くなる前年には、もう一つ大きな出来事が萬田久子を襲っていました。

佐々木力氏との間に授かり溺愛していた一人息子がデキ婚をしてしまうのです。

 

息子さんが23歳で結婚相手は8歳年上でした。

萬田久子は二人の結婚に猛反対します。

 

だが、彼は全く耳を貸しません。苛立った彼女は言ってはいけない一言を発してしまいます。

「その女は財産狙いじゃないの」

これにより親子は完全に断絶してしまったのです。

 

そこまで言われて、息子さんと結婚した女性も意地があるのでしょう。

夫婦が住んでいるマンションは彼女が購入したようです。

 

2015年には息子さんがある雑誌の直撃取材を受けました。

その時、母親である萬田のことを「あの人」と呼び、「話すことはありません」と表情を強ばらせたといいます。

 

これはもう、親子関係の復活は無理かなと思われたものです。

しかし、5年以上続いた絶縁状態は萬田久子の方から歩み寄り、2018年ころには和解に至ったのです。

 

今では息子さん夫婦に3人の孫がいます。

彼女も今は、その3人の孫に夢中のようです。

 

冒頭で述べたように萬田久子は今も元気いっぱいに活躍しています。

彼女の交友関係はとても幅広く生前の安倍晋三元首相とも会食する仲でした。

 

9月27日の国葬にも参列しています。

1978年にミス・ユニバース日本代表に選ばれてから期待を裏切らずに、ずっときれいでいたいと、思い続ける萬田久子。

 

いまだに人目を引く彼女の容姿は衰えることを知りません。

きれいで、しなやかで、芯の強い萬田久子、まだまだ、頑張ってください。

 

タイトルとURLをコピーしました