あの小林麻美が2016年7月20日発売のファッション誌「ku:nel(クウネル)」9月号の表紙を飾りました。
長い沈黙を破って芸能界に復帰したのです。
昭和50年から昭和60年にかけて青春を過ごした世代にとって、小林麻美は特別な存在ではないでしょうか。
1953年生まれで、現在は69歳ですが16歳の時にテレビCMで芸能界にデビューしました。
スレンダーで都会的な雰囲気をまとい憂いを含んだ瞳から漂う陰のある表情が人々のハートを突き刺します。
このエキゾチックともいえる魅力が男女を超えて人気を集め、あっという間にスターへの階段を駆け上がりました。
テレビドラマや映画でも、その魅力は存分に発揮されます。
特に映画『野獣死すべし』では女優として高く評価されました。
1984年(昭和59年)には、イタリアの曲をカバーした『雨音はショパンの調べ』が大ヒットするなど歌手としても活躍します。
その年の8月25日には『哀しみのスパイ』がリリースされました。
作詞が松任谷由実で、作曲が玉置浩二という豪華な布陣で固めます。
この新曲のリリースにあたり、プロモーションビデオが作成されました。
小林麻美はそのビデオでどこか儚げで、ミステリアスな女スパイを演じています。
そして、ミステリアスな印象そのままに、彼女は忽然と芸能界から姿を消してしまったのです。
噂が噂を呼び、ミステリアスは日々深まって行くのでした。
福山雅治が結婚した時に世の女性たちの間で「福山ロス」が流行語にまでなりました。
だが、あの当時の男どもが感じた「小林麻美ロス」は「福山ロス」をしのぐほどだったと言えるでしょう。
理由がわからないので喪失感は徐々に広がっていき、長く続いたことも特徴でした。
そのミステリアスな、小林麻美が活動を再開してからすでに6年を過ぎました。
ここにきて彼女の人気が、じわじわと上昇しています。
彼女は復帰後、雑誌などを通じて過去を含めいろんなことを語り始めました。
彼女の言葉から明らかになった突如、芸能界から消えたミステリアスな過去。
ご主人である田辺昭知との出会いから苦悩の恋人時代と結婚に至った理由。
そして、現在の生活など彼女が語る真実を詳しくお伝えします。
田辺昭知とは彼女が20歳の春に、事務所の社長と所属タレントとして出会いました。
その半年後には、二人の付き合いが始まります。
小林麻美は、15歳年上の田辺昭知を本当に好きで心から慕っていたのです。
格言好きだった彼が、付き合って間もなく言います。
「人の一念岩をも通す、というから君も何かを貫き通してみなさい」
この言葉を聞いて小林麻美は思いました。
「じゃあ、この人に貫き通してみようかな」
田辺昭知は、なんという男でしょう。
あのかわいい盛りで20歳になったばかりの小林麻美に
「この人に貫き通してみようか」
なんて思わせるのですから、もう溜息しか出ません。
小林麻美は言います。
「実は10代のころはとてもモテたんですよ」
「自分で言うのもなんですが。次から次にボーイフレンドができて」
彼女はとても、正直でおおらかな人なのですね。
このような発言を聞いていると、テレビで活躍していた20代の頃のイメージとはかなり違います。
まあ、でもモテたのは当たり前のことでしょう。
そして彼女は続けます。
「そのままなら恋多き女になっていた要素はあったはずです」
だが、田辺昭知と付き合い始めてからは他の男には全く興味がなくなってしまったといいます。
だが、それほど惚れた男性と恋に落ちてもすべてが順調で、幸せにまっしぐらと行かないところが人生の複雑さ、辛さ、おもしろさです。
二人の交際中は辛いことも多かったのだといいます。
事務所の社長と所属タレントの恋愛は、芸能界ではご法度です。
絶対に秘密にしなければなりませんでした。
ふたりとも独身ですから、世間の常識から言えば何の障害もありません。
だから、サッサと結婚してしまえば、事務所社長と所属タレントの恋愛もそれほど批判されずに済んだはずです。
だが、田辺昭知の信条が彼女を苦しめます。
彼は結婚しない、子どもは持たない主義だったのです。
したがって、何年付き合っても結婚は望めません。
30代半ばになって小林麻美の悩みは深まります。
子どもは持てないかもしれない、このままの人生でいいのだろうか、との思いが湧き上がるのです。
だが一方で、そういう人を好きになったのだから、子どもを持たない人生もあるのかなとの考えも心をよぎります。
そして、子どもを持たない人生を選択しようと思った矢先に妊娠したのです。
「ひとりでも絶対に産もう」
と彼女は決意を固めます。
それしか選択肢を思いつかなかった彼女は、37歳で未婚のまま出産しました。
彼女の決意が田辺昭知の心を変えます。
子どもが授かり、二人は正式に結婚することになったのです。
付き合ってから入籍するまでに17年の歳月が流れていました。
この長い間には、死にたいとまで思い悩んだこともあるようです。
それでも、小林麻美は田辺昭知に一途だったことを隠そうともしません。
そして、田辺もまた彼女には心底惚れていたのではないでしょうか。
だから子どもが生まれると自分の主義主張を曲げて結婚と父親になることを選択したのだと思います。
惚れた女とその子どもは守らなければ男が廃る、そう考えたのでしょう。
40代は子育てに夢中だったと彼女は言っています。
お受験を経験し、PTAの役員を引き受けたこともあるようです。
そして、今が最も幸せだと彼女は言い切ります。
素晴らしいですね。
70代に手が届く年齢になって「今が一番幸せ」。
そう言えるのは、年齢を積み重ねながら自分を磨いてきた結果でもあります。
田辺昭知と言えば、堺正章や井上順たちと一緒に活躍したグループサウンズ『ザ・スパイダース』のイメージしかありません。
ドラムを叩き、地味な感じでした。
しかし、小林麻美の話を聞いているととても素晴らしい夫婦であり、素敵な男性だと思わずにはいられません。
小林麻美は20代の頃、彼から言われた忘れられない言葉があるそうです。
二人で映画『死刑台のエレベーター』を観た直後のことでした。
当時60代だった主演女優のジャンヌ・モローが話題になり、彼は言います。
「若さなんてあっという間になくなるんだぞ。そんなものにしがみついていてはだめだ。
人間的な魅力っていうのは60代になっても80代になってもなくならない。
だから、魅力を磨けるように日々頑張るんだ」。
彼女は今もこの言葉を意識しながら、日々の生活を送っているのだといいます。
ミステリアスに芸能界から姿を消した小林麻美は憂いを含んだ都会的雰囲気を残しつつ、内面は大きく成長していたのです。
では、そんな小林麻美さんを復帰させた動機は何だったのでしょうか?
小林麻美が還暦を迎える頃には一人息子が就職します。
母として、妻としての役割が徐々に少なくなっていくのを感じていました。
そんなある日、彼女のお母さんが亡くなります。
実家で遺品などを整理していたら、クローゼットに仕舞い込んでいたサンローランの洋服が180点も出てきたのですからびっくり。
これを立ち上がったばかりの日本服飾文化振興財団に寄付することにしました。
匿名にしようと思ったが、周囲に説得されて「小林麻美」の名前で寄贈することにしたのです。
それを記念して財団がイヴ・サンローランのショーを開催するのですが、彼女は式典での挨拶を依頼されます。
何十年かぶりかで表舞台に立ちました。
それがきっかけで雑誌『クウネル』から話が持ち込まれ表紙を飾ることになったのです。
これまでも仕事の話は何度もありました。
だが、夫の反対や子育てもあり、すべて断っていました。
今回はご主人の反対もなかったのだそうです。
彼女は好きな言葉として「秘すれば花」をあげています。
この言葉について語っていることが、また彼女らしくて意味深です。
「何事にも陰と陽、つまり光と影がある。
人として正直であることは必要だけれど、隠された部分、秘めた中にこそ大切なものがある。
そんなミステリアスな部分が魅力に繋がると思います」
やっぱり、小林麻美は憂いを含んだ陰とミステリアスが似合う女性です。
まだまだ、魅力いっぱいですね。
皆さんも、小林麻美に触発されて若い方はもっと青春をそしてある年齢に達した方はあの、輝く青春を取り戻しましょう。