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中村吉右衛門「どうしても死にてえのなら、一年後にしてごらん」鬼平のセリフが泣ける!

波乱の人生

中村吉右衛門さんが演じた鬼平犯科帳には数々の名言が登場します。

「死ぬつもりか。それはいけねえなあ。どうしても死にてえのなら、一年後にしてごらん。

一年も経てば、すべてが変わる。人間にとって時の流れほど、強い味方はねえものよ」

 

このセリフには、とても印象深いものがあります。

若かりし頃、死ぬほど悩んだ中村吉右衛門さんが言ったからこそ、心に響いたのかもしれません。

 

日本を代表する伝統芸能である歌舞伎俳優一族の名家に生まれ、文化勲章を受章し有名大学の特任教授を務め、最後は人間国宝にまでなった中村吉右衛門。

 

何の不足もない実に満たされた一生だったろうと想像するが、彼の人生を調べてみると生まれながらにして幸せな人などいない、と思わざるを得ません。

 

幸せだけの人生なんてありえない。

そんな風に思えて仕方ありません。

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華やかな経歴の中で、運命に苦しんだ中村吉右衛門の人生とは?

中村吉右衛門の経歴は実に華々しい。

1944年(昭和19年)5月22日生まれ。

 

実の父は歌舞伎の8代目松本幸四郎、後の初代松本白鸚で、次男として生まれました。

兄には二代目松本白鳳がいます。

10代目松本幸四郎は甥で、松たか子は姪です。

 

生まれた時の名は「藤間久信」。

幼くして、初代中村吉右衛門の養子になりました。

 

4歳の時、中村萬之助の名で初舞台を踏みます。

1966年(昭和41年)には22歳の若さで二代目中村吉右衛門を襲名しました。

 

2011年(平成23年)には、重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されます。

関西学院大学客員教授を務め、日本芸術院会員にも就任していました。

数々の勲章も授与されています。

 

平凡な庶民には縁遠い華麗なる家系であり、実に華々しい実績と経歴の持ち主です。

あの『鬼平犯科帳』など多くのテレビドラマにも出演し、一般的には時代劇の人としてのイメージが強く、昭和・平成の人気スターでした。

 

はたからは、いかにも順風満帆な人生に見えてしまいます。

ところがです、その中村吉右衛門が自殺を真剣に考えたことがあるというのですから穏やかではありません。

 

驚きと言ってよいでしょう。

阿川佐和子との対談でこのように語っています。

「僕はアブナイ性格で、一度は死ぬことを考えました」

 

そして

「一番強く歌舞伎役者を辞めたいと思ったのはいつ頃ですか?」

という質問には「37、8歳の頃」と答え、40歳くらいまでは、いつもそう思っていたと言います。

 

3年から4年近く、本当に思い詰めていたようです。

日本経済新聞の『私の履歴書』ではさらに緊迫した場面を具体的に描写しています。

 

自殺を図ろうと

「ガス管をくわえたことがある」と告白したのです。

あの『鬼平』が自殺を企て、ガス管をくわえるところまで行ったというのですから、これは衝撃です。

 

人間とは、本当に悩みが尽きないものだとつくづく思わずにはいられません。

彼がここまで悩み追い詰められた理由は、その生まれと育ちを知らなければ理解できません。

もう少し詳しく彼の育った環境を見ていきましょう。

 

先ほど言ったように4歳で市川萬之助として初舞台に立った彼は、それからすぐに初代中村吉右衛門の養子になります。

彼の母、正子さんは初代中村吉右衛門の一人娘でした。

 

ご存じのように歌舞伎界は女人禁制で男でなければ舞台に上がれません。

そこで初代中村吉右衛門は正子さんに婿養子を取ろうと考えていました。

 

だが、意に反して娘は同じ歌舞伎一家である8代目松本幸四郎の藤間家へ嫁ぐことを選択します

そこで、初代吉右衛門は結婚を認める代わりに条件を提示します。

「男の子が二人生まれたら、一人を必ず自分のところへ養子に出すこと」

 

それを正子さんと藤間家は受け入れました。

こうして生まれたのが次男の2代目中村吉右衛門だったのです。

 

生まれる前から養子縁組が決まっているなんて、戦国時代から江戸時代までの武家社会だけではありません。

昭和時代にも厳然と存在していたのです。

いや、令和の今もあると思います。

 

この宿命を背負った生い立ちが、彼に大きなプレッシャーを与えたのです。

中村吉右衛門が活躍し始めた昭和30年代から昭和50代の歌舞伎は今ほど注目されていませんでした。

 

ですから、生活のために映画やテレビに仕事を求める歌舞伎役者がとても多かったのです。

中村吉右衛門もその一人で、歌舞伎の本家である松竹から東宝に移ってまで、映画出演にこだわりました。

 

特に彼が中学だったころは歌舞伎人気は底辺ともいえる時代でした。

そこに颯爽と現れたのが石原慎太郎と裕次郎兄弟でした。

 

兄である当時の市川染五郎と彼・中村萬之助は石原兄弟にとても憧れたのだと言います。

この影響で二人は思い余って、母である正子さんに歌舞伎役者を辞めたいと言ったこともありました。

 

そんな中村萬之助に当たり役が舞いこみます。

山本周五郎原作の『さぶ』が歌舞伎化され『さぶ役』を演じます。

 

演技を激賞されますが彼は悩みました。

「はまり役と言われ、脇の三枚目ばかり演じるようになってしまうのか」と。

 

毎晩のように精神安定剤とジンのストレートを一緒に飲みほして、とうとう夜中に血を吐いて倒れ救急車で運ばれる始末です。

 

なぜ、演技が評価され拍手喝さいのハマリ役に悩んだのかと言えば、それこそまさしく彼の運命によるプレッシャーだったのです。

 

名跡、中村吉右衛門を継がなくてはならない人間が新作劇で笑いを取る役ばかり演じて、それで満足するのか?

と、自問自答を繰り返しました。

 

しかし、誰にも理解してもらえず、未成年なのに薬と酒の力を借りるまでになったのでした。

彼の苦労はこれだけにとどまりません。

 

歌舞伎役者としての中村吉右衛門を継承するためには東宝にいたのでは無理だと考え、頭を下げて元の松竹に出戻ります。

しかし、そこで待っていたのは『新参者』としての扱いでした。

 

同じ年頃の御曹司たちは次々と年齢やキャリアに相応しい役に挑戦していく一方、彼は脇役や年代に合わない老け役をつとめなければならなかったのです。

 

しかし吉右衛門は腐らずに稽古に励み先輩たちの舞台を見て、歌舞伎役者としての修業をひたすら地道に積み重ねていきました。

 

こうして苦労を重ね、歌舞伎役者としての実力を次第に周囲は認めるようになります。

役者はやはり演技力です。

 

テレビからも声がかかるようになり1980年には時代劇『斬り捨て御免!』に主演し花房出雲を演じました。

この役が当たり1986年にはNHK新大型時代劇『武蔵坊弁慶』で主役の弁慶を好演します。

 

その年の暮れには第36回NHK紅白歌合戦に審査員として出演しました。

こうして、中村吉右衛門の名前は全国的に売れていったのです。

そして、ついにやってきます。

鬼平犯科帳はの鬼平は現代にも通じる理想の上司像だ!

1989年、池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵役です。

当時、彼は45歳になっていましたが、実は5年前の40歳の時に『鬼平犯科帳』への出演依頼がありました。

 

だが、彼は実の父親である8代目松本幸四郎が演じた貫禄ある『鬼平』が頭から離れず、自分にはまだ早いと断ったことがあったのです。

 

しかし、ある本で実際に長谷川平蔵が『火つけ盗賊改』の役職に就いたのが45歳だったと知り、そろそろ同じ年の自分がやってもいいかと考え、引き受けたのだと言います。

 

『鬼平』役をやってくれと中村吉右衛門に声をかけたのは、原作者の池波正太郎でした。

この時代劇は素晴らしかったですね。

いろんな俳優さんが鬼平を演じましたが、やはり、中村吉右衛門が一番はまっていたのではないでしょうか。

 

小悪人をいさめる慈悲深い目。

大悪党を憎み、必ず捕まえてやると決意して「あの畜生め!」の迫力に満ちた表情とセリフ。

 

そして、部下の不始末や自分の失態を詫びるため懐に辞表を忍ばせて上司である京極備前守を訪れた時の押し殺したしゃべりと立ち居振る舞い。

 

どれを取ってもほれぼれしますね。

だから、部下や密偵の忠誠心も半端ではありません。

あのドラマには一種の組織論に通じるものがありましたね。

 

言ってみれば長谷川平蔵こそ、現代に求められる上司像です。

冷静沈着、そして熱意と責任感。

大胆であり細心であり、功を焦らない忍耐力と抜群の行動力。

 

冷と熱、剛と柔、人情と非情。

そして、生真面目と遊び心。

相反する論理と感情を巧みに使い分ける凄さですね。

 

名家に生まれ、養子に出されて名門を継ぐために苦しみ、悩んだ中村吉右衛門だから演じ切れたと言えます。

家を継ぎ、伝統を守るのは、かくも過酷なものなのか、庶民には計り知れません。

 

だが、奈落を覗いた吉右衛門だからこそ、発揮できた深みと迫力ある演技だったことも間違いないでしょう。

中村吉右衛門はフランス女性と恋に落ちて歌舞伎役者をやめる寸前だったった?

さて、最後に中村吉右衛門若かりし頃の秘話を一つ披露します。

18歳の頃でした、彼は美しい女性と恋に落ちます。

相手は何とフランス人です。

 

彼は真剣に結婚を考えました。。

しかし、彼女は家庭の事情でフランスへ帰らなければなりません。

 

引き留めたいけれど、18歳の彼にはどうすることも出来なかったのです。

やがて彼女は帰国してしまいます。

彼は忘れようにも忘れることなど、到底無理。

 

若い吉右衛門は決心しました。

彼女を追いかけてフランスへ行こうと。

 

養父はすでに亡くなっていたので、実の父に相談します。

歌舞伎役者をやめて彼女を追いかけ、フランスに行きたい。

 

それを聞いた父は意外にも反対しませんでした。

「行きたければ、どこへでも行ってしまいな」

しかし、後ろを向いてそのように言う父の背中はとても寂しそうでした。

 

「ああ、俺を必要だと思ってくれているんだなあ」

そう感じて、中村吉右衛門は彼女を諦めフランス行きを思いとどまったのです。

 

やはり、彼は何に対しても、一途に打ち込む男だったのでした。

はあー、ため息が出ますね。

豪快な中に哀愁漂う中村吉右衛門の演技がもう見られないとは。

 

鬼平はこういっていましたなあ。

「死ぬつもりか。それはいけねえなあ。どうしても死にてえのなら、一年後にしてごらん。

一年も経てば、すべてが変わる。人間にとって時の流れほど、強い味方はねえものよ」

 

このセリフには泣けました。

合掌

 

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