樹木希林さんの名演技は若いころから評判でした。
ドラマ、舞台、映画、CMにと印象に残る数々の名演技。
そして、彼女は多くの名言も残しています。
そんな彼女も晩年は晩年は病魔と戦う日々が続いたのです。
名女優、樹木希林さんの役者人生と名言を振り返ります。
樹木希林は若いころから印象に残る作品を残していた!
樹木希林さんは実に個性的で素晴らしい女優さんでした。
個性的というよりも、女優としては珍しい「破天荒な演技」と言った方がピッタリかもしれません。
彼女は『樹木希林と言えばこれっ!』と誰でもすぐに思い出すような、印象深い作品を数多く残しています。
例えば、TBSの人気ドラマ『寺内貫太郎一家』では30代半ばでおばあちゃん役を演じました。
この時は頭髪を脱色し、劇中では指ぬき手袋を外さないなど老婆役に徹し、30代の不自然さは全く感じられなかったものです。
ドラマのメインともいえる寺内家の主、貫太郎が母屋で暴れだすと、さっさと自分の住む離れに駆け込みます。
そして、仏壇の横に貼ってある沢田研二さんのポスターを眺めて「ジュリーィィィ!!」と叫びながら手とお尻を振って悶えるシーンは大きな話題となったものです。
半世紀近くたった今でもあのシーンを記憶している方はきっと多いことでしょう。
CMでも強い印象を残しました。
1979年から出演したピップエレキバンのCMではピップフジモト会長との掛け合いがお茶の間に流され大うけしました。
そして彼女の決定版と言えるほど長い間、人気を誇ったCMが『フジカラープリント』です。
1978年から放送され、岸本加世子さんとのやり取りが流行語になるほどヒットしました。
日本では知らない人がいないと思われるくらい人気だったのは記憶に新しいところです。
「美しい人はより美しく、そうでない方は…」
「そうでない場合は?」
「それなりに映ります」
このCMには40年にわたって出演し続けています。
1961年に文学座の第一期研究生となった彼女は1964年21歳でTBSドラマ『7人の孫』に悠木千帆
という芸名で出演し、演技力を認められ人気女優の階段を駆け上がります。
『7人の孫』で主役を務めた森繁久彌さんはこのように言って彼女をほめています。
「あの子は頭がよかった。人並外れてよかった。芝居に役に立つ頭の良さです」
「いちばん感心するのはどんな奇妙な恰好をしても、どんな嫌らしい役をやっても、演技を終えると可愛らしさを見せる女の子に戻ることです」
日本を代表する名優にここまで褒められるのですから若い時から本当に素晴らしい女優さんだったのです。
樹木希林の結婚は二度とも失敗だった?
『7人の孫』で人気が出始めたころ彼女は同じ文学座の岸田森(きしだしん)さんと結婚します。
岸田森さんはまだ無名に近い俳優だったのですが、そんな格差など物ともしない仲睦まじさを二人は周囲に見せつけます。
「仕事を放り出しても一緒にいたい」
と口をそろえてラブラブをアピールしました。
だが、季節の移ろいと男女の気持ちの変化はだれにも止めることはできません。
そんな二人も1968年には離婚してしまいます。
岸田森さんはその後、怪奇映画や特撮もの時代劇などで個性派として重用されますが1982年43歳の若さで他界してしまいます。
個性派でならした名女優・樹木希林さんの私生活は、これぞまさに波乱万丈と言える人生でした。
その象徴がロック歌手、内田裕也さんとの関係です。
二人は1973年、彼女が30歳の時に再婚しました。
しかし、毎日のように内田裕也さんが暴力を振るい、結婚1年半で早くも別居します。
内田さんは一度暴れだすと手がつけられなくなってしまいます。
樹木希林さんは何かあった時には渋谷警察署にすぐ来てもらえるよう相談していたといいますから、とても普通ではありません。
暴れる度に包丁を持って室内をメチャメチャにするのです。
それで彼女は何度も包丁を買いに行きます。
金物屋さんは不思議がりました。
「お宅はどうして、包丁がこんなに壊れるんですか?」
別居後に二人が会うのは1年に一回程度でした。
まるで、七夕の彦星と織姫のような夫婦生活を送っていたのです。
だが、やはり男と女ですね。1976年には二人の間に娘の内田也哉子さんが誕生します。
これで夫婦仲も丸く収まるかと思われたのですが、なんと1981年には夫の内田裕也さんが勝手に離婚届を提出してしまいます。
これを知った樹木希林さんは離婚を承諾せず訴訟を起こします。
彼女が勝訴し離婚は不成立となりました。
離婚に応じなかった理由を彼女はのちにこのように語っています。
「生活費は1円ももらったことないけど、だからといって別れるのがいいとは限らないの。
破天荒さというか破壊性は夫よりも私のほうがあります。
夫がいることでケンカっ早い私が徐々に徐々に修正されたのです。
1人の人間の存在が”重し”になっています。
ありがたいことです」
う~ん、凡人には難しい話ですが、ちょとだけ分るような気もします。
彼女は亭主には決して恵まれたと言えませんが、娘と娘婿には恵まれました。
だがらプラスマイナスでは、均衡が保たれた人生だったのではないでしょうか。
樹木希林さんが残した数々の名言と人生哲学とは?
内田裕也さんと離婚しなかった理由を聞いていると樹木希林さんは、天才的な演技者と平凡な女性の間を行ったり来たりしていたのかも知れませんね。
その心の振れ幅こそが、稀有な個性派女優の基盤となっていたのではないでしょうか。
彼女が残した数々の名言のなかに、その哲学と慎ましさを垣間見ることができます。
今回は特に彼女の実生活を色濃く表した二つの言葉に焦点を当ててみました。
一つはこの言葉です。
「モノがあるとモノにおいかけられます」
彼女は長靴を含めて靴は3足と決めていたといいます。
2016年6月号の婦人公論でこのように語っています。
「長靴は40年ほど前に業務用のものを買って履き続けていました。
それが先日履いているうちに中がちょっとしみてきてしまって。
仕方なく出先で別の長靴を買ったので、一瞬だけ家に靴が4足ある状態になりましたけど」
そのように言いながら笑っていたそうです。
洋服についても驚きの発言をしています。
「洋服は、自分で買ったものはほとんどありません。どなたかからお古を譲っていただいて、それを着やすいように自分で胸ポケットを
つけてみたり、ちょっとリメイクして着ています」
スゴイですね、洋服は買ったことがないというのですから。家具についても同じことを言っています。
「家具にしても同じです。どなたかが、もういらなくなったものをいただいて使っています」
「もともとケチだということもありますけど、一度使い始めたら、それをできるかぎり活かして、最後まで使い切って終了させたいんです」
彼女のような経済的に困っているわけでもない人が有言実行するから素晴らしいのです。
彼女の人生哲学は続きます。
「モノを持たない買わないという生活は、いいですよ。部屋がすっきりして、掃除も簡単。
暮らしがシンプルだとストレスがなく、気持ちもいつもせいせいとしていられます」
「着飾っても甲斐がないし、光りものも興味がありません」
そういえば、彼女が宝石を身に着けているのは役柄でもあまり観た記憶がありませんね。
そして、名言が生まれます。
「モノがあるとモノに追いかけられます。
持たなければどれだけ頭がスッキリするか。
片づけをする時間もあっという間です」
次がこの言葉です。
「人生なんて自分の思い描いた通りにならなくて当たり前」
いつも「人生、上出来だわ」と思い、うまくいかないときは「自分が未熟だったのよ」でお終いにする。
そのように生きてきたと彼女は言っていました。
彼女はまた、失敗やつまずいた時に自分と他人を比較するのは愚の骨頂だと言います。
「本人が本当に好きなことをして、『ああ、幸せだなあ』と思っていれば、その人の人生はキラキラ輝いていますよ」。
とても素敵な言葉ですね。波乱万丈を生きた彼女ならではの説得力に満ちています。
さて、彼女は「ケチだった」と自分でも言っていますが、遺した財産がまたスゴイのです。
港区や渋谷区の一等地に自宅や娘夫婦の住まい、賃貸物件などを合わせて10億円以上の不動産を遺しています。
しかも、不動産の名義のほどんとは娘の也哉子さんと養子縁組して戸籍上の息子となった木本雅弘さん名義に変更しています。
これによって夫である内田裕也さんは不動産を相続することができませんでした。
これについて樹木希林さんは生前このように言っていました。
「お金があったら一晩で全部使っちゃうから、夫には遺産を残しません」
これは彼女の本心だったと思います。
そして、この遺志は別な効果も発揮します。
夫の裕也さんは樹木希林さんが亡くなった半年後に死去しました。
内田裕也さんは不動産を相続していなかったので一人娘の也哉子さんは相続手続を二度行う
煩わしさから免れたのです。
おそらく樹木希林さんは、自分の死期をある時点で悟っていたのではないでしょうか。
「『人は死ぬ』と実感できれば、しっかり生きられる」
という、名言も遺しています。
樹木希林の晩年は病魔との戦いだった
彼女はこの世を去る十数年前から病気と壮絶な闘いを繰り広げていました。
2003年の網膜剥離で左目の視力を失い、2004年には乳がんが見つかり、右乳房の全摘出手術を受けています。
一度は完治報告したと言われましたが、その後全身に転移します。
2018年8月には大腿骨を骨折し緊急手術を行いました。
あれほど気丈だった彼女も度重なる病に抵抗する体力は残っていなかったのでしょう。
2018年9月15日2時45分、東京都渋谷区の自宅で家族に看取られ静かに目を閉じました。
75歳の生涯を全力で走り抜けた、安らかな眠りでした。