『核のごみ』とは高レベル放射性廃棄物のことだが、その最終処分場の候補地に北海道内の二町村が手を挙げた。
最初に手を挙げたのは、後志地方の寿都町。
そのあとを追いかけるようにやはり後志地方の神恵内村が名乗りを上げた。
神恵内村は村民が820人と北海道でも2番目に人口の少ない村だ。
江戸期からニシン漁が行われ、戦前まではそれなりに賑わったが、今は過疎地の典型で年々人口が減っていくだけの神恵内。
漁業以外の産業はほぼないと言っていいだろう。
ニシンで賑わった往時をわずかに偲ばせるのが、毎年7月に行われる神恵内沖揚げまつりだ。
神恵内村の沖揚げまつりに残るニシン漁の賑わい
今年で第42回を迎えた神恵内沖揚げまつりは、毎年7月第一日曜日に行われる。
来年はいつものように村を挙げた祭りになることを祈りたい。
前浜でとれた生ウニ、アワビ、ホタテ、ツブ貝などを丼や焼き物して、その場で食べられるのが沖揚げまつりの由来だ。
何といっても一番人気はウニ丼の1200円ですが、いつも600食ほどの限定販売になりますので、お目当ての方は早めの来場が良いでしょう。
イベントでは北海道を代表する民謡ソーラン節の元唄でもある龍神鰊場沖揚げ音頭。
江戸時代からの伝統を誇る松前神楽。
地元中学生による太鼓の打演や小学生による ソーラン演舞など、神恵内村伝承の芸能を村民挙げて披露する。
このお祭が始まったころの開催場所は、村の北端に位置する西ノ河原だった。
ジュウボウ岬をはさんで小さな二つの湾があり、左右の湾が全く違う色のたたずまいであるのが特徴だ。
高台に立って見下ろすと岬の左に位置する湾は、藍のように濃い青を深々と湛えている。
一方の小さなコバルトブルーの湾は、海底に揺らめく昆布の一本一本が数えられるほど澄み切った淡い青だ。
まるで岬を分けて海の底から、サファイアとエメラルドの伝説が、訪れる人々に語りかけてくるようなのだ。
陸地からは近寄れず民家は一軒もなく、お地蔵さんと社が浜にポツンと建っていて、神秘さえ漂う風景だ。
狭い浜の両側は鋭い絶壁と奇岩に遮られ、知床と並ぶ北海道最後の秘境と言われていたが、1996年(平成8年)11月、国道229号線が開通して秘境の冠は外された。
だが、現在でも国道から陸地を伝って西ノ河原に降りるには困難を極める。
国道の開通間もないころには、険しい崖を昇り降りする散策路が整備された時期もあったが、今は荒れ放題で通る人はいない。
冬は誰も近寄らないが、夏になると漁船をチャーターした観光客やモーターボートで上陸する人たちもいる。
二つの湾のうちコバルトブルーの湾に仮の桟橋を作り、漁船を係留できるようにして始まったのが沖揚げまつりだ。
何隻もの漁船が人や食材、太鼓などを運んで祭りは行われた。
この頃は観光客と言っても、地元出身の人が里帰りして参加する程度だったから、村民の手作りによる村民のためのお祭だった。
何と言っても陸の孤島だから天候に大きく左右され、時化や強い雨の時は村役場の近くに会場が変更になった。
日本海の特に岬の近くは潮の流れや波の変化が速く、たとえ晴天であっても風の吹きようで、海は急に荒れ模様となるから要注意なのだ。
日和を見ながら、時には大幅に時間を短縮して祭りを切り上げることもあった。
人や荷物の運搬のために村人たちが苦労してこしらえた仮の桟橋も、台風の大波で土台から根こそぎ持っていかれてしまう。
それ以降は現在の役場周辺で行われ、観光客も多く参加するようになった。
昭和40年代初めのころまでは、コバルトブルーの湾に面した渚は砂浜だったのだが、覚えている人は少ないだろう。
私がこの二つの湾を高台から眺めたのは、20年以上も前のことだった。
小高い山の斜面から眺めた湾は、右にゆったりとエメラルド、左に鮮やかなコバルトが横たわっていた。
あの日の海はいつまでも忘れないだろう。
生涯どこで見た風景よりも素晴らしい眺めだった。
お地蔵さんは古くからあり、初夏にはお祭りが行われた。
お祭と言っても地元の人がお供え物をし、有志が集まって浜辺でお弁当を食べ、酒を酌み交わす程度のささやかなものだった。
丁度その時期に咲くのが、砂浜に自生していたハマナスだったのだが、今は見られない。
砂はいつの間にか強風で吹き飛ばされ、波にさらわれてしまったのであろう、現在は見る影もなく岩浜になっている。
お地蔵さんを守りお祭を行っていた、オブカル石とノット地区にはもうだれも住む人はいない。
西ノ河原に隣接したオブカル石とノット地区の近代化は著しく遅れた。
数十戸の人家があり、小学校まであったのにノットに電気が引かれたのは、何と昭和38年ころだった。
オブカル石はさら数年遅れ、ノットとオブカル石の中間にあった安内小学校は、その時すでに廃校になっていた。
自動車が走る道路はさらに遅れ、国道229号線が開通する平成8年まで待たなければならなかったのだ。
この時点でオブカル石にはすでに住む人は一人も存在せず、ノットは3戸5人が住むだけとなっていた。
北海道の難所と言われた積丹半島の突端近くに位置し、いかに困難な絶壁に囲まれていたかを語るには充分な開発の遅さだ。
その分だけ、海の恵みは昭和の終わりまで何とか保たれていたが、しかしこの地区にはもうだれ一人漁師はいない。
人と時は移ろう。
しかし、サファイアとエメラルドの湾は悠久であり、伝説を秘めた海は語るがごとく今日もたゆたうのだ。
神恵内・カモエナイの地名は、アイヌ語の美しい神の沢を表す「カムイ・ナイ」に由来するとされ、地形がけわしく、人が近づきがたい神秘な沢を意味するようだ。
人が近づきがたい神秘な沢と言うよりは、人が近寄れない断崖ばかりのこの村は明治から大正、昭和の戦前までニシン漁で栄え、最盛期には5,600人ほどの人口を有した。
特に明治期から大正期にかけては豊漁が続き、ニシンの置き場である袋間を確保するのが大変だったと伝えられているほどだ。
その人口も2012年12月に1,000人を割り込み、北海道内では音威子府村に次いで2ヶ所目の村となり、現在は8百数十人まで減っている。
海を目の前に見て、崖に張り付くように細長く散らばる民家。
海岸に沿って曲がりくねり、数々のトンネルを潜り抜けて走る国道229号線。
産業と言ったって高齢化著しい漁業と数件の商店だけ。
それ以外は何もない村だが海と岬を眺めながら、国道を風のように走り抜けると絶景が続く。
国道を挟み海と反対側には小さな沢がいくつも点在するのだが、車からだとほぼ誰も気が付かない。
今はもう道なき道と化したこの沢をたどると、村の忘れられた歴史が眠っている。
先人たちは鬱蒼たる原始林にわずかな平地を見つけては畑を耕し、小高い大地を削っては学校を作ったのだ。
豊富な魚と自前の畑作で命を繋ぎ、子どもを育て、手づくりの学校で教育を施し、やがてそこで学んだ多くの子どもたちは村を支え、或いは道内各地へ、そして内地へと散らばって神恵内の開拓精神を継承しているのだろう。
神恵内に限らず積丹半島の険しい海岸線をたどると樹木に覆われて、多くの学校跡が眠っている。
昭和時代に廃校となったところは、地元の人でも容易に分からないところさえある。
絶壁に遮られ陸路では超えられないような狭い浜を見つけては、鰊漁を営むために住み着いた人々。
少しずつ戸数が増え、子どもも生まれたが陸路を歩いて遠くの学校に通うことは困難だった。
そんな僻地でも50戸程度の集落があれば、明治から戦前にかけての国、道、町村は学校を建てたのだ。
子どもの将来と国の行き方を考え、日本は国を挙げて教育に注力した。
本州から北海道へ渡った先人たちは、食うや食わずの時から子どもの教育に目覚めたのだったから、偉大と称賛する他ない。