石原裕次郎さんが亡くなって、もうすでに35年の歳月が流れました。
生前に収録していた『北の旅人』が大ヒットし、いまでもカラオケなどで歌い継がれています。
彼は生まれついてのスターで、死後も大スターなのです。
最終的な死因は肝臓がんでしたが、長く彼を苦しめたのは『解離性大動脈瘤』でした。
石原裕次郎の検索数は現役人気俳優をしのぐ!
「光陰矢の如し」と言いますが、月日が過ぎ去っていくのは、本当に速いものです。
裕次郎さんと言えば、若かりし頃は日活のアクション俳優として大活躍。
リリースされる歌も次々に大ヒットします。
若い頃から主演する映画の主題歌が、ことごとくヒットする稀有な俳優です。
映画が斜陽期に入るとテレビに進出し、刑事ドラマのボス役として類まれなる存在感を示しました。
その石原裕次郎さんの人気は、いまだにすごい人気を誇ります。
インターネットのグーグルで検索する人が、とても多くいるのです。
グーグルで検索される数が、1ヶ月で11万から12万回です。
この数のどこが凄いのかと言いますと、他の現役俳優さんの検索数と比較すれば彼の根強い人気は一目瞭然です。
例えば、石原裕次郎さんの愛弟子であり、長い間石原プロに所属し、今でも大活躍の舘ひろしさんより、かなり多く検索されています。
映画やテレビの主演クラスである、佐々木蔵之介さんや役所広司さんよりも多いのです。
年齢的にはこの二人の一世代下にあたる、中堅俳優の小泉孝太郎さんよりも多いので、本当にびっくり。
検索数だけを見ると渡辺謙さんと同等の注目度を誇っているのです。
ちなみに若手俳優の人気トップを争う、吉沢亮さん、横浜流星さんクラスになると一月50万から70万回検索されます。
インターネット検索は若い世代ほど多くなりますので、そのような点を考慮すると、さらに石原裕次郎人気の凄さがわかるのです。
グーグル検索が人気バロメーターのすべてとは言いませんが、一つの目安であることは、否定できません。
石原裕次郎さんのいまだに続く人気の秘密と魅力を追ってみました。
石原裕次郎の魅力と人気の秘密とは?

裕次郎さんのデビューは普通の俳優とはかなり違うものでした。
彼の兄である石原慎太郎さん原作の『太陽の季節』が、日活で映画化されることになりました。
1986年のことです。
この時のプロデューサーが水の江瀧子さんでした。
彼女は裕次郎さんには俳優としての資質があることを見抜きます。
何とか俳優に仕立てたい彼女はあれこれ考えを巡らせ、あるアイデアを思いつきました。
ヨットの操縦指導や若者の生活スタイル指導などの名目で、アドバイザーとして裕次郎さんを撮影に参加させることにしたのです。
スタッフとして撮影現場にいることで、日活関係者の人の目に触れさせ、その魅力に気づかることが水の江滝子さんの狙いでした。
撮影が始まるとその魅力は監督やカメラマンの目にとまります。
学生役で数カットの出演もさせたのです。
映画が公開されると端役ながら長身のスタイルと精かんな顔が映画ファンにも注目され、話題となったのでした。
水の江滝子プロデューサーの目論見が、見事に的中したのです。
その後に映画『狂った果実』が制作され裕次郎さんは、北原三枝さんが相手役になることを条件に主演をOKします。
当時、北原三枝さんはすでに日活の看板女優でした。
それを新人が指名するなど、とても考えられません。
この常識破りをいとも簡単にやってのけるところが、まさに石原裕次郎の魅力なのです。
『狂った果実』は大ヒットします。
これを機に日活は一気に攻勢をかけます。
気を良くした裕次郎さんも、快くオファーに応えました。
デビューした年は、なんと6本の作品に出ています。
この当時は、どこの映画会社もすごい数の映画を作っていたのです。
映画館も2本立てが基本でした。
撮影所も映画館も活気に満ち満ちていた時代です。
やがて、石原裕次郎さんは最初の主演映画『狂った果実』で共演した日活の看板女優・北原三枝さんと結婚します。
大スター同士の結婚は大騒ぎになりました。
このころはまだ人権意識が低く、映画会社の意向が強く働く時代だったのです。
俳優同士の結婚はご法度でした。
したがって、二人の結婚には日活本社が大反対します。
1960年ですから、時代は60年安保闘争のど真ん中です。
デモに参加していた女子大生が死ぬなど、世の中は暗いニュースばかりでした。
そんな中で発表された二人の婚約は明るいニュースとして話題になり、世間からお祝いムードで歓迎されたのです。
二人の結婚により、翌年には長門裕之さんと南田洋子さんも結婚し、俳優同士の結婚や監督と女優の結婚などが相次ぐようになりました。
このように石原裕次郎さんは、次々と常識やタブーを破り、先例をつくる役目を果たしたのです。
それにしても、時として世の中には信じられないことが起きます。
実は、石原裕次郎さんは『太陽の季節』で水の江滝子さんに見いだされる前、東宝と大映のオーディションを受けてことごとく落ちていたのです。
いやいや、それだけではありません。
当の日活もオーディションで不採用にしていたのですから、驚きます。
水の江滝子さんの慧眼、恐るべしです。
もう一人、昭和の大スター三船敏郎さんのケースも似た部分があります。
三船敏郎さんが東宝ニューフェースの試験を受けました。
監督やプロデューサーなどで構成された5人の試験官は全員不合格にします。
だが、たまたま現場に居合わせた女優の高峰秀子さんが、野性的な三船敏郎さんにひらめきを感じたのです。
彼女は撮影所を駆けずり回り、やっとの思いで黒澤明監督を見つけました。
対面した黒澤監督の鶴の一声で三船敏郎さんの合格が決ります。
人生とは本当に微妙なものです。
たた、この二人には共通点があります。
戦後の荒廃から立ち直りつつあった当時の日本において、映画は国民最大の娯楽でした。
そして、人気俳優と言えば色白で整った目鼻立ちの優男(やさおとこ)が主流だったのです。
ところが二人は、実に個性的でした。
精悍、野性味、開放的、男くささが特徴だったのです。
一見、ニーズにそぐわないように見えますが、実は時代が求めていたのは、二人のような強烈な個性だったのです。
これに気づいた、水の江滝子さん、高峰秀子さん、黒澤明監督らのセンスと見る目が並ではなかったのでした。
石原裕次郎さんがオーディションにことごとく落ちた理由は、当時流行の最先端を行く映画関係者でさえ、近視眼的な発想しか持たなかったからでしょう。
だが、ごく少数の人は彼の規格外とも言える個性に、大きな可能性を見い出していたのでした。
三船敏郎さんも同じケースです。
石原プロが大赤字だったから、太陽にほえろと西部警察が誕生した?
石原裕次郎さんは長年抱き続けていた夢を実現するため、1962年石原プロを興します。
そして、小型ヨットで太平洋単独無寄港横断に成功した堀江謙一さんをモデルに『太平洋ひとりぼっち』を製作しました。
その後も三船敏郎さんと共演した『黒部の太陽』過酷な自動車レースを描いた『栄光への5000キロ』など、男の生き様を描いた作品を多く発表します。
これこそが裕次郎さんの演じたかった世界です。
映画を通じて伝えたかったメッセージだったろうと思われるのです。
だが、テレビに押され映画の斜陽に一層拍車がかかります。
石原プロは巨額の赤字を抱えました。
テレビ局は刑事ものの企画で再三、裕次郎さんへ出演を持ちかけます。
映画人としてのプライドだったのでしょうか、彼は断り続けたのです。
このままでは石原プロが危ないと思った盟友の、枡田利雄監督が説得に乗り出しました。
こうして生まれたのがテレビ番組『太陽にほえろ!』だったのです。
このドラマも、それまでの常識を破るものでした。
事件そのものより、事件を追う刑事たちのストーリーが中心です。
裕次郎さんが演じるのは『ボス』こと藤堂係長で、部下の新米刑事には新人俳優を抜てきします。
これがとても新鮮で、ドラマは大きな話題を呼びました。
今度の新人はどんな形で殉職するのかが、大きな話題となった異色の刑事ドラマだったのです。
新米刑事役でこのドラマから巣立った俳優はその後、大活躍をします。
マカロニと呼ばれた萩原健一さんをはじめジーパンの松田優作さん、渡辺徹さん、神田正輝さん三田村邦彦さん、勝野洋さん、沖雅也さんなど、実に多彩な顔ぶれです。
伝説のドラマ『西部警察』が『石原軍団』の言葉を生んだ!
石原プロはその後も『大都会』シリーズを製作します。
渡哲也さんが刑事で、裕次郎さんは新聞記者という設定でした。
そして、ついに登場します。
伝説のドラマ『西部警察』がスタートしたのは1979年10月のことでした。
このドラマがスタートすると『石原軍団』という言葉が俄然有名になります。
石原裕次郎さんを頂点に渡哲也さんがまとめ役となった男の絆が人々の心をとらえて離しませんでした。
石原裕次郎さんを語るうえで、絶対に欠かせないのが、石原軍団の固い絆です。
これは裕次郎さんの人柄抜きにはあり得ません。
とても多くの俳優やスタッフに慕われていた、裕次郎さんあればこその『男の絆』だったのです。
石原裕次郎さんは歌手としても超一流でした。
「嵐を呼ぶ男」「赤いハンカチ」「夜霧よ今夜もありがとう」など映画の主題歌がこれほどヒットした人は他にいません。
石原裕次郎が生前に収録していた『北の旅人』が大ヒット!
石原裕次郎さんの後半生は病魔との戦いでした。
最終的な死因は肝臓がんでしたが、彼を長い間苦しめたのが『解離性大動脈瘤』でした。
1978年、慶応病院で最初の手術を受けてからは入退院を繰り返します。
何度か復帰しましたが、1987年7月15日ついに力尽きて帰らぬ人となりました。
52歳ですから、本当に早すぎます。
生前に収録していた『北の旅人』と『我が人生に悔いはなし』が没後に発売されます。
両方ともヒットしますが『北の旅人』は125万枚を売り上げる大ヒット曲となりました。
今でも、カラオケで大人気です。
裕次郎さんの甘い声が心に響く、とても魅力的な一曲です。
北の旅人がたどり着いたのは岬の外れ。
北海道の釧路、函館、小樽と別れた彼女を探して旅する男の歌です。
季節は晩秋から初冬。
恋人に巡り合えない寂しさともどかしさが、曲と歌詞を通して哀愁を誘います。
裕次郎のスター性を見抜いていたカメラマン
実は映画『太陽の季節』で石原裕次郎さんのスター性を発見したのは、水の江滝子さんばかりではありませんでした。
カメラを担当していた伊佐山三郎さんはエキストラとして参加していた裕次郎さんをファインダー越しに覗いて驚きます。
水の江滝子さんを呼び「あそこに将来の大スターがいる」と告げたのです。
それで急遽、端役が与えられました。
石原裕次郎さんは生まれついてのスターであり、永遠の大スターなのです。