人間、長い間生きていると一度や二度は、誰だって死にたいと思う。
この世から消え去っていしまえば楽になる。
あの世なんてどんなところが分からないが、ともかく現状からオサラバしたいのだ。
でも、サヨナラしてはいけない理由がある。
だから死ぬのはとりあえず止めましたました。
いやいや、死んではいけない理由が思い浮かぶのは、本当は死にたくないのだ。
それでも、寝床につくときはいつも思ったものだ。
「このまま明日が来なければいいのに」
だが諦めなかったから、思いは通じた。
死ねば成しえないことでも、生きている限り可能性はある。
心から願えば思いは通じる!
ある日、取り引き先である信用金庫の専務から呼ばれた。
会議室に通されて数分も立たずに若い社員二人を伴って、悪人面の専務が入って来た。
「本日はお忙しい中、お越しいただいてありがとうございます。
社長は何かとお忙しいでしょうから、早速本題に入らせていただきます」
この専務は見かけはいかついが、小柄で実に腰が低く穏やかな人だった。
言葉遣いも丁寧で、長い付き合いだったが怒った姿は見たことがない。
「社長、あなたはまだ若い、このままじゃ終われないでしょ?
金融機関だって、黙って指をくわえて見ているばかりじゃありません」
「2千万円追加融資しましょう。
これで何とか次の方策を考えてください」
「ただし、あなたが社長をしている会社には融資できません。
社内稟議が通りませんから。
別会社で結構ですから、誰か他の方を社長にして下さい」
私の経営する会社は当時、約20億円の借金を抱えていた。
返済は滞り督促状が毎週のように届いた。
20億円のうち、5億円は借用書のない借入金だった。
これに関しては督促状は来ないし催促の電話すらなかったが、ある意味通常の借金より道義的な負担を感じさせた。
幸い妻がしっかり者だったから、彼女名義の預貯金には一切手を付けていなかったので、生活費はそれを崩して急場をしのいでもらっていた。
私個人の預金は使い果たしていた。
資産も売れるものはすべて売り払い、ほぼゼロ。
住んでいる家だけは何とか残っていた。
それも、この信用金庫の住宅ローンが一番抵当についていたので、何とかなっていたのだった。
信用金庫が売却と言えば売却せざるを得ず、競売にかけられても文句は言えない状況だった。
そんな状況で2千万円の融資は、これはもう本当にありがたかった。
私はすぐに専務に言われた会社の社長に娘を据えた。
当時は20歳になったばかりで、都内の女子大に通っていた。
まだ世間知らずで、素直な性格であったから父親の言うことには黙って従った。
当時、中小企業の借り入れ金はすべて社長が個人保証するのが習わしだった。
娘は2千万円の保証人として、その責任を背負うことになったのだ。
貧すれば鈍する。
もしこの2千万円の返済が滞ったら、個人保証させられた娘はどうなるか?
そんなことに思いを巡らす余裕など全くなかった。
まさしく藁をもつかむ思いだったのだ。
何か特殊な技術を持っているわけでもなし、これといった才能があるわけでもなかった。
若いころからほぼ営業一筋だったが、その営業が実はあまり好きじゃなかった。
そんな情けない男だったから、あれこれ情報が入ってきても何をやったらよいか具体策を見い出せないまま、1年はあっという間に過ぎ去った。
何もできずに、生活費や他の借金返済に回し、2千万円はほぼ1年で使い果たしてしまった。
信用金庫の対応はがらりと変わり、すべての借金返済を強く迫られ家は競売にかけられた。
何をされても文句を言える立場ではなかったが、娘を保証人から外すことだけは必死にお願いした。
「金融機関は生きている人間を保証人からから外すことはできません。
増やすことはできますが」
返ってくる答えは決まっていたが、こちらもあきらめずに懇願した。
「何も知らない娘に突然請求が来て、ショックのあまり自殺でもしたらどうする」
時には恫喝まがいの言葉を投げかけたが、効果はなし。
そうこうしている間に信用金庫は潰れてしまった。
私の関連債権はすべて政府が設立した『株式会社整理回収機構』に売却された。
当然、娘が保証人になっている2千万円もその中に含まれていた。
私はこの頃、何度も自己破産を考えた。
死ぬことも考えた。
だが、自分が自己破産してしまえば、2千万円の請求は娘に行く。
非情な取り立ての刃は娘に向かうことが、火を見るより明らかだった。
死の選択なんてとんでもない。
責任を娘に押し付けて自分は逃げる、卑怯以外の何ものでもない。
いくら馬鹿な男でも、それだけは許されるものではなかった。
自分が踏みとどまるより他に選択肢はなかったのだ。
1997年の『山一証券』自主廃業を皮切りに翌1998年には『日本長期信用銀行』『日本債券信用銀行』が相次いで倒産し、日本に金融機関倒産のブーム(?)が到来していた。
株式会社整理回収機構の誕生や成り立ちは複雑であるが、簡単に言えばこれら倒産した金融機関の債権を一括して引き受け回収整理に当たる会社だ。
この当時、整理回収機構の本社は地下鉄丸ノ内線・中野坂上駅の真上にそびえる新築ビルに入居していた。
私はそこへ通うことになった。
毎月1回は必ず呼び出しがあって、多くは面談時の終わりに次の面談日時を決めていたような記憶がある。
警備は厳重だった。
面談用の個室に入るまでに3度のセキュリティを通過しなければならなかった。
横浜支社や中野坂上に引っ越する前の本社で起こった、傷害事件が報道されたこともある。
借金している側が整理機構の社員に危害を加えたのだ。
何度目かの面談の時だった。
いつも対応するのは二人だったが、この日は見慣れない中年男が一人混じっていて、部屋に3人入って来た。
面談が始まって間もなく見慣れない中年男が言い放った。
「社長、返す気があるの?
なかったら家に行って布団から何から、みんなしっぺがえして持ってくるよ」
「おい、同じこともう一度行ってみろ!
お前にそんな権利があるのか?
家財の差し押さえは裁判所の判決をもらって、公告期間の後じゃなきゃできないんだよ。
こっちは何度も経験済みなの」
「整理回収機構の社長はホントに弁護士なのかよ。
こんなことも分からないとは。
それに俺は、お前から1銭たりとも借りているわけじゃないんだ」
言い放った男は口を半開きにして、何も反論しなかった。
まるで、酸素不足に陥った金魚のような顔に見えた。
他の二人は明らかに顔が青ざめていた。
「千葉さん、お忙しいでしょうから今日はこのくらいにしましょう」
次の面談日を決めて、その日は整理回収機構の本社を後にした。
整理回収機構横浜支社の社員による違法な取り立てが複数発覚して、責任を取る形で有名な弁護士社長が辞任したのは、その半年ほど後だったと思う。
しかし世の中、何が幸いするか本当に分からない。
あの中年男との険悪なやり取りの後に訪問した時には、回収機構の対応メンバーはすべて変わっていた。
相手は二人であったが交渉のトップはH部長だった。
この人に感謝しても感謝し切れない恩を受けたのだった。
いつものように返済計画を相談し、そのあとで娘を保証人から降ろしてもらうようお願いする。
返事も決まっている。
「気持ちはよくわかりますが、それは無理なのですよ」
それはもう儀式化していた。
この儀式化されたやり取りを何十回重ねたろう。
H部長には回を重ねるごとに、こちらの気持ちが深く伝わっていくようにも感じられたが、やはり返事は変わらなかった。
面談の回数が重なり、もう会っても返済の話などほぼ出なかった。
近況を尋ねられ、世間話が主だった。
必ずH部長は臨席したが、同席する若い社員は何度も変わっていた。
そして、ある日の午後、携帯が鳴った。
「整理回収機構のHです。
千葉さん、明日必ずこちらへ来てください。
私は近いうちに転勤になります。
その前に一度お会いしましょう。
いいですか、明日ですよ明日。
必ず来てください、あなたの損になる話ではありませんから」
翌日の午後、H部長を訪ねた。
この日は部長一人が対応した。
長い交渉で一人の対応は初めてだった。
「この書類を大事に保管しておいてください」
渡された書類にはこのように記されていた。
『金弐千万円の金銭貸借については、保証人の責任は一切問わないものとする』
「どうやっても保証人を降ろすことはできない。
でも、これだと娘さんの責任は問われることはありません。
私共ができることは、これが精いっぱいです」
「いいですか、この書類は絶対に無くさないで下さいよ。
ず~っと保管しておいてください」
私はその書類を持って弁護士のところへ走った。
一連の借金返済で弁護士に依頼したことはなかったが、この書類が法的にどこまで有効かどうか専門家に確認したかったのだ。
私より1歳若い民事専門の冷静な弁護士だった。
「これはうまくやったね。
大したものですよ」
この書類を作成した側が、法律に触れることもないとの見解だった。
娘の保証人で悩み、金融機関に懇願を始めてから8年近い歳月が流れていた。
それから、4年ほどして信用金庫関係の債権数億円すべてが、整理回収機構から別のサービサーに売られたと通知が届いた。
例の2000万円も当然含まれていた。
この頃は、サービサーに勤務経験がある友人もできていた。
彼のアドバイスによってサービサーの借金はすぐに終わった。
正直、H部長から書類を渡されて以降、整理回収機構についての記憶は途切れてしまった。
呼び出しの回数が著しく減ったような思いだけは、薄っすらと残っている。
だが、部長との最後の会話だけは今も鮮明に記憶している。
彼はあの時、エレベータまで送ってくれた。
「もう会うこともないと思うので、お元気で」
「ありがとうございます、部長もお元気で。
何もお礼できなくて」
「お礼なんかもらったら大変なことになるよ」
彼はエレベータのドアが閉まるまで見送ってくれたはずだ。
はず?
そう、私はエレベータに乗って深々と頭を下げままだったから、ドアが閉まった瞬間は覚えていないのだった。
込み上げるものがあって、顔を上げることができなかったのだ。
心から願うと思いは叶うものだ。
人には誠意をもって接することが大切だ。
世間を敵に回しても得るものは少ない。