「失敗が人間を成長させると、私は考えている。
失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う」
日本の戦後復興を語るときに忘れてはならない一人が本田宗一郎です。
浜松市の外れに位置するかなり山深い田舎地方で生まれ育ちました。
終戦間もないころ、奥さんは自転車に乗って遠くまで買い物に出かけます。
「あの自転車にエンジンを付けたら、どんなに楽だろう」
そう思ったことがオートバイ作りのきっかけでした。
元々、機械いじりが大好きで、一度熱中したら止まらないタイプです。
バイクづくりにのめり込み、本田技術研究所を設立します。
だが、間もなく日本を襲った未曽有の不景気で、100以上あったバイク会社のほとんどが倒産。
本田技術研究所も危機に見舞われますが『世界的視野に立て』の社是に共感した三菱銀行の課長が本店を説得して融資にこぎつけ、倒産は回避されたのです。
その後も新しいことに挑戦しては失敗し、失敗しては立ち上がりついには『世界のホンダ』と呼ばれるようになります。
この経験が、冒頭の言葉を生んだのです。
彼はこのようにも言っています。
「私の現在が成功というなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることにある。
仕事は全部失敗の連続である」
本田宗一郎には『挑戦』という言葉が実によく似合います。
『挑戦』も『失敗』もない人生なんて、想像すらできない人だったのです。
本田宗一郎を語るとき藤沢武夫抜きでは語れない。
経営難に陥ったときに藤沢の助言でマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。
有名な出場宣言は藤沢によって書かれたと言われる。
藤沢が亡くなった翌年の1989年に、本田宗一郎が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした。
本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、受賞したメダルを位牌に架け語りかけた。
「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」
本田は社長退職後、全国のディーラー店を挨拶回りした。
ある店で整備担当者が握手をしようと手を差し出したが、手が油だらけなことに気がつき洗いに行こうとする。
しかし、本田はそれを止めて油まみれの手をしっかりと握り返した。