舟木一夫と言えば、なんといっても『高校3年生』です。
1963年6月5日にデビューしましたが、『高校3年生』は発売から1年間で100万枚を売り上げる大ヒットとなります。
その年の第5回日本レコード大賞で新人賞を受賞しました。
このころのレコード大賞は今と違ってとても権威のある賞だったのです。
NHKの紅白歌合戦と並び、日本中が楽しみにしていた1年を締めくくる風物詩の一つでした。
午後7時から8時50分ころまで赤坂のTBSでレコード大賞の発表並びに授賞式が行われます。
それを引き継ぐ形で、9時から紅白が始まるのです。
8時半を過ぎると紅白出場歌手があわただしくTBSを出てNHKに向かいます。
TBSの玄関先から人気歌手が次々と迎えの車に乗り込む映像が流れ、否が応でも紅白気分が盛り上がったものでした。
懐かしいですねえ、誰もが来るべき明日を信じ、日本中が一つになって活気あふれる時代があったのです。
そんな時代を背景に颯爽と登場した舟木一夫は『学園広場』『修学旅行』『仲間たち』など高校生をテーマにした歌を次々にリリースします。
どの歌も大ヒットが続き、いつしか『学園ソング』と名づけられました。
人気はとどまるところを知らず、出演する映画もヒットを連発します。
先にデビューしていた橋幸夫、西郷輝彦と共に「御三家」と呼ばれ、歌謡界の中心的存在に
成長するのです。
舟木 一夫は本名を上田 成幸と言います。
戦国時代の武将を彷彿させるような名前ですね。
もしかしたら、あなたもそう思っていませんか?
思っていたならば、とても勘の鋭い方です。
実は「成幸:しげゆき」という名は、戦国武将の楠木正成と真田幸村から一字づつ頂いて名づけられました。
そんな彼は現在の愛知県一宮市で1944年〈昭和19年〉12月12日 に生まれました。
2023年の誕生日を迎えると79歳になります。
血液型はO型で身長172cmですから、当時としては大きい方でした。
さて、舟木一夫と言えば青春歌謡とは別に忘れられない歌があります。
時代劇の主題歌『銭形平次』です。
大川橋蔵さん主演で1966年5月4日から1984年4月4日までフジテレビが放送しています。
『銭形平次』はスタートから大好評でドラマ史上最長の全888話という金字塔を打ち立てました。
ギネスブックで世界記録に認定されているそうです。
主題歌は第一回目の放送から、舟木一夫が歌い、番組冒頭で流れます。
『高校3年生』も懐かしいが、大川橋蔵さんも懐かしいですね。
実は大川橋蔵さん主演で舟木一夫が主題歌を歌った『銭形平次』は善人を主人公にした時代劇の
ハシリだったのです。
このドラマのヒットによって『水戸黄門』など庶民の味方である善人を主人公にした時代劇が次々と放送されるようになりました。
『銭形平次』ヒットの裏には舟木一夫の素晴らしい歌声もかなり貢献したと思われます。
フジテレビは1984年で『銭形平次』の放送に一区切りつけましたが、1991年には、北大路欣也主演で復活しました。
この時も主題歌は同じで、舟木一夫が歌っています。
最近はまたBSフジで再放送されるなど『銭形平次』は、ドラマも歌も人気は衰えないようです。
「男だったら一つにかける」
この出だしのフレーズを覚えているファンも多いのではないでしょうか。
しかし、スタートからゴールまで一直線に順風満帆で走り切れないのが人生。
人気絶頂だった舟木一夫にも低迷期がやってきます。
歌は歌謡曲からフォークソングなどへ主流が移り、多く出演した青春映画もやくざ映画に追われるように廃れてしまうのです。
そうなるとテレビからも、お呼びがかからなくなってしまいます。
芸能界の厳しいところです。
仕事は激減し舞台と地方公演で何とかしのぐ、冬の時代が訪れます。
ファンレターは1日に2000枚~3000枚、年賀状は12万枚も届いた歌謡界きっての人気者でした。
そんな彼にテレビ出演の話さえなくなるのですから、精神的なショックははたから見る以上に大きかったのでしょう。
彼は1970年、1971年、1972年と3度も自殺を図ります。
しかし、不幸中の幸いというべきでしょう、3度とも未遂に終わりました。
心身の不調は続きます。
1973年から74年にかけての10ヶ月間を静養にあてました。
芸能活動を再開した舟木一夫ですが、簡単に不幸から逃れることはできません。
1977年に父親が他界、そして1984年には13歳年の離れた弟が不慮の事故で亡くなってしまいます。
年の離れた弟を舟木一夫は小さい時からとてもかわいがっていました。
だが「兄の心、弟知らず」とでもいうべきでしょうか。
不肖の弟でした。
人気歌手、舟木一夫の稼ぎを当てにしたのか、成人しても定職に就くこともなく、怪しげな連中と付き合うこともあったのです。
そんな弟がある日、母と一緒に飲食店をやりたいから資金を援助して欲しいと言ってきました。
はじめは反対しましたが、弟が独り立ちするいい機会になればと考え出資します。
だが、危惧した通り経営は破綻し、2億円を超える借金が残ったのです。
舟木一夫がすべて返済することになりますが、この借金を巡って弟とけんかになり、そのまま二人は疎遠になってしまいます。
そして2年ほどたったある日のことでした。
舟木一夫さんの元へ届いたのは、弟さんの死亡の知らせでした。
家の鍵をなくし非常階段からベランダ伝いに自室へ入ろうとして転落したのだといいます。
酒を飲み酔っ払っていたようです。
26歳という若さでした。
十数年にわたり厳しい冬の時代が続いた彼ですが突如として、人気が復活します。
地方公演に多くのファンが押し掛け盛況が続いたのです。
中心になったのは、舟木一夫さんの絶頂期に青春を過ごした女性たちでした。
私はこの動きをメディアが騒ぐ前から知っています。
というのは、友人の奥さんが舟木一夫のバックコーラスを務めていたからです。
友人は池袋でバーを開いていて、彼自身も音楽の道を志したことがあったようです。
バーでは一日に2回ほどギターの弾き語りをやるなど歌が好きで上手でした。
その友人のバーへ顔を出すたびに奥さんは北陸へ行っているとか、今回は九州だとかいう
ことを聞きます。
「舟木一夫の人気がすごいことになっているらしいよ」
とよく言っていました。
彼女はライブを開くなど単独で活動していたのですが、事務所の紹介で舟木一夫のバックコーラスを一回だけ務めることになったのだそうです。
ところが、その実力を認められて地方公演に毎回誘われるようになりました。
舟木一夫の人気が上がるたびにギャラも上がるのですが、ちょっと可愛そうな面もあったのです。
当時、友人夫婦は新婚さんでした。
地方公演ともなれば1ヶ月以上帰れないのが当たり前です。
バックコーラスでこうですから、芸能人の仕事も決して楽ではありません。
ところで舟木一夫の家庭の話はあまり聞きませんね。
彼は1974年4月29日に結婚していて、息子さんが一人います。
奥さんの名前は紀子さんといいますが、音楽の大学を出ている才媛です。
舟木一夫の芸能人生は波乱に満ちていますが、現在はとても元気に地方公演を精力的にこなしています。
地方公演のスケジュールは2023年4月まで、びっしり埋まっているほどです。
少し前の話に戻りますが、1990年代半ばになると彼の人気復活がメディアでも取り上げられるようになりました。
1997年には念願だった新橋演舞場での初座長公演を行っています。
これをテレビが取り上げ、楽屋まで潜入してインタビューしていました。
インタビュアーが亡き弟さんについて質問すると彼は目頭を押さえてこういいます。
「弟のことになるとダメなんだよなあ。
確かに出来が良いとは言えなかったけど、たった一人の弟だから、思い出すと本当にダメなんだ」
声を詰まらせ、顔をあげることができないようで見ていて切なかったですね。
どれほど可愛がっていたのか、痛いほど伝わってきました。
辛いこと、悲しいことを乗り越えてたと言っても、人は100%その痛みを忘れることはできません。
舟木一夫さんには、そんな数々の想いを心に抱きつつファンのために、まだまだ青春の歌を歌い続けていただきたいものです。