柄本明は東京銀座の木挽町で生まれました。
歌舞伎座の近くで、現在の銀座6丁目です。
印刷屋を営む両親は芝居や映画が大好きで、家ではいつも映画と芝居の話ばかりしていました。
そんな環境で育った彼は必然的に映画ファンになり少年時代は映画館に入り浸っていたのです。
父が経営する印刷屋は、やがて倒産してしまいます。
一家は銀座の木挽町から杉並区へ引っ越ししました。
柄本明は映画好きだった両親の影響を強く受けた?
柄本明一家が引越ししたのは、西武新宿線の下井草駅界隈です。
この西武線沿線は映画館の宝庫でした。
野方に東宝と大映、新井薬師には薬師東映と東宝三番館沼袋には沼袋映画と、映画ファンにはたまらない地域だったのです。
そのせいかどうか知りませんが、この地区には今も下積みの芸人さんや売れない芸能人が多く住んでいます。
人情味のある商店が今も一部に残っていて、昭和と下町風の雰囲気を味わえる街です。
また、千秋や柴田理恵さん、冨永愛など多くの芸能人が住む中央線の高円寺や阿佐ヶ谷姉妹で有名な阿佐ヶ谷もすぐ近くにあります。
そんな街に住むことになった柄本明は小学校に入った当時から映画鑑賞に明け暮れる毎日でした。
彼は昭和23年(1948年)生まれですから、小学生の頃なら、まだ日本映画の全盛時代です。
それにしても小学生で3本立てを1日に5回も観た日があると言うのですから、超が付くほどの熱狂的な映画ファンだったのでしょう。
特に好きだったのが中村錦之助の『笛吹童子』でした。
中村錦之助さんは東映時代劇の人気スターでしたが、後に萬屋錦之助と改名します。
『子連れ狼』や『柳生一族の陰謀』など数々のヒット作で主演を務めた日本を代表する時代劇俳優です。
柄本は当時を振り返ります。
「家庭環境ですね。親父とお袋が映画や芝居の話しかしない家でね」
「終戦間もない頃で、みんなものすごい貧乏だったから映画を観ると浮世の苦しさを忘れることができた」
このように言ってますが、納得できますね。
そして、このようにも言ってます。
「貧乏な日本人はみんなアメリカ映画を観て、生活の豊かさに圧倒されて打ちのめされたものですよ」
これは確かにそうです。
映画ではなくテレビドラマの話になりますが、昭和30年代、日本に白黒テレビが普及したころ人気だったのがアメリカの『奥様は魔女』でした。
主人公はアメリカの中流家庭の奥さま。
ですから、家の中のシーンがよく画面に映ります。
これを見て多くの日本人はビックリ仰天したものです。
奥様のサマンサが部屋を掃除するのは電気掃除機で、お料理する台所には大きな冷蔵庫があります。
洗濯だって電気洗濯機に洗濯物をぶち込めば、全部機械がやってくれるのです。
テレビはあっても、冷蔵庫や洗濯機がない家庭が多かった時代の日本でした。
珍しかっらたから、頭に『電気』をつけて『電気洗濯機』と呼んだのです。
日本人のショックはまだまだ続きます。
トイレは水洗で、壁にはトイレットペーパーが備え付けてあります。
日本はまだ、茶色っぽいチリ紙を使っていた時代です。
田舎地方では、新聞紙でお尻を拭いていたところもあったほどですから、驚きは想像いただけると思います。
極め付きは、長方形の箱から何やら白くて薄い紙を取り出し、おてんば娘の口元を拭いてやるのでした。
貧乏人にとって、これがティッシュペーパーだと分るまでには、少し時間が必要だったのです。
柄本明少年もその一人でした。
多感な少年だった彼は、多くの映画を観て小学生時代から漠然と役者への憧れを抱きます。
彼は両親や友人と映画の内容や役者についてよく議論しました。
少年の頃はず〜っと貧乏でしたから映画や芝居について芸術論を戦わせていると貧乏も嫌なこともすっかり忘れることができたと言います。
そのような環境で育った柄本明ですから、学業を終えるとすぐに役者を志したかと言えばそうではありません。
工業高校へ進学した彼は卒業後、精密機械を扱う商社へ就職しました。
20歳になった年の暮れ、友人に早稲田小劇場へ誘われます。
『どん底における民俗学的分析』と題した演劇だったのですが、これが面白かった。
彼曰く
「笑えてしょうがない。くだらないくらい面白かった」
と、彼らしい独特の表現ですが、かなりの衝撃を受けたようです。
そして考えます。
「このまま会社員でいいのか?」
彼は年が明けて早々に決断しました。
この決断を下したエピソードが、実に彼らしくてユニークなのです。
上司が行った新年の挨拶を聞いているうちに気持ちが固まったのだといいます。
「よし、会社を辞めて役者として生きていくぞ」
こうして新年早々、彼は辞表を提出したのです。
柄本明は『劇団東京乾電池』を自ら主宰する
役者で生きていくことを決めた柄本明が選んだのは、金子信雄が主宰する劇団『マールイ』でした。
『マールイ』の演劇教室に入り、松田優作などと知り合ったのです。
教室で演劇を学んだあと、彼は『自由劇場』に参加します。
しかし、劇団専属の脚本家が書く芝居とは肌が合わず、2年ほどで退団してしまいました。
退団してすぐに自由劇場の同僚だったベンガルと綾田俊樹を誘い『劇団東京乾電池』を結成します。
1976年、彼が28歳の時でした。
後に、やはり同じ自由劇場にいた高田純次も合流します。
「不条理の中の渋みのある笑い」をテーマにした『劇団東京乾電池』はすぐに人気劇団となり、テレビからも声がかかるようになっていくのです。
1980年から2年間、フジテレビ系列で放映された『笑ってる場合ですよ!』に劇団として出演し知名度は急上昇します。
しかし、主宰者である柄本明は、劇団に安易な劇団のイメージが定着することを嫌いました。
彼の演出でチェーホフの4大劇を上演して、イメージチェンジを図ります。
200年代に入ると小津安二郎監督の『長屋紳士録』を舞台化して人気を集めるなど、以前の軽い演劇から見事な脱皮を果たして見せました。
柄本明本人は、あの特異なマスクと独特な演技力によって1980年ころから映画にテレビにと引っ張りだこなのはご存じのとおりです。
彼は『釣りバカ日誌シリーズ』でスーさんこと、鈴木社長の運転手役を演じた笹野高史とは、自由劇場時代から続く30年来の親友です。
そしてこの二人は、芸能関係者とはプライベートの付き合いをほぼしなかった、渥美清さんと親交を温めた数少ない役者でした。
3人は連れだって芝居を観たり、時にはバーで酒を酌み交わす仲だったのです。
コントは志村けんさんだけと決めていた!
柄本明の芸で忘れてはならないのが志村けんさんとのコントですね。
『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』に出演し絶妙のコンビぶりを発揮しました。
当時から「コントは志村さんとしかやらない」と柄本明は明言しています。
二人のコントでは、柄本明が奇人変人の強烈なボケ役を演じました。
志村けんさんはツッコミに徹して、爆笑を誘ったのです。
番組の出演に関しては突然、志村けんさんからオファーがあったのだと言います。
しかも、二人はそれまで面識もありません。
これについて志村けんさんはこのように言いました。
「笑いとかやるには得な顔だよ、あの顔は」
そのように感じた志村けんさんは直感的に柄本明へオファーを出したと生前告白しています。
芸達者な柄本明はシリアスな演技だけではなく、笑いを呼ぶ芸もお手の物なのです。
柄本明と言えば芸能一家でスゴイと話題になっています。
ご存じのように長男の柄本佑も次男の柄本時生も俳優です。
柄本明は華麗なる芸能人一家
有名女優の安藤サクラは柄本明の長男である、裕の奥さんになります。
次男・時生の奥さんも女優の入来栞里です。
柄本明には、もう一人長女がいます。
このお嬢さんは芸能人ではありませんが、映画や舞台関係の仕事についているようです。
そして、柄本の奥様も女優でした。
名バイプレーヤーとして有名な角替(つのがえ)和枝さんです。
残念ながら2018年10月27日に癌で亡くなられました。
享年64歳ですから家族にとってかなりショックだったようです。
1年後に行われた『お別れの会』で挨拶に立った柄本明は亡くなった奥様のことを「かずえちゃん」と呼んでいましたので、本当に最愛の妻だったと思います。
あれから4年が過ぎました。
一時は最愛の奥様を失って落ち込んでいた時期もありましたが、彼はすっかり元気を取り戻しています。
昨年はTBSの人気番組『情熱大陸』に出演し変わらぬ演技への情熱を語っていました。
74歳になった現在も、舞台に映画にそしてドラマと大車輪の活躍を見せ、一向に衰えることを知りません。