『波乱万丈の人生』とはよく聞く言葉ですがこの人のようにその表現がピッタリ合う男は、そう多くはいません。
その名はアントニオ猪木。
人の一生は出会いによって大きく左右されます。
自分が自覚するかしないかの別はあっても、誰の人生にもしばしば起きることです。
そして、その出会いによって運命を大きく切り拓いたのがアントニオ猪木でした。
彼の真実を知るためには、まず彼の少年時代を知る必要があります。
アントニオ猪木はブラジルで力道山にスカウトされてプロレスラーになった!
名前とあの風貌から、ハーフだと思っている方も多いと思いますが、アントニオ猪木は日本において日本人の両親のもとに生まれたれっきとした日本人です。
神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)の出身で、本名は猪木寛至(かんじ)です。
1943年(昭和18年)2月20日父・猪木佐次郎さんと母・文子さんとの間に誕生しました。
父の佐次郎さんはアントニオ猪木が5歳の時に亡くなっています。
実家は石炭問屋を営んでいたのですが、戦後の昭和30年代になるとエネルギーの主力は石炭から石油へとシフトします。
主を失ったうえ、あまりにも早い変化に対応できず、石炭問屋は倒産してしまうのでした。
アントニオ猪木が12歳になったばかりのことで、猪木家の生活は厳しさを増していきます。
貧困を抜け出したいとの強い思いから、一家はブラジルへの移住を決意します。
サンパウロ市近郊の農場で家族と共に働く寛至少年でしたが、その労働は過酷なものでした。
コーヒー豆の栽培と収穫に早朝5時から夕方の5時まで汗だくの日々が続いたのです。
そんな完至少年に大きな大きな出会いが訪れたのは17歳の時でした。
地元の陸上競技大会に出場し砲丸投げで優勝した体格の良さに注目した人がいたのです。
たまたまブラジル遠征中だった力道山が完至少年の身体能力を高く評価し、その場でプロレスラーに
スカウトされました。
日本へ帰国した彼は力道山の下で厳しいトレーニングに明け暮れついにデビューのチャンスをつかみます。
1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木寛至でリングに上がりました。
ジャイアント馬場との同時デビューです。
ブラジル帰りのアントニオ猪木とプロ野球ジャイアンツのピッチャーからプロレスへ転向したジャイアント馬場のライバル物語はここから始まりました。
一枚看板としてプロレス界を牽引し、全盛時代を築き上げた力道山が次のリーダーと見込んだのが、この二人でした。
期待の大きい二人に対する指導とトレーニングはこれはもう、本当に苛烈を極めたようです。
『巨人の星』や『明日のジョー』でおなじみの漫画原作者・梶原一騎がデビュー前に二人の練習を密かに見学させてもらったことがあったそうです。
のちに、その情景を次のように書いています。
「まだデビューする前のアントニオ猪木とジャイアント馬場のすさまじい練習を見たらプロレスがインチキだ、八百長だと言うものはいなくなるだろう」
「何がすさまじいかと言えば、練習をする二人の身体から滴り落ちる汗は蒸気となって後楽園ホールの天井へ昇る。
蒸気はやがて冷え、水滴となってリングと二人の身体へぽたりぽたりと落ちてくる」
「もう二人の体内には汗になる水分が残っていないのではないかと心配になってしまうほどだった。
それでも二人は練習をやめない。
力道山もやめさせない」
ため息が出ますね。
デビュー前の練習から命がけだったのです。
楽をして一流になった者は誰一人いない。
それが良くわかるエピソードですね。
デビューを飾ったアントニオ猪木は、師匠である力道山の付き人に抜擢されます。
1962年(昭和37年)にはリングネームをアントニオ猪木と改めました。
しかし、凶刃に襲われた力道山は、1963年(昭和38年)12月15日に死去してしまうのですから、運命とはあがらい難く、予想不可能なものです。
頼るべき大きな存在を失ったアントニオ猪木はアメリカへ武者修行に旅立ちます。
アメリカでの修行によってプロレスラーとして自信を深めた彼は帰国の途に就きました。
盟友のジャイアント馬場と途中のハワイで落ち合う予定だったが、空港で待っていたのはプロレスラーの豊登でした。
「このままでは、いつまでたってもジャイアント馬場の下で終わりだ」
その説得に乗ってしまい、日本プロレスを脱退して豊登らと東京プロレスを旗揚げします。
しかし、準備期間もなく安易に設立された東京プロレスは、わずか3ヶ月で破産してしまったのです。
このピンチは自民党副総裁だった川島正次郎の仲介で、古巣の日本プロレスに戻ることになり、何とか切り抜けられました。
日本プロレスへ復帰したアントニオ猪木は水を得た魚のようにリングで暴れまわります。
ジャイアント馬場とのタッグは、史上最強とまで言われプロレス人気は沸騰しました。
だが、これで収まらないのがアントニオ猪木の生きざまです。
誰が日本で一番強いか決めようではないか。
そんな思いでジャイアント馬場との直接対決を申し入れるが無視されます。
さらには東京プロレスの経理が不透明である事にも不満が爆発し、今度は『新日本プロレス』を旗揚げして再び脱退したのです。
その後は異種格闘技戦を度々行っています。
もっとも有名なのがプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリとの一戦です。
世界各国にテレビ中継されアントニオ猪木は一躍世界の有名人となりました。
そして、参議院議員になり、北朝鮮を訪問するなどプロレスの枠を超えて活躍したことはご存じのとおりです。
さて、アントニオ猪木とジャイアント馬場には長年にわたり確執があったと言われています。
気になりますね。
そこで調べてみたら意外なことがわかりました。
確かに確執はあったが、それは日本プロレス時代のことだったと証言する人物がいます。
馬場さんとの直接対決を無視された当時は対立しましたが、それも活字メディアがあおって話を大きくしたのだと言います。
そのように証言するのは、長年二人を取材してきた東スポの門馬記者です。
彼はまた、このように言っています。
日本プロレスの役員が馬場の悪口を言うと
「そんな悪い人じゃないよ。そんなこと言うもんじゃないよ」
と猪木は庇っていたそうです。
また、次のようにも言っています。
「38年間見てきたけど、あの2人がケンカしたのは見たことがない」
会えばジャイアント馬場は
「おー、寛至、元気~」
アントニオ猪木は
「おー、馬場さん、どうも」
と言っていたようです。
ジャイアント馬場はアントニオ猪木を「寛至」「猪木」って呼んでいたが、猪木さんは「馬場さん」と呼んでいたようです。
アントニオ猪木が5歳下ですから、当然と言えば当然ですね。
だが入門以来、猛練習に明け暮れた二人ですが、デビュー後の待遇には大きな違いがあったことも事実です。
馬場はプロ野球のジャイアンツから入ってきて、ある程度知名度があり、2万円の月給をもらっていました。
かたやブラジルから来た17歳の猪木は、全くの無名であり仕事も遅く、力道山の機嫌が悪いと半端なくぶん殴られていたようです。
馬場は殴られたことが一度もありません。
だから猪木は内心かなり馬場さんへのライバル心が強かったのではないかとも言われています。
しかし、そのような逆境こそがアントニオ猪木をより強くしたのだとプロレス記者の多くは見ているようです。
『燃える闘魂』アントニオ猪木はこのようにしてつくられていったのでしょう。
逆境を跳ね返すことこそ、アントニオ猪木の真髄だったのです。
しかし、燃える闘魂も病魔には勝てませんでした。
アントニオ猪木を襲ったのは『全身性アミロイドーシス』と言われる病気でした。
厚生労働省指定の難病です。
アミロイドーシスは、アミロイドと呼ばれるナイロンのような線維状のタンパク質がさまざまな臓器に沈着する病気です。
心臓に沈着すると心肥大や不整脈が起こり、心不全になってしまいます。
複数の臓器にアミロイドが沈着する『全身性』と、特定の臓器に限ってたまる『限定性』に分類されます。
アントニオ猪木が患っていたのは『老人性の全身性アミロイドーシス』でした。
主に80歳以上に多い病気で、日本人の場合80歳以上の約15%は心臓や腱にアミロイドがたまっているとのデータがあります。
加齢によって機能が低下しタンパク質が増えるなど、老化が引き金になっていると考えられていますが、そのメカニズムの詳細は分かっていません。
天国で待ち構えていたジャイアント馬場が
「よう完至よく来たな」
と迎え、
「おー馬場さん、お久しぶりです」
とアントニオ猪木が答える。
ここまではよかったが、
「馬場さん、対戦の機は熟しましたよ。そろそろどうですか?」
いやはや、燃える闘魂はあちらでも健在のようです。
合掌